プロローグ 星降りの夜
新作始めました。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
「――有意差なし、か」
越智直弦は、溜息をつきながら椅子にもたれかかる。
パソコンのディスプレイが発する青白い光だけが、暗い研究室に浮き上がっている。
岡山市内とはいえ、平原化学中央研究所はずいぶんと外れにある。この時間になれば、窓の外に人の気配はない。
画面に開かれているのは、発酵由来の緩衝ゲルに関する物性データだった。
外部環境からの隔離。
微細構造の維持。
物理的衝撃の吸収。
どれも、報告書に載せればそれらしく見える。
だが、肝心の差は出ていない。
時計の針は、午後七時を少し回っていた。
今日はもう、これ以上粘っても数字が動く気がしなかった。
隣のデスクでは同僚がまだキーボードを叩き、廊下の奥からは器具の音がくぐもって聞こえてくる。
直弦は小さく息を吐き、キーボードの脇に置かれた裏紙に目を落とした。
そこには、今日の実験データとは全く関係のない数式とメモが書き殴られている。
局所環境における知覚異常の再現性。
境界条件と閾値の揺らぎ。
それは、直弦がずっと追ってきた問いの残りだった。
幼い頃から瀬戸内の海辺で見てきた、空気が歪み、蜃気楼のように揺らぐ何か。
誰にも信じてもらえなかったあの現象の正体を、科学の言葉で証明したくて、彼は研究者になったはずだった。
だが、現実はいつも思うようには行かない。
彼に与えられた仕事は中堅化学メーカーでの保護膜や封止材の改良。
役に立つ仕事だ。それは分かっている。
けれど、それで自分の渇きが収まるわけではなかった。
「何をやっているんだか」
呟きながら、裏紙を丸めてゴミ箱に放り投げる。
しばらく画面を見ていたが、今さら良い案が浮かぶわけでもない。
「……今日は、もういいか」
口に出してみると、ようやく諦めがついた。
直弦は白衣を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
蛍光灯に照らされた白い廊下を抜け、外に出る。
山裾の研究所は、夜になると市内とは思えないほど暗い。
冷たい夜気が、今日一日ずっと研究室にこもっていた直弦の肺を満たす。
駐車場へ向かう途中、視界の端に古い石碑が見える。研究所の敷地の片隅に、なぜか残されている小祠と、苔むした古井戸。
最新設備を誇る研究施設には、ひどく不釣り合いな光景だった。だが会社は、地主の意向だと言って、そこに手をつけていない。
直弦はいつも、その前を通るたびに違和感を覚えていたが、深く考えることはなかった。
車のエンジンをかけ、自宅へ向けて愛車を走らせる。ここから一時間近くの、単調なナイトドライブだ。
吉備路の暗い県道を走る。まばらな街灯がフロントガラスを等間隔に撫でていく。
長い帰路の途中、直弦にはささやかな習慣があった。
市街地に入る少し手前、山あいにある小さなチーズ工房、うしだ牧場に立ち寄ることだ。
「今日は早いな」
カウベルの音と共に店内に入ると、初老の店主が奥から顔を出した。
「ええ。今日はもう、切り上げました」
直弦は短く返し、冷蔵ケースを覗き込む。
さして大きくもないそのケースの中には、もうほとんど商品は残っていなかった。
「この時間でも、ほとんど残ってないですね」
「おかげさまでな。」
奇跡的に残っていたカマンベールチーズを一つ指差すと、店主は慣れた手つきで紙に包んでくれた。
「……カチョカバロ、もうないですか」
「何なら明日は取り置きしておいてやろうか?」
「ほんとですか。じゃあ、お願いします」
わずかに口元を緩めたまま店を出た直弦は、車に乗り込み、助手席にチーズを置いた。
帰ったら赤ワインを開けよう。たしか通販のピノ・ノワール飲み比べセットが、まだ何本か残っていたはずだ。
研究所と家を往復するだけの日々の中で、最高に美味いチーズを買うこの時間だけは、まだ自分のものだという気がした。
エンジンをかけ直し、車は再び暗い夜道へ滑り出した。
市街へ入る峠道を越えようとした時、それは起きた。
最初は、ただの流星群だと思った。
フロントガラス越しに見える夜空に、一本の細い光が走った。すぐに二本、三本と続く。
「……ん?」
直弦は目を細めた。
流星群にしては数が多すぎる。それに、軌道がおかしい。流星なら、もっと速く落ちてくるはずだ。
まるで、夜空の裏側から、ゆっくりと切り裂くような、不自然な等速運動だった。
カーラジオにノイズが走り、耳障りな高音に変わった。
直弦は咄嗟にボリュームを絞る。
その瞬間、直弦は妙なことに気がついた。
車のエンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音以外、何も聞こえてこないのだ。
窓を少し開けているのに、風の音がしない。秋の初めの、うるさいほどの虫の声も全く聞こえてこない。
世界が、一拍止まった。
映像と音声の同期がズレたような不快感。
直弦はブレーキを踏み、車を路肩に停めた。
ハザードランプの点滅だけが、暗闇の中で規則正しく周囲の木々を照らしている。
ドアを開け、車外へ出て、空を見上げる。
そこにあったのは、直弦の知っている流星群とは違った。
無数の光の筋が、空から地上へ向かっている。いや、降り注ぐというより、青白く発光する巨大な糸が、空間そのものを縫い留めようとしているようだった。
それには、プラネタリウムのドームが頭上すれすれまで落ちてきたような圧迫感があった。
直弦の心臓は早鐘を打っていたが、不思議と恐怖はなかった。
「何だ、あれは」
直弦は、ただ見ていた。
目を逸らしたら駄目だと、なぜか分かった。
無数に張られた光の糸のうち何本かが、総社の山並みの向こう――南西へ向かって、強く、太く引かれているのが見えた。
南西。倉敷を越え、福山を越え、その先は瀬戸内海だ。
さらに島影の向こうに、幼い頃から知っている、あの古い気配があった。
ズズン、と。
遠くの山の向こうで、何かが落ちたような鈍い振動が足の裏から伝わってきた。
とっさに車に向かいドアを開けようとしたその時、フロントガラスの表面に、青白い筋が走るのが見えた。
同時に、車のドアノブに触れていた手に、ピリッとした静電気のような痺れが走り、直弦は思わず手を引っ込めた。
さらに、耳の奥では、甲高い奇妙な耳鳴りが鳴り響く。
「――――」
直弦は自分の手を握り込み、再び空を見上げた。
光の糸は、いつの間にか消え失せていた。
風の音が戻り、遠くで秋虫の鳴き声が再び聞こえ始める。
さっきまでの光景が嘘のように、いつもの吉備の夜が戻っていた。
◇
翌朝。岡山市内の自宅。
いつも通りに淹れたコーヒーを飲みながら、直弦はテレビのニュースを無表情に見つめていた。
『昨夜遅く、西日本を中心とした広い範囲で、大規模な発光現象が観測されました。また、一部地域では一時的な通信障害が発生しましたが、現在は復旧しています。気象庁は、大気圏に突入した隕石などの可能性もあるとみて……』
アナウンサーの声は、どこか他人事のように響いていた。
研究所に出勤しても、同僚たちの話題は「昨日の流星群、見たか?」「スマホの電波が切れて焦った」といった、些細なイレギュラーを面白がる程度のものだった。
誰も、まだ気づいていない。
空を見上げて終わったと思っている。
だが、直弦にだけは、それが終わっていないことが分かっていた。
直弦は白衣に袖を通し、研究棟の窓から外を見下ろした。
視線の先には、小祠と古井戸がある。
その下へ向かって、青白い細い糸が静かに沈み込んでいた。
それが見えているのは、直弦だけだった。
朝は来た。
だが、もう昨日までの朝ではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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