第3話 呼ばれる先
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本日より1日2話更新(朝・夕)とさせていただきます。
「昨日、地下で何があったんだ?」
「さあ。なんでも県の持ち込み案件でトラブったらしいけど」
「越智が何かやったとかどうとか……」
「さすがにそれはないだろ。ただの緩衝ゲルの担当だぞ」
朝の給湯室は、昨日の地下の噂で持ちきりだった。
正式な説明は、まだ何もなかった。
だから余計に、噂だけが広がっていた。
研究所全体が、昨日のことをただの設備トラブルにしたがっていた。
直弦は自席でコーヒーをすすりながら、右手首を軽くさすった。
痺れは、まだ残っていた。
あの青白い糸の奔流。
ゲルと旧配合の塩で押さえ込んだ時の、火花の感触。
それらが寝不足の頭にこびりついて、離れなかった。
直弦は席を立ち、地下の特殊受入室へと向かった。
分厚い防爆ガラスの向こう側、チャンバーの中に置かれた標準A種保管ケースは、昨日の崩壊寸前の状態から一転して、静かに収まっているように見えた。
だが、直弦には見えていた。
昨日、介入ポート越しに広げたゲルの下で、行き場を失った糸が細かく折れ重なり、脈打っていた。
青白い糸は、まだ生きている。
そして、その中から一本だけ、太い糸が抜けていた。
それはチャンバーの壁を抜け、今も南西へまっすぐ張っている。
直弦はガラスに手をつき、黙ってチャンバーの中を見つめた。
今は、なんとか収まっている。
だが、条件が崩れれば、あの糸はまた外へ出ようとするだろう。
「越智」
背後から低く呼ばれ、直弦は振り返った。
技術本部長の有馬雅臣が、腕を組んで立っていた。
いつもより顔色が悪い。それでも、目だけは鈍っていなかった。
「少し、いいか」
有馬は廊下の隅へ直弦を促し、周囲に人がいないことを確認してから口を開いた。
「お前の中では、あれは化学で扱えるものか。それとも、化学だけでは足りんのか」
直弦は少しだけ考えた。
有馬は昨日の処置を見ていた。直弦が何か特別なものが見えていたことも察しているはずだ。
だが、有馬は説明のつかないものを、そのまま受け入れる人間ではない。
「化学の外にあるとは思いません」
直弦は淡々と答えた。
「ただ、今までの条件では扱えない。置かれている前提が違います」
「……そうか」
有馬はしばらく直弦を見ていた。
納得した顔はしていなかった。
だが、直弦が本気で言っていることだけは、受け取ったようだった。
「なら、その見立てを崩すな」
有馬は直弦の目を真っ直ぐに見た。
「県から追加の照会が来る。逃げるなよ」
それだけ言い残し、有馬は踵を返した。
直弦は有馬の背中を見送りながら、痺れの残る右手首をもう一度握った。
◇
昼前、直弦のデスクに志保が現れた。
ベージュのジャケット姿の志保は、いつも通り涼しい顔をしていた。
ただ、抱えているファイルの束だけがやけに厚い。
「お疲れ様。昨日の件、経営企画と安全管理がまだ揉めてるわ」
志保は小さな声で言いながら、直弦のデスクに数枚の書類を滑り込ませた。
「県の担当から、昨夜の安定化処置について追加ヒアリングの要請が来てるわ。桐野本部長は、さっさと県に引き取らせろの一点張りだけどね」
「引き取れるわけがない。今の状態で動かせば、ゲルの層が崩れます」
「でしょうね。でも、会社が困ってるのはそこじゃないのよ」
志保は周囲を軽く見回し、さらに声を潜めた。
「防災案件のはずなのに、急に瀬戸内の神社筋から、その試料を見たいって話が割り込んできたらしいの」
「……神社?」
「ええ。県の資料を見たどこかの神職が、試料の外見や反応に覚えがあるって言ってきたらしくてね。普通の危険物案件じゃ、こんな横槍はまずあり得ないわ。って、それ、心当たり、ある顔ね」
志保は、直弦のわずかな表情の変化を見逃さなかった。
直弦は否定しきれず、視線を書類に落とした。
南西へ伸びる太い糸。
瀬戸内の島。
神社。
直弦は、書類の端を指で押さえた。
「……少し、確認したいことがあります」
直弦は志保を残し、再び地下の受入室へ向かった。
チャンバーのガラス越しに、改めて試料を観察する。
南西へ向かって張られた太い糸は、今朝見た時よりも明らかに何かに引かれているようだった。
直弦は頭の中に、地図を思い浮かべる。
岡山から南西。倉敷、福山、その先は瀬戸内海だ。今治の沖に浮かぶ島まで伸ばせば、行き着く先はもう限られていた。
まさか。いや、でもあの方角にある大きな古い場所といえば、そこしかない。
直弦の視線が、試料を包み込んでいるゲルの表面に移る。
目を凝らすと、透明なゲルの内側に、白い硬化の筋がうっすら浮いている。波紋のようなその筋は、ただのひびには見えなかった。
◇
午後、本館の会議室では、品質保証・安全管理本部長の桐野正紀が最初から荒れていた。
「宗教関係まで入れてどうするつもりだ。得体の知れない危険物に、素人を近づけるなどあり得んだろ!」
桐野は、苛立たしげにテーブルを叩いた。
「こっちだって、入れたくて入れているわけじゃない」
経営企画室長の真鍋玲司は、資料から目を上げずに返した。
「事象が特殊すぎるんだよ。県も判断を保留したくて、専門家という体で神社側の意見を聞こうとしている。我々がそれを撥ね付ければ、角が立つ」
「まず、話を聞くしかないだろう」
有馬が低い声で割って入る。
「相手が何を知っているにせよ、現状、あの物質を安定させているのは越智の処置だ。情報だけ引き出して、主導権はこちらで握ればいい」
会議の話題は、あれの正体には向かわなかった。
どう処理するか。どこで保管するか。責任をどこに置くか。
そこばかりが詰められていく。
会議の終盤、志保が新たな資料を手に戻ってきた。
県から出された正式な来訪者リストだ。
直弦の目の前に置かれたその紙には、数名の県職員の名前の下に、特記事項として外部参考人の名前が記されていた。
『愛媛県今治市大三島・大山祇神社』
その文字を見た瞬間、直弦の手が止まった。
やはり、大山祇か。
子供の頃、潮の匂いの混じる風の中で何度も見た、あの揺らぎ。誰にも信じてもらえなかった記憶と、目の前の試料が、ようやく一つの線で繋がった。
「知ってるの?」
資料を配り終えた志保が、直弦の横で小さく尋ねた。
「……名前だけは」
視線を紙に落としたまま、直弦はそう答えた。
志保は何かを察したようだったが、深くは追及してこなかった。
「明日か明後日には来るって」
志保はため息をついた。
「権禰宜クラスの神職と、地元の高校生が一人。参考人扱いで来るらしいわ。県の立ち会いもつくって」
「……高校生?」
「ええ。詳しい理由は分からないけど、その子も立ち会う条件になってるらしいわ。手続きだけで揉めそうね」
直弦は小さく頷いたが、頭の中はもう別の事を考えていた。
会議が終わり、直弦は誰もいなくなった研究室に戻った。
窓の外には、夕暮れの吉備の山並みが広がっている。
だが、直弦の視界の端では、太い青白い糸が山並みを越え、南西へと張られていた。
その糸を見ながら、直弦は久しく忘れていた海の匂いを思い出していた。
県の資料にあった神社の名と、同行するという高校生のことが、頭に残っていた。
あの糸は、ただ壊そうとしているわけじゃない。
たぶん、大山祇の何かに引かれている。
その先をなぞるように、島から人が来る。
次に来るのは、試料の説明をしに来る人間ではない。
おそらく、糸の先から来る人間だ。
その予感だけが、手首の痺れと一緒に残った。
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