表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/30

第9話 奥の気配

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

社務所の奥にある控えの間で、村上、三島、直弦の三人が向かい合っていた。

冷えた空気の中、言葉はなかなか続かなかった。


「蔵へ入れた時点で、こちらはすでに譲っておる」


権宮司(ごんぐうじ)の村上は、低い声で言った。


「それより先は、今夜どうにかしていい場所ではない。外の者を軽々しく神域の奥へ入れるつもりはない。澪も、今夜は休ませる」


村上の声は低いままだった。

それでも、そこから一歩も退くつもりがないことは分かった。


三島は何も言わなかった。

膝の上で組んだ指に、わずかに力が入っていた。


直弦にも、村上の言うことが間違っているとは思えなかった。

だから、口を挟めなかった。


話は、そこでいったん切れた。


直弦は無言で一礼し、蔵の見える境内の隅へ出た。


重い引き戸の奥に仮安置された試料は、一見すると静かだった。

だが、直弦の目には到底収まったようには見えなかった。

試料から伸びる糸は、蔵に馴染まず、一つの方向へ向いて頼りなく揺れていた。


蔵の中だけ、流れから外れている。

直弦にはそう見えた。


それに呼応するように、別室で休んでいる澪の結び目が、また少し脈を打つ気配がした。


岡山の急変ほどではない。だが、置き場所のせいで糸の張り方がどこかおかしくなっていた。


背後の砂利を踏む音で振り返ると、三島が立っていた。


澪の様子を見に行った帰りだろう。

三島の表情は、さっきより硬かった。


直弦と三島の目が合った。

見え方は違っても、同じ違和感に触れているのだと、それで分かった。


「……ここは駄目です。歪みが出ています」


直弦が短く告げる。


三島は小さく息を吐き、頷いた。


「村上に話します。ですが、簡単には……」


三島が言いかけたその時、社務所の廊下から、微かな足音が近づいてきた。


現れたのは、部屋で休ませていたはずの澪だった。

顔色はまだ優れない。少しふらつきながらも、足取りには明確な意志があった。


彼女の背中にある結び目が、直弦の視界の中でチカチカと不穏な明滅を繰り返している。

奥へ行く話を三島から聞いたからなのか、あるいは身体の方が先に気づいたのか。


澪は、蔵の試料から伸びる糸と同じ方向――神域の奥へと、強く引かれるように身体を傾けていた。


「澪。起きてきてはならん」


追いかけてきた村上が、厳しい声で制止する。


「今のお前を、これ以上奥へ入れられるか。部屋へ戻りなさい」


だが、澪は引かなかった。


「置いておかれる方が、たぶん駄目です」


澪は震える声で、しかしはっきりと村上を見返した。


「分かるんです。あっちに行かないと、余計に変になる」


村上の眉間が深くなった。

守るべき澪自身が、危険の方へ進もうとしている。


だが、直弦は澪の言葉が単なる強がりではないことを知っていた。


「僕もそう思います」


直弦はここで初めて、村上に対して明確に言った。


「彼女を外した状態だと、逆に糸の張り方が強くなります。あの石も彼女も、今は同じ場所へ引かれている」


村上の険しい視線が、直弦へ向いた。

だが、澪の様子を前に、すぐには否定しなかった。


「……条件がある」


長い沈黙の末、村上は一つずつ区切るように言った。


「行くのは最小限の人数だけだ。私と清成、そしてお前たち二人。試料は蔵から出さない。まずは場所を見るだけだ。それ以上のことは、私が現地で判断する。何かあればすぐ引く。いいな」


認めたわけではない。

許す範囲を、ぎりぎりまで絞っただけだった。


それでも、村上自身が前へ出る。

直弦を外すことは、もうできなくなっていた。


夜の神域の奥へ。


社殿の裏を抜け、普段は人が立ち入らない山道へと足を踏み入れる。

境内の灯りはすぐ背後に遠のき、玉砂利の音も消えた。

湿った土と木の根が、足の裏に生々しい感触を伝えてくる。


誰も喋らなかった。湿った土を踏む音だけが、山道に残った。


直弦の視界の中で、糸の流れが大きく変わっていた。


本殿の周辺では土地に溶けて見えていた古い糸が、先へ進むにつれて一本一本はっきり見えるようになっていく。奥へ進むほど、糸はむき出しになっていった。


澪の様子も、少しずつ変わっていた。


痛みは引いているようだが、背中の結び目がじわじわと熱を持ち始めているらしい。

澪は無意識のうちに歩幅を変え、右へ左へ、見えないものを避けるように進んでいた。


直弦はそれに気づき、澪の数歩後ろを歩きながら声をかけた。


「そこじゃないです。半歩右」


「えっ?」


澪が驚いて立ち止まる。


「何なんですか、それ」


「少しでも線を跨ぐと、また結び目が引っ張られます」


「いちいち指図しないでください」


「確認です。僕も手探りなので」


不器用なやり取りだった。

それでも、澪の足取りからわずかに硬さが抜けた。


村上は前を歩いたまま、背後の二人のやり取りを黙って聞いていた。何も言わなかったが、澪の感覚と直弦の読みが揃っていることは、もう無視できないようだった。


さらに進み、山肌が不自然に開けた場所に辿り着いた。


そこは、綺麗に掃き清められた社殿や、人の手で整えられた境内とは違っていた。


岩と土と、巨大な木の根が複雑に絡み合いながら露出した、古く澱んだ窪地。自然の造形をそのまま利用した、磐座(いわくら)のように見えた。


その場所に足を踏み入れた瞬間、澪がヒュッと息を止めた。


村上も三島も、そこで足を止めた。

二人の顔色が、わずかに変わっていた。


直弦の視界は青白い光の線で埋め尽くされ、目の前の風景をそのまま受け取れなくなっていた。


蔵に置いたままの試料から伸びる糸。


澪の背中に張り付いた結び目からの糸。


そして、この土地に深く根を下ろした無数の古い糸。


そのすべてが、直弦の目の前――窪地の中心にある、ぽっかりと空いた暗がりへと吸い込まれ、沈んでいた。


ここだ、と直弦は思った。

だが、何かを開くための場所じゃない。もっと昔から、何かをつなぎ止めるために使われてきたように見えた。


「……見るだけでは済まん、という顔をしているな」


村上が、暗がりを見つめたまま低く言った。


直弦の表情の変化を、村上は正確に読み取っていた。


直弦は少し黙り、それからゆっくりと頷いた。


「すみません」


直弦の声が、夜の森に落ちた。


「ここで、繋ぎ直さないと」


その一言のあと、誰もすぐには口を開かなかった。


澪は逃げなかった。

顔色は悪い。けれど、足はその場に留まっている。


片手で胸元を押さえたまま、足元の暗がりをじっと見ていた。

何かを怖がっているのに、それでも目を逸らせない顔だった。


すべての流れが、そこへ沈んでいた。


その先に何があるのか、まだ誰も見ていない。


それでも、今夜はここで終われない。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ