第2話 星降りの残響
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その日のニュースは、瀬戸内のあちこちで起きた異常を短く伝えていた。
『昨夜未明、香川県沿岸部で異常な潮位の変動が観測されました。気象庁は津波の危険はないとしていますが、原因は調査中です。また、広島県西部では局地的な通信障害と停電が……』
アナウンサーの声だけが、休憩室のテレビから淡々と流れていた。
休憩室の同僚たちも、画面を横目で見るだけだった。
潮位も停電も通信障害も、別々のニュースとして流れていく。
誰も、それを一つの線で結ぼうとはしない。
だが、直弦の目には違って見えた。
平原化学中央研究所の廊下を歩く彼の視界の端には、相変わらず壁の亀裂や窓枠の隙間に、青白い線が貼りついている。
それは、ときおり、脈のように細く揺れた。
星降りの夜から数日。
見えないはずの境目が、直弦の目には映るようになっていた。
「越智、時間だ。地下の特殊受入室へ向かえ」
背後からかけられた声に振り返ると、技術本部長の有馬が立っていた。
スーツの上に白衣を羽織った有馬は、いつもより口数が少なかった。
目の下に、薄い隈があった。
「……ええ」
直弦は短く頷き、有馬の後に続いた。
◇
午後二時。県経由で回されたという、正体不明の回収試料がいよいよ研究所に搬入される。
地下二階の特殊受入室の前には、すでに三人が待っていた。
技術本部長の有馬雅臣。
品質保証・安全管理本部長の桐野正紀。
そして、研究企画の妹尾志保。
「遅いぞ、越智」
桐野が腕時計を見ながら言った。
そのスーツには皺ひとつない。眉間だけが深く歪んでいる。
「時間ちょうどです」
直弦が答えると、有馬が短く頷いた。
特殊受入室に入るには、社員証だけでは足りない。
有馬の認証、桐野の承認、志保が用意した搬入記録の照合。
そのうえで二重扉の減圧待機を終え、ようやく内側の観察室へ通される。
分厚い防爆ガラスの向こう側、気密チャンバーの中に、銀色のジュラルミンケースが置かれていた。
「まったく、こんな得体の知れないものをウチの設備に入れるなど、正気の沙汰じゃない」
桐野が腕を組みながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「県警と防災局からの要請だ。断るなら、それなりの理由がいる」
有馬はガラスの向こうを見た。
「熱も放射線もない。なのに保管材だけが劣化する。封止を扱う会社としては、無視できん」
有馬が淡々と返すが、桐野の苛立ちは収まらない様子だった。
直弦は彼らの会話を半ば聞き流しながら、ガラス越しのジュラルミンケースをじっと見つめていた。
ケースは閉じたままだ。
それなのに、直弦の耳の奥では、硬い金属を叩くような音がもう鳴り始めていた。
「よし。開けてくれ」
桐野の指示で、防護服を着た作業員がチャンバー内でケースのロックを解除する。
カチリ、と重い音がして蓋が開かれた。
中には、アクリル製の仮設密閉容器に入れられたそれがあった。
手のひらに収まるほどの、不規則な多面体だった。
鈍い光沢を帯び、表面がわずかに明滅している。
「――――ッ」
直弦は思わず目を細め、白衣のポケットの中で拳を握り込んだ。
視界が一瞬ノイズに塗れる。強烈な静電気が走ったように、皮膚が粟立つ。
その試料から、無数の青白い糸が一斉に伸びているのが、直弦の目にだけ鮮明に見えていた。
植物の根のようなそれは、ケースの内側をすり抜け、見えない境目へ食い込んでいた。
さらに直弦の目を引いたのは、無数に伸びる糸の中に、一本だけ太く、強く張り詰めたものが混じっていることだった。
その太い糸は、研究所の壁を抜け、南西へ真っ直ぐ引かれていた。
まるで、行く先を知っているようだった。
誰も、糸に反応しない。
有馬も、桐野も、ガラスの向こうの試料だけを見ていた。
「成分分析の前に、まずはウチの『標準A種保管ケース』へ移し替えろ。物理的干渉がないなら、耐薬品性の高いポリカーボネートと真空層で封じ込めるはずだ」
桐野がインターコム越しに作業員に指示を出す。
作業員がマニピュレーターを操作し、試料を仮設容器から取り出して、通常なら危険物輸送にも使う、分厚い透明ケースへ移し替えた。
カシャン、と密閉のロックがかかる。
「よし、これで安全は確保され……」
桐野が言いかけた、その直後だった。
ピキッ。
硬質なひび割れ音が、スピーカーから観察室に響いた。
「な……んだと?」
桐野がガラスに張り付くようにして目を見開く。
有馬も息を呑んだ。
標準A種保管ケースの内壁が、急速に白く曇り始めていた。
熱反応も、ガスの発生もない。
それなのに、ポリカーボネートの壁だけが内側から崩れていく。
モニター前のオペレーターが声を上げた。
「異常事態です。ケース内圧、変化なし。材質の急速な劣化が進行中」
直弦には、その理由が見えていた。
試料から伸びる無数の青白い糸が、ケースの素材そのものに食い込み、材質を無理やり変えようとしている。
(これは、腐食なんかじゃない)
「桐野本部長、そのケースでは持ちません」
直弦の声が、騒然とする室内に静かに響いた。
「このままでは、外壁まで食われます。チャンバーも、たぶん同じです」
「何を根拠に言っている。見た目だけで分かるはずがないだろう」
「越智」
有馬が桐野を制し、直弦を見た。
「どうすればいい」
直弦は有馬の目を見返し、それから傍らに立つ志保に向き直った。
「志保さん。旧三番の試料、まだ資料室にありますか」
「あるわ。持ち出し申請は通してないけど、成分確認用に小分けした分なら」
「それと、僕のデスクの下にある第三ロットの発酵由来緩衝ゲルもお願いします」
志保は一瞬だけ直弦を見た。
「……分かった。理由はあとで聞く」
それだけ言って、志保は観察室を出ていった。
「恐らくですが、あれならいけます」
ケースの白濁は、その間にも広がっていた。
亀裂は細い枝のように外壁へ伸び、材質劣化を示す数値が跳ね上がっていく。
桐野はガラス越しのケースを見たまま、唇を引き結んでいた。
有馬は何も言わない。
ただ、直弦の横顔を見ている。
長くはなかった。
それでも、ケースの亀裂が広がるには十分な時間だった。
志保が戻ってきた。
小型の保冷バッグを手にしている。
直弦はそれを受け取り、中からゲルの入ったシリンジと、古い和紙の小袋を取り出した。
小袋の中には、褐色の試料が入っていた。
それは、平原化学の古い記録にだけ残っていた用途不明の旧配合だった。
ラベルには《旧三番》とだけある。用途欄は空白。保管区分だけが、なぜか厳重に指定されていた。
成分だけ見れば、粗塩と灰を基にした古い結合剤にすぎない。
だが今の直弦には、それがただの結合剤ではないことだけは分かった。
「緊急介入ポートを使わせてください」
「正気か」
桐野は即座に拒否しかけた。
だが、ケースの亀裂はもう外壁に届きかけていた。
「本部長、説明している時間がありません。有馬さん、介入ポートを開けてください」
有馬は一瞬だけ躊躇した。
それでも、直弦の目を見て、オペレーターに頷いた。
低い電子音のあと、チャンバー側面の緊急介入ポートが解放された。
直弦は分厚い隔離グローブに両腕を差し込む。
チャンバーの外にいるはずなのに、圧だけがこちらへ来る。
防爆ガラス越しに試料を見つめた瞬間、視界のノイズと耳鳴りが強まった。
直弦は顔をしかめながら、隔離グローブ越しに介入アームを動かす。
A種ケースは、すでに微細な亀裂だらけになっていた。
青白い糸が、ケースの内側から外へ滲み出そうとしている。
(無茶苦茶に暴れやがって……)
直弦は、介入ポート脇の小型トレーに発酵由来緩衝ゲルを押し出した。
そこへ、旧三番の試料をほんの少し落とす。
隔離グローブ越しでは、指先の感覚が鈍い。
それでも、ゲルの粘りと、旧三番が混ざった瞬間のわずかな引っかかりだけは分かった。
望んだ仕事ではなかった。
だが、積み上げてきた素材技術は、今この場で手元にある。
「……止まれ」
直弦は介入アームで亀裂をなぞり、発酵由来緩衝ゲルを薄く広げていった。
青白い糸が触れる面を、できるだけ広く取る。
バチッ。
火花が散った。直弦の手首に、激しい痛みが走る。
「っ……」
直弦は奥歯を噛み、介入アームを握り直した。
直弦の目には、試料から伸びようとしていた無数の青白い糸が、ゲルの層に触れた瞬間、行き場を失って行き止まるのが見えた。
切ってはいけない。力が反発して何が起こるか想像もできない。
直弦は糸の向きを受け流し、ゲルの層へ逃がし、塩で動きを押さえ込んだ。
理屈がないわけじゃない。まだ分かっていないだけで、仕組みはあるはずだ。
数秒の拮抗。
やがて、耳鳴りがスッと引き、視界のノイズが晴れていった。
直弦の目の前で、暴れていた青白い糸は、ゲルの層の内側に折り畳まれていった。
ただ、南西の海へと向かう太い糸だけが、静かに呼吸するように残った。
ケースの崩壊は、ピタリと止まっていた。
ガラスの向こうで、有馬が無言のまま立っていた。
桐野は、まだケースから目を離せないでいる。
直弦は小さく息を吐き、額の汗を手の甲で拭った。
手のひらには、痺れるような熱が残っている。
止まった。
だが、完全に収まったとは思えなかった。
おそらく、外へ出ようとする力が鈍っただけだ。
介入ポートから身を引いた直弦を、有馬が信じられないものを見る目で出迎えた。
「……越智。今、何をした」
有馬の声は低かった。
「ゲルと、あの古い試料だけで止まったように見えたが」
「止めたわけじゃありません。外に出ようとする向きを、一時的に鈍らせただけです」
直弦は淡々と答えながら、作業用の手袋を外した。
「……ですが、桐野本部長。これは、ただの危険物じゃありません。周囲まで巻き込んで変えてしまう類のものです」
静まり返る観察室の中で、直弦の言葉だけが重く響いた。
志保は、直弦のわずかに震える指先を黙って見つめていた。
桐野は青ざめた顔で、ガラスの向こうを見ている。
直弦は思った。
これで終わるはずがない。
県にも、会社にも、報告は上がる。
そして、あの太い糸が指し示していた南西のどこか。
そこにも、この事態に気づく者がいるはずだ。
手の痺れは、まだ残っていた。
ガラスの向こうで、試料はもう明滅していない。
ただ一本。南西へ伸びる糸だけが、静かに脈を打っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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