第1話 役立たずの研究者
お読みいただき、ありがとうございます。
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星降りの夜から、三日が経った。
三日も経つと、あの流星も、研究所ではすっかり雑談の種になっていた。
西日本一帯で見えた発光現象も、一時的な通信障害も、数日経てば珍しい話題の一つに戻っていく。
ただ一人、越智直弦だけは別だった。
岡山市北区。吉備中山の北麓に位置する平原化学中央研究所。
朝礼前の給湯室では、同僚たちがコーヒーを片手に話していた。
「結局、あの流星、県北の方にいくつか落ちたらしいぞ」
「マジで? 隕石拾ったら高く売れるかな」
「一瞬電波飛んだのは困ったわ。仕事の連絡、全部止まってさ」
「でも、ちょっと綺麗だったよな。プラネタリウムみたいで」
直弦は無言で紙コップにドリップコーヒーを注ぎ、彼らの背中を通り過ぎた。
誰も、あの夜を怖がってはいなかった。
直弦は、コーヒーの入った紙コップを持ったまま、黙って給湯室を出た。
廊下を歩きながら、ふと視線を上げる。
天井の空調ダクトの継ぎ目。金属製のキャビネットの裏側。あるいは、窓ガラスのフレームの隙間。そういった継ぎ目や角のところに、蜘蛛の糸のような青白い細い線が張り付いている。
目をこすっても消えない。
だが、他人には見えていない。誰かがそこを横切っても何も起こらない。
その青白い線は完全に静止しているわけではなかった。
研究棟の奥から、敷地の隅へ。
さらにその先、どこか遠い方角へ、かすかに引かれている。
(三日続いてる……さすがに幻覚じゃないな)
直弦は静かに思考を回す。
子供の頃、瀬戸内の海辺で見た揺らぎと同じものだった。
ただ、今度は目を逸らしても消えない。
◇
「越智、聞いてるのか」
午前十時。第三会議室では、空調だけがよく効いていた。
発酵由来緩衝ゲルの改良に関する進捗ミーティング。
直弦の視線の先では、入社三年目の若手研究員が、スクリーンに投影されたデータを前に引きつった顔をしている。
「聞いています」
直弦は手元の資料から顔を上げず、淡々と答えた。
「聞いていますが、この試験条件では比較の意味がありません。温度勾配のパラメータが前回のロットと揃っていない。環境変数を無視して強度だけを測っても、再現性が取れないのは明白です」
「そ、それは……スケジュールの都合で、恒温槽の空きがなくて」
「都合は物質の性質を変えません。このデータで上に通せば、後で必ずロットぶれを起こします。やり直しです」
若手研究員は黙り込んだ。
周囲の同僚たちは、苦笑いを浮かべ、視線を逸らす。
隣の主任が、苦笑いのまま資料を閉じた。
直弦の指摘は、たぶん正しい。
だが、それが、いちばん場を悪くした。
「正しいんだけどな」
誰かが小さく呟いた。
「ああいうところだよな」
直弦には聞こえていた。
けれど、どう返せばいいのか分からなかった。
「越智」
上座に座っていた技術本部長の有馬雅臣が、短く口を開いた。
眼鏡の奥の目に怒りはなかった。
直弦の反応を見ながら、言葉を選んでいるようだった。
「お前の指摘は正しい。だが、伝え方というものも考えろ。チームで動いている以上、お前が全部の実験のリテイクを見るわけじゃないんだぞ」
「……すみません」
直弦は短く頭を下げた。
有馬がフォローしてくれているのは分かる。
ただ、間違ったデータを間違ったと言っただけだ。それなのに、どうして毎回こうなるのか。
それが、直弦にはよく分からなかった。
自席に戻った直弦は、息を吐きながらデスクの一番下の引き出しを開けた。
そこには、今の仕事では使わない古いクリアファイルが数冊入っている。
大学院時代の未発表の実験ノートや、ボツになった研究計画書。
表紙には『局所環境における知覚異常の再現性検証』『境界条件と閾値の揺らぎ』といった言葉が並んでいる。
教授の朱筆は容赦なかった。学会でも、誰も振り向かなかった。
本当に知りたかったことは、いつも再現性不足で片づけられ、まともに相手にされなかった。
気づけば中堅化学メーカーの実務研究室にいて、毎日扱っているのは保護膜と封止材だった。
(回り道にもほどがあるな)
ファイルの上から、最新の高機能ゲルのデータシートを被せる。
望んだ道ではない。それでも、手が止まることはなかった。
昼休み。気分を変えようと、直弦は研究棟の外へ出た。
平原化学の中央研究所は新しい建物ばかりだが、敷地の奥だけは妙に古かった。
研究棟の裏手。そこには、使われていない古い区画がある。その片隅には、撤去されることもなく、苔むした小祠と古井戸が残されていた。
あの夜の翌日から、その小祠に向かって、あの青白い糸が何本も沈み込んでいるのが見えている。
「越智くん」
不意に背後から声をかけられ、直弦は振り返った。
研究企画兼資料管理主任の妹尾志保が、ベージュのジャケット姿で立っていた。
資料の束を抱えているその腕には、いつもの細い角形の腕時計が光っている。
もう片方の手には、やけに古そうな鍵束が握られていた。
「まだ寝不足みたいな顔してる」
志保は直弦の顔を覗き込むようにして言った。
「……別に。大したことないです」
「そう。でも、あなたの大したことないは、だいたい面倒なのよね」
志保は小さく笑った。社内で直弦の不器用さを正確に見抜き、それでも接してくるのは彼女くらいだった。
志保は、現場も事務も知っている数少ない人間だ。
直弦の妙な勘の鋭さにも、たぶんとっくに気づいている。
「古い資料室の整理ですか?」
直弦は彼女の持つ鍵束に視線を向けた。
「ええ。社史編纂から外れた書類の整理。ホコリだらけの保管庫よ」
志保は呆れたように肩をすくめた。
「この前なんて、用途不明の古い配合票まで出てきたの。《旧三番》だったかな。用途欄が空白なのに、保管区分だけ厳重でね」
「何の配合なんですか」
「そこが分からないのよ。接着剤の棚でも、封止材の棚でもなくて、社史資料の禁帯出箱に入ってた」
志保は、鍵束を指先で揺らした。
「分からないものほど、昔の人は丁寧にしまい込むのよね」
直弦は一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わなかった。
「……越智くんも、見えないものばっかり追ってないで、今日の仕事に戻りなさい」
志保はそれだけ言って、鍵束を鳴らしながら研究棟の奥へ戻っていった。
◇
午後になると、経営企画から緊急の技術照会が降りてきた。
県を通した案件らしい。
具体的な内容は伏せられていたが、噂は研究員たちの間ですぐに広まった。
「星降りの夜、県内でいくつか落下物が回収されたらしいぞ」
「それが、通常の保管ケースに入れておくと、熱も出さないのに内装材をボロボロに劣化させるんだと」
「だから、特殊封止や保護材に強いウチの会社に、保管のノウハウがないか泣きついてきたって話らしいぜ」
「県案件だから、経営企画は断りにくいらしい」
「県だけじゃないって話もあるぞ」
「まさか、事保案件か?」
「おい、声を落とせ」
「安全管理は当然反対だろ」
「有馬さんは?」
「見ないことには判断できん、だってさ」
話を聞き流しながら、直弦の視線は窓の外、敷地の隅にある小祠に向いていた。
ドクン、と。小祠へ沈み込んでいた青白い糸が、一瞬だけ強く脈を打った。
直弦の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
◇
「越智。ちょっと来い」
夕方、直弦は有馬の執務室に呼ばれた。
有馬はデスクの向こうで腕を組んでいた。
「県からの厄介な案件の話は、もう耳に入ってるな」
「……ええ。特殊封止の照会だと」
「安全管理は反対しているがな。まあ、当然だな」
有馬は資料を指で叩いた。
「だが、既存の保護材が物理的な傷もなしに劣化している。技術屋としては、見ないわけにはいかん」
有馬はそこで言葉を切った。
直弦が何か隠していると分かっている顔だった。
「越智。お前、ここ数日、何を気にしてる?」
「……別に。何も」
「お前の別には信用できん」
有馬は呆れた声で言った。
「だが、もしあれがウチに回ってきたら、お前の発酵由来緩衝ゲルを使うぞ。今ある手札の中じゃ、あれがいちばん近い。準備しておけ」
「……分かりました」
直弦は短く応え、退室した。
廊下に出ると、胸の中に妙なざわめきだけが残った。
◇
定時直前の午後五時半。
直弦のパソコンに、志保から一通の社内メールが届いた。
『一次確認用の試料データ。明日、県からこれが来るわよ。取り扱い注意』
添付されたPDFファイルを開く。
そこには、所属名が黒塗りされたジュラルミンケースと、その中に収められた密閉容器の写真があった。
容器の中には、手のひらに収まるほどの不規則な多面体が入っている。
鉱物に見える。
ただ、表面の光だけが妙だった。写真越しなのに、そこだけ濡れているように見える。
直弦が、その光に目を凝らした時だった。
「――――ッ」
直弦の耳の奥で、甲高い音が鳴った。
痛みに目を細める。ディスプレイに映っているのは、ただの写真のはずだった。
それなのに、あの夜と同じ耳鳴りが戻ってきた。
その奥に、一瞬だけ潮の匂いが混じった。
遠くで木が軋むような音。
誰かが息を詰めるような、浅い呼吸。
直弦は反射的にPDFファイルを閉じた。
何かが、写真越しにこちらを引っかいた。
そんな感覚だけが残っていた。
しばらくして、メールに記された到着予定時刻の欄を見た。
明日、十四時。
きっと、あの夜は、まだ終わっていない。
あれが、この研究所へ来る。
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