第9話 奥の気配
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社務所の奥にある控えの間で、村上、三島、直弦の三人が向かい合っていた。
冷えた空気の中、言葉はなかなか続かなかった。
「蔵へ入れた時点で、こちらはすでに譲っておる」
権宮司の村上は、低い声で言った。
「それより先は、今夜どうにかしていい場所ではない。外の者を軽々しく神域の奥へ入れるつもりはない。澪も、今夜は休ませる」
村上の声は低いままだった。
それでも、そこから一歩も退くつもりがないことは分かった。
三島は何も言わなかった。
膝の上で組んだ指に、わずかに力が入っていた。
直弦にも、村上の言うことが間違っているとは思えなかった。
だから、口を挟めなかった。
話は、そこでいったん切れた。
直弦は無言で一礼し、蔵の見える境内の隅へ出た。
重い引き戸の奥に仮安置された試料は、一見すると静かだった。
だが、直弦の目には到底収まったようには見えなかった。
試料から伸びる糸は、蔵に馴染まず、一つの方向へ向いて頼りなく揺れていた。
蔵の中だけ、流れから外れている。
直弦にはそう見えた。
それに呼応するように、別室で休んでいる澪の結び目が、また少し脈を打つ気配がした。
岡山の急変ほどではない。だが、置き場所のせいで糸の張り方がどこかおかしくなっていた。
背後の砂利を踏む音で振り返ると、三島が立っていた。
澪の様子を見に行った帰りだろう。
三島の表情は、さっきより硬かった。
直弦と三島の目が合った。
見え方は違っても、同じ違和感に触れているのだと、それで分かった。
「……ここは駄目です。歪みが出ています」
直弦が短く告げる。
三島は小さく息を吐き、頷いた。
「村上に話します。ですが、簡単には……」
三島が言いかけたその時、社務所の廊下から、微かな足音が近づいてきた。
現れたのは、部屋で休ませていたはずの澪だった。
顔色はまだ優れない。少しふらつきながらも、足取りには明確な意志があった。
彼女の背中にある結び目が、直弦の視界の中でチカチカと不穏な明滅を繰り返している。
奥へ行く話を三島から聞いたからなのか、あるいは身体の方が先に気づいたのか。
澪は、蔵の試料から伸びる糸と同じ方向――神域の奥へと、強く引かれるように身体を傾けていた。
「澪。起きてきてはならん」
追いかけてきた村上が、厳しい声で制止する。
「今のお前を、これ以上奥へ入れられるか。部屋へ戻りなさい」
だが、澪は引かなかった。
「置いておかれる方が、たぶん駄目です」
澪は震える声で、しかしはっきりと村上を見返した。
「分かるんです。あっちに行かないと、余計に変になる」
村上の眉間が深くなった。
守るべき澪自身が、危険の方へ進もうとしている。
だが、直弦は澪の言葉が単なる強がりではないことを知っていた。
「僕もそう思います」
直弦はここで初めて、村上に対して明確に言った。
「彼女を外した状態だと、逆に糸の張り方が強くなります。あの石も彼女も、今は同じ場所へ引かれている」
村上の険しい視線が、直弦へ向いた。
だが、澪の様子を前に、すぐには否定しなかった。
「……条件がある」
長い沈黙の末、村上は一つずつ区切るように言った。
「行くのは最小限の人数だけだ。私と清成、そしてお前たち二人。試料は蔵から出さない。まずは場所を見るだけだ。それ以上のことは、私が現地で判断する。何かあればすぐ引く。いいな」
認めたわけではない。
許す範囲を、ぎりぎりまで絞っただけだった。
それでも、村上自身が前へ出る。
直弦を外すことは、もうできなくなっていた。
夜の神域の奥へ。
社殿の裏を抜け、普段は人が立ち入らない山道へと足を踏み入れる。
境内の灯りはすぐ背後に遠のき、玉砂利の音も消えた。
湿った土と木の根が、足の裏に生々しい感触を伝えてくる。
誰も喋らなかった。湿った土を踏む音だけが、山道に残った。
直弦の視界の中で、糸の流れが大きく変わっていた。
本殿の周辺では土地に溶けて見えていた古い糸が、先へ進むにつれて一本一本はっきり見えるようになっていく。奥へ進むほど、糸はむき出しになっていった。
澪の様子も、少しずつ変わっていた。
痛みは引いているようだが、背中の結び目がじわじわと熱を持ち始めているらしい。
澪は無意識のうちに歩幅を変え、右へ左へ、見えないものを避けるように進んでいた。
直弦はそれに気づき、澪の数歩後ろを歩きながら声をかけた。
「そこじゃないです。半歩右」
「えっ?」
澪が驚いて立ち止まる。
「何なんですか、それ」
「少しでも線を跨ぐと、また結び目が引っ張られます」
「いちいち指図しないでください」
「確認です。僕も手探りなので」
不器用なやり取りだった。
それでも、澪の足取りからわずかに硬さが抜けた。
村上は前を歩いたまま、背後の二人のやり取りを黙って聞いていた。何も言わなかったが、澪の感覚と直弦の読みが揃っていることは、もう無視できないようだった。
さらに進み、山肌が不自然に開けた場所に辿り着いた。
そこは、綺麗に掃き清められた社殿や、人の手で整えられた境内とは違っていた。
岩と土と、巨大な木の根が複雑に絡み合いながら露出した、古く澱んだ窪地。自然の造形をそのまま利用した、磐座のように見えた。
その場所に足を踏み入れた瞬間、澪がヒュッと息を止めた。
村上も三島も、そこで足を止めた。
二人の顔色が、わずかに変わっていた。
直弦の視界は青白い光の線で埋め尽くされ、目の前の風景をそのまま受け取れなくなっていた。
蔵に置いたままの試料から伸びる糸。
澪の背中に張り付いた結び目からの糸。
そして、この土地に深く根を下ろした無数の古い糸。
そのすべてが、直弦の目の前――窪地の中心にある、ぽっかりと空いた暗がりへと吸い込まれ、沈んでいた。
ここだ、と直弦は思った。
だが、何かを開くための場所じゃない。もっと昔から、何かをつなぎ止めるために使われてきたように見えた。
「……見るだけでは済まん、という顔をしているな」
村上が、暗がりを見つめたまま低く言った。
直弦の表情の変化を、村上は正確に読み取っていた。
直弦は少し黙り、それからゆっくりと頷いた。
「すみません」
直弦の声が、夜の森に落ちた。
「ここで、繋ぎ直さないと」
その一言のあと、誰もすぐには口を開かなかった。
澪は逃げなかった。
顔色は悪い。けれど、足はその場に留まっている。
片手で胸元を押さえたまま、足元の暗がりをじっと見ていた。
何かを怖がっているのに、それでも目を逸らせない顔だった。
すべての流れが、そこへ沈んでいた。
その先に何があるのか、まだ誰も見ていない。
それでも、今夜はここで終われない。
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