第11話 みたらしの記憶
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瀬戸内の朝は、波の音よりも先に鳥の鳴き声と船のエンジン音で白み始める。
大三島、宮浦港に近い古い和風旅館、山茶花。
観光客向けの派手な宿ではない。
島を訪れる人たちを長年泊めてきた、年季の入った静かな宿だった。
二階の角部屋で、直弦は浅い眠りから目を覚ました。
障子越しに差し込む薄い光が、畳の部屋を淡く照らしている。
古びた木の廊下が軋み、部屋の隙間から湿った潮の匂いが入り込んできた。
昨夜の反動は、まだ身体に残っていた。
耳の奥に甲高い耳鳴りがこびりつき、目を閉じると網膜の裏で青白い糸がチカチカと明滅している。
指先には、まだ微かな痺れが残っていた。
「越智さん、起きてます?」
同室の難波啓介は、すでにスーツ姿で座卓に向かっていた。
今回の出張では、運転と現場の実務を引き受けている。
ノートパソコンの画面には、社内向けの報告書が開かれている。
「会社への定時報告と、機材の追加手配は済ませておきました。桐野本部長は相変わらず不機嫌極まりないみたいですが、有馬さんが抑え込んでくれています」
「……助かります」
直弦は布団から這い出し、首の裏をさすりながら短く答えた。
彼らは、あくまで平原化学から来た出張者だ。
目の前の異常に気を取られかけるたび、難波の報告と手配の段取りだけが、直弦をかろうじて現実へ繋ぎとめた。
洗面所で冷たい水を顔に浴びていると、洗面台に置いたスマートフォンが震えた。
三島清成からだった。
『澪の様子を見に来ていただきたい。ただし……勝手な振る舞いは控えてもらうという条件付きですが』
含みはあったが、要請であることははっきりしていた。
直弦は手早くシャツを着込み、玄関で靴を履きながら難波に告げた。
「少し、出てきます」
「了解です。車、いつでも出せるようにしておきますね」
難波はノートパソコンから顔を上げ、少しだけ真面目な声色になった。
「あんまり無茶はせんといてくださいよ。俺らじゃ、越智さんの代わりはできないんですから」
大山祇神社の社務所。
通された控えの間にいた澪は、昨夜の今にも壊れそうだった危うさに比べれば、ずいぶんと落ち着きを取り戻していた。顔色には少し血の気が戻り、直弦を警戒する目にも生気が宿っている。
直弦が彼女の背中を診ると、結び目は完全には消えていないものの、彼女の身体を内側から傷つけるような勢いは消え、土地の古い流れの中で静かに脈を打つにとどまっていた。
「澪が落ち着いたことは、認めよう」
上座に座る村上が、硬い声で切り出した。
「ただし、神域の奥でああいうことを許すのは一度きりだ。次は認めぬ」
村上の態度は相変わらず固かった。
それでも、直弦をただの外の研究者として追い返すことはできなくなっていた。
「清成を同行させる。神社周辺の、決められた場所に限る」
「……分かりました」
直弦は短く頷いた。
社務所を出た直後、澪がぽつりと言い出した。
「昔から、変だと思っていた場所があります」
三島は少し驚いた顔をしたが、黙って話を聞いていた。
「何があるのかは、分かりません。ただ……子供の頃から、そこだけ空気が違う気がして。ずっと、ノートに書き留めていたんです」
直弦は小さく頷いた。
「案内してください。確認したい」
最初に向かったのは、境内にある『みたらしの水』と呼ばれる小さな池だった。
「ここに来ると、急に周りの音が遠くなることがあったんです」
澪が透き通った水面を見つめながら言う。
「それに、空気の温度が……一瞬だけ、フッと下がるような」
直弦は目を細め、水面の奥にある流れを探る。
昨夜の奥宮のような渦はない。だが、水面すれすれを這うように、細く古い糸が複雑に絡み合っていた。
「奥宮の窪地ほど深くはないです」
直弦は水面を見たまま言った。
「でも古いです。水の流れ方が少しおかしい。……人の手で繋いだ痕みたいだ」
澪が驚いたように直弦を見た。
その目が、わずかに揺れた。
次に案内されたのは、神社から少し離れた海辺だった。潮の匂いが満ちているのに、なぜか真水の気配が立ち上る一角だった。
「波の音の裏側に、別の水の音が聞こえるんです」
澪は自分の記憶を探りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「海なのに、古い井戸のそばに立った時みたいな匂いがして……誰かが、ここを通ったような気配だけが残っているんです」
直弦は周囲を見渡した。
みたらしの水とは違う、強固で真っ直ぐな糸が、海に向かって張り詰めている。
この島の流れは、ひと続きではなかった。
島のあちこちに継ぎ目があり、それぞれ違う張り方で境を支えている。
澪は、そのきしみをずっと一人で拾ってきた。
最後に辿り着いたのは、参道脇の何気ない木陰だった。
日は少し傾きかけており、夕方の空気が漂い始めている。
「昼間は何ともないんですけど……夕方になると、ここだけ急に空気が重くなるんです」
澪は自分の腕を抱くようにして言った。
「学校帰りとか、お祭りの準備のあと……ここを通ると、妙に静かで。私だけが違う世界に取り残されたみたいで……ずっと、自分が変なんだと思ってました」
見ると、木陰の影の境目に沿って、空気が膜のように歪んでいた。
直弦には、それが境界のきしみに思えた。
「君は変じゃない」
直弦は慰めるでもなく言った。
「人より先に拾ってるだけです。ここにあるズレを」
澪は息を呑み、直弦を見た。
慰めには聞こえなかった。
それでも、あの違和感を迷いなく事実として受け取られたのは初めてだった。
澪は目を伏せ、小さく唇を噛んだ。
三か所を回り終え、神社へ戻る道すがら、三島が直弦の横に並んだ。
しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……越智さん。あとで、あなたの見立てを聞かせてください」
「ええ」
直弦は短く頷いた。
「それと……」
三島は前を歩く澪の背中を見た。
「彼女の記録にも、もう向き合わないといけないのかもしれませんね」
社務所へ戻る直前、直弦は澪を呼び止めた。
「河野さん」
澪が振り返る。
「あなたが書き留めていたというその記録ノート。僕に読ませてください」
澪は一瞬、身体を固くした。
彼女が一人で書き溜めてきたものだ。やすやすと見せられるものではない。
澪は少しためらったあと、鞄から古びたノートを取り出し、渋々直弦へ差し出した。
「笑ったら、許しませんから」
「笑いません。……本気で読みたいと思っています」
直弦は受け取ったノートの表紙を、すぐには開かなかった。
自分だけのものだった違和感が、初めて他人の手に渡った。
それでも、雑には扱われなかった。
澪は何も言わなかった。
ただ、ノートを持つ直弦の手を、しばらく見つめていた。
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