第10話 本調律
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「……やります」
直弦の一言のあと、誰もすぐには動かなかった。
風の音だけが、窪地の上を抜けていく。
目の前には、闇へ向かってぽっかりと口を開けたような暗がりがある。
澪の背の結び目も、蔵の試料も、この土地に残る古い糸も、みなそこへ沈み込んでいた。
権宮司の村上は、暗がりと直弦を交互に見比べた。
その顔には、外の人間に対する警戒だけでなく、神域の深いところへ触れようとする相手を見る緊張があった。
「……できるのか」
村上の声は低かった。
「できる保証はありません。でも、やるしかありません」
村上はしばらく直弦を見ていた。それから、澪へ視線を移した。
「ここまで来て、ただ見るだけでは余計に歪みます。今の彼女は、無理な姿勢のまま重しを背負わされているのと同じです」
直弦の声は、決して強くはなかった。
それでも、退くつもりがないことだけは伝わった。
村上は直弦から視線を外し、澪を見た。
澪は小刻みに震えていた。
それでも、後ろを振り返ることはしなかった。
足は、窪地の方を向いたままだった。
「……清成。灯りを」
村上が、ようやく一歩だけ退いた。
「ただし、少しでもまずいと見たら止める」
三島が無言で頷き、携帯用ランタンの光を足元へ落とした。
直弦は足元の土の上にしゃがみ込み、保冷バッグからシリンジに入った発酵由来緩衝ゲルと、旧配合の塩を取り出した。
村上が、懐から小さな金属製の容器を取り出した。
それから足元に膝をつき、窪地の土を指先でひとつまみ取って、直弦の前に差し出す。
「これも混ぜろ」
「これは」
「祓えに使う清水と、この場所の土だ」
直弦は差し出されたものを見て、ハッとした。
岡山で行った仮調律で必要だったのは、異常な糸を抑え込み、受け流すためのクッションだった。だからゲルと塩だけでよかった。
だが、ここは違う。この窪地に渦巻く古い流れの中へ、試料と澪の糸を正しく編み込む必要がある。
「……外から隔てるんじゃない」
直弦は息の下で静かに呟いた。
「ここでは、繋ぐ方に使うのか……」
村上は何も答えなかった。ただ、容器を差し出した手を引かなかった。
直弦はゲルの中に少量の塩と清水、そして窪地の土を混ぜ込み、均一になるように素早く練り上げた。
「立ち位置を合わせます。僕が言った通りに動いてください」
直弦は立ち上がり、澪に指示を出した。
澪本人が、この場の流れにいちばん無理なく重なる位置に立たなければならない。少しでもズレれば、結び目は流れに弾かれ、彼女の身体を内側から傷つける。
「右へ半歩。……前へ一歩」
直弦は視界に広がる糸の網目を見つめながら、細かく調整を繰り返す。
「そこじゃない。もっと左」
何度も位置を変えさせる中で、澪の背中の結び目が最も自然に脈打つ一点が見つかった。
周囲の古い糸の流れと、最も無理なく重なる場所だった。
「そこです」
直弦は小さく息を吐いた。
「ここでやります」
澪は小さく頷き、震える手でブラウスのボタンに触れた。岡山では志保が間に入ってくれた。
だが今は、自分で決めるしかない。
恐怖も恥じらいも消えてはいない。
それでも澪は、背中側の布地を少しだけ下げた。
村上は何も言わずに背を向けた。
「清成、灯りを下げろ。足元だけでいい」
三島は頷き、ランタンの光を足元へ落とした。
薄暗がりの中、直弦だけが澪の背中側に残った。
澪は肩越しに直弦を睨み、ぶっきらぼうに言った。
「……早くしてください。見たら、殴りますから」
強がりで、不器用な言葉だった。それでも、澪はそう言わずにはいられなかった。
直弦は一拍置いて、答えた。
「今の状況でそれだけ言えるなら、大丈夫です」
慰めではない。ただの確認だった。それでも澪は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「触れます」
直弦の指先が、土と清水を混ぜたゲルを伴って、澪の背中――心臓の裏に近い位置の結び目に触れた。
瞬間、直弦の視界が爆発的に開いた。
岡山で見たノイズとは桁が違う。
澪の背中の結び目。蔵の試料から一直線に延びてくる糸。窪地の下を奔流のように走る古い流れ。そして、そのさらに奥底に沈んでいる、巨大で複雑な神域の網目。
すべてが重なり合い、直弦の中へ一気に流れ込んでくる。
(違う……)
直弦は、情報の奔流の中でふと違和感に気づいた。
「……壊そうとしているわけじゃない」
直弦の口から、無意識のうちに言葉が漏れた。
「本来落ち着く場所を外れて、無理に入り込もうとしてるだけだ」
背を向けていた三島と村上の肩が微かに動いた。それだけで、二人にも何かが伝わったと分かった。
直弦は意識を指先に集中させた。
切るのではない。力で捻じ伏せるのでもない。
直弦は、澪の背中の結び目から出た線を、清水と土を含んだゲルを導線にして、窪地の下の古い流れへと少しずつ重ねていく。
澪は痛みに顔を歪めながらも、両足でしっかりと土を踏みしめ、逃げずに立っていた。
三島は足元を照らすだけの僅かな灯りを保ち、場の静寂を支えている。
村上は背を向けたまま、低く、這うような声で祝詞を呟き始めた。
土地の淀みを払い、正しい流れを助けるための、古い技術だった。
直弦はズレを読み、編み直す。
直弦の指先から流れ込む圧倒的な情報量の中で、澪の脳裏に、自分の記憶ではない断片的な光景が閃いた。
夜の海の上に落ちてくる無数の青白い光。古く血生臭い祭場。そして、見知らぬ誰かの小さな背中。
「あっ……」
澪が短く息を漏らす。結び目に刺さっていた力が、直弦の指先を伝い、土地の古い流れの中へ音もなく合流していく。
終わった、と直弦は思った。
その瞬間、澪が大きく息を吐き出し、膝から崩れ落ちそうになった。
直弦は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の肩を支えた。
暗がりの中で、二人の距離が一瞬だけ近づく。
澪の身体は汗で冷え切っていたが、その奥からは、確かな生命の鼓動が伝わってきた。
「……終わりました」
直弦は澪から手を離し、一歩退いて告げた。
三島がゆっくりと振り返り、灯りを少しだけ上げる。澪の呼吸から、さっきまでの引きつりが消えていた。背中の熱も、暴れるような熱から穏やかな残熱へと変わっていた。
直弦が糸の流れを確かめると、蔵の試料から伸びる糸も、窪地の下の古い流れにひとまず収まっていた。
結び目が消えたわけではない。ただ、暴れていた力がひとまず土地の流れに収まった。
少なくとも、さっきのように澪の身体を内側から傷つけようとはしていない。
村上が振り返り、直弦と澪、そして足元の暗がりを順に見下ろした。
長い沈黙の後、村上はぽつりと言った。
「……本当にやったか」
礼ではない。それでも、村上がそれを口にしただけで十分だった。
とはいえ、直弦に安堵の表情はなかった。
澪の背中から手を離した直弦の右手が、手首から指先にかけて微かに震え続けていた。
仮調律の時とは比較にならない代償だった。
「手……震えてますよ」
息を整えながらブラウスのボタンを留めた澪が、直弦の手元を見て言った。
「ええ」
直弦は左手で右の手首を掴み、震えを抑え込もうとする。
「平気なんですか」
澪の言葉には、刺々しさの奥に、ほんの僅かな気遣いが混じっていた。
澪の目は、初めてまっすぐ直弦の手元を見ていた。
「平気じゃないです」
直弦は短く返し、そのまま足元の暗がりへ再び視線を落とした。
直弦の視界は、まだ閉じていなかった。
この窪地の下の古い流れに、澪と試料はひとまず落ち着いた。
だが、一つ噛み合ったことで、まだ噛み合っていない場所が見えてしまった。
窪地から外へ、無数の細い線が伸びている。
瀬戸内海の向こう。岡山の陸地。広島の島々。
そして、まだ直弦には見当もつかない別のどこか。
遠く離れた場所で、別の線が静かに脈を打っていた。
直弦の顔色が変わるのを、村上は見逃さなかった。
「……まだあるのか」
村上が、核心を突くように問う。
直弦は右手の震えを抑え込んだまま、顔を上げて村上を見た。
「……はい」
直弦は低い声で言った。
「欠片は、一つじゃない。これで終わりじゃありません」
澪の背中の結び目は、彼女を壊そうとするのをやめ、ひとまずこの土地の流れの中へ戻った。
だが、その安堵の向こうで、直弦にはもう別の線が見えていた。
まだ手の届かない別の場所で、別の何かが世界に無理に入り込もうとして脈を打っている。
大三島で、一つを正しく繋ぎ直しただけだ。
直弦の目には、もう次の糸が見えていた。
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