第12話 山茶花の夜
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直弦は旅館「山茶花」の二階の角部屋で、座卓の上に広げた澪のノートを見ていた。
開け放たれた窓からは、夜の港の静かな波音と、時折通り過ぎる車の音がかすかに聞こえてくる。
潮を含んだ夜風が、張りつめていた頭を少しだけ冷ましてくれた。
襖が開いて、首に手ぬぐいを下げた難波が部屋に戻ってきた。大浴場に行っていたらしい。
「いやぁ、今日の刺身、ほんま美味かったですね。あの鯛、歯ごたえが全然違いましたわ」
難波は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しながら、朗らかな声で言った。
直弦はノートから目を離さずに短く答えた。
「……そうだったか」
「越智さん、全然味わってなかったでしょ。もったいない」
難波は呆れたように肩をすくめた。そのくせ、直弦の顔色はちゃんと見ていた。
難波は座卓の向かいに腰を下ろし、直弦の手元のノートに目を留めた。
「あぁ、澪ちゃんのノートですか?」
直弦が視線を上げると、難波は小さく咳払いをした。
「河野さん、ですね。すみません、つい」
「……別にいいけどな」
直弦は再びノートに目を落とした。
難波もそれ以上は茶化さなかった。
「何かあったんですか」
「あったというか……場所が偏ってる」
「偏ってる?」
直弦はノートのページを数枚めくった。
「子供の頃からの違和感の記録なんだけど、場所が偏ってる。みたらしの水、海辺、参道脇の木陰。水のそばとか、道の境目とか、空気の変わる場所に寄ってるんだよな」
直弦の言葉に、難波はほうと息をつき、ノートの文字をのぞき込んだ。
「難波。これ、どう見える」
直弦がぽつりと尋ねると、難波は目を丸くした。
「俺に聞きます?」
「お前、こういうの、意外と得意だろ。現場の動線とか、人の動きを読むのは」
「褒められてる気がしないんですけど……」
難波は苦笑しながらも、実務屋らしい真剣な目でノートの記述を追った。
「よう分かりませんけど、たしかに偏ってる気はしますね」
難波はペットボトルの水を一口飲み、言葉を探すように天井を見た。
「なんとなく気味悪かった場所を書いただけ、って感じやないですね」
「というと?」
「水のそばとか、道が切り替わるとことか。これ、河野さん自身が無意識にそういう場所へ寄っていってるんちゃいますか。自分から行ってんのか、呼ばれてんのかは知りませんけど」
直弦はノートから顔を上げた。
継ぎ目として見えていた場所に、澪の足取りが重なっていく。
「そういや、越智さんの出身って今治ちゃいましたっけ?」
難波がノートから顔を上げ、ふと思い出したように言った。
「あぁ」
「じゃあ、この辺も詳しいんですか?」
「いや。今治って言っても、こっちは平成の大合併で同じ市になっただけだ。元は別だし、海も隔ててるしな」
直弦は窓の外の暗い海に目を向けた。
「だから、子供の頃に何度か来たことがあるってくらいだ」
「へえ、そうなんですね」
「ただ……前に来た時と、今見えてるものは全然違うな」
難波は静かに頷いた。
直弦は再びノートに視線を戻した。
難波の言う通り、澪の記録にはたしかに偏りがある。だが、直弦の引っかかりはそれだけではなかった。
記録は多い。みたらしの水や海辺のことは、細かいところまで書いてある。けれど、その先のことになると、急に言葉が減る。
今日、三か所を回り終えたあと、三島は社殿の奥――神体山の方を見ていた。
彼女の記録にも向き合わないといけない、と言いながら。
なのにノートには、その先へ続くはずの場所の記述が、すっぽり抜けている。
直弦は眉間を寄せた。
書いていないんじゃない。書けなかったのだ。
難波は、ノートの余白を見つめたまま動かない直弦の横顔を見た。
それ以上、冗談は言わなかった。
いつの間にか、廊下の足音も車の音も途切れていた。
遠くで波の音だけがしている。
「俺、そろそろ寝ますね。明日に備えとかんと」
難波は立ち上がり、自分の布団の方へ向かった。
「越智さんも、ほどほどにしてくださいよ」
「あぁ。おやすみ」
部屋の明かりが落とされ、手元のスタンドライトだけがノートを照らしている。
ノートを閉じても、頭の中では地点の並びが消えなかった。
みたらしの水、海辺、そして参道脇の木陰。
その先に、まだひとつ、澪がうまく言葉にできていない場所がある。
直弦は障子の向こうの闇を見つめたまま、明日、三島に訊くべきことを一つだけ決めた。
澪が書けなかった場所。
そこに、まだ触れていない何かがある。
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