第28話 守護の覚醒
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直弦の指先に触れている結び目が、かすかに震えていた。
内側へ食い込もうとしていた糸の流れが、そこで初めて揺らいだ。
敷石の隙間に張られた青白い糸の一本だけが、内側ではなく、澪の外へ向かおうとしていた。
澪自身には、何が変わったのか分からなかった。
御門の空洞から吹き付ける風に耐えながら、彼女の脳裏には、さっきの直弦の言葉が繰り返し響いていた。
『お前も、その中に入れろ』
自分自身を、守るべき対象の中に入れる。
澪には、それがわがままのように思えた。
幼い頃から、自分だけが見てしまうものがあった。
母にも祖母にも、何度も心配をかけた。
神社の人たちにも、町の人たちにも、普通の子としては見られていなかった。
だから、自分が盾になればいいと思ってきた。自分が消えて済むなら、その方がいいと。
直弦は「自分を最優先にしろ」とは言っていなかった。
「その中に自分を入れろ」と言ったのだ。
ゴゥッ、と御門の奥から低い音がした。
弱まっていた圧力が、再び膨れ上がった。泥のように濃い影が輪郭を取り、こちら側へ溢れ出ようとする。
澪の身体が反射的に硬直した。
溢れ出ようとする巨大な圧力を、すべて自分の内側で受け止めようとする。
その瞬間、せっかく外へ向かおうとしていた糸が、再び結び目の奥へ沈み込みそうになる。
「全部じゃなくていい!」
直弦の声が、風を裂いて鋭く飛んだ。
「今、見えてる場所だけでいい!」
澪は息を呑み、顔を上げた。
全部を守る必要はない。島全体を抱え込む必要も、瀬戸内を背負う必要もない。
彼女の視線が、震えながらも周囲を捉えた。
すぐ横に立つ直弦。
必死に祝詞を紡ぐ三島。
動かずに立つ村上。
後方で機材を展開する相楽たち。
そして、この境内の外にいるはずの家族と、宮浦の町。
澪は、守るべき範囲を絞り込んだ。
自分が残って、この人たちと同じ側に立って、この境界を保つ。
そう願った。
その瞬間だった。
澪の背中で、内側へ沈み込んでいた結び目が、ぐいと向きを返した。
胸の奥へ食い込んでいた重みが、一気に外へ抜ける。
押し潰される感覚ではなかった。
自分を通って、この場へ力が流れていくのだと、澪には分かった。
足元から走った青白い律糸は、今度は無作為には広がらなかった。
石畳の継ぎ目を正確になぞり、鳥居の根元へ食い込み、古い祭祀場の土を打ち、直弦の持つ調律材へと、次々に噛んでいく。
ばらばらだった場が、澪を起点に一気に繋がった。
御門の奥から押し寄せる圧は、もう澪の身体を杭にしようとはしなかった。
澪がそこに立つことで、この場そのものが、こちら側を保つための形に組み上がっていく。
それは、澪を門に縫いつけるような力ではなかった。
こちら側が崩れないように、場を支える守りだった。
澪の糸が外へ向いたのを確認した瞬間、直弦は動いた。
彼はシリンジの先端を、澪の結び目に直接当てなかった。
代わりに、結び目から外へと伸び始めた糸の受け先を探し、そこへ調律材を薄く置いていく。
敷石の隙間。御門へ続く古い縫い目の痕跡。
村上が差し出した、神域の土と清水の上。
三島の祝詞が響く空間の節点。
直弦の手は止まらなかった。
シリンジから、旧配合の封止ゲルが薄く押し出される。
緩衝材、和紙繊維、塩。
平原化学の片隅で、何年も望まず扱ってきた素材だった。
だが今、それらは澪の力を彼女自身へ戻さないための逃げ道になっていた。
完全とは言えない。それでも、今この場を持たせるには足りた。
回り道だと思っていたものが、今は澪をこちら側へ残すために働いている。
直弦には、それが指先で分かった。
「清成、声を切るな」
澪が削られているのではない。
澪を起点にして、門の圧そのものが神域の古い縫い目へ流し直されている。
古い祭祀とも、保全機構の封鎖とも違う立ち方だった。
「澪、もう一踏ん張りしてください」
三島が祝詞の合間に、実務的な、しかしどこか震える声で言った。
「あなたが倒れれば、この境界も崩れてしまいます」
三島は、澪をここから遠ざけたかった。できるなら、ただの少女のまま守りたかった。
けれど澪は、もうそこに立っている。後は、今できることをするだけだ。
三島は祝詞を切らさなかった。
少し離れた後方で、相楽は御門を見ていた。
直弦の方法を認めたわけではない。
再現性のない賭けだという判断も変わっていない。
それでも、御門から溢れ出かけていた影は止まっていた。
そして、澪はまだ立っている。
しかも、壊れていない。
その事実だけが、彼の判断を一拍止めた。
相楽は、排除命令を出さなかった。
「封鎖線は維持」
相楽は、御門から目を離さないままインカムに続けた。
「観測班、計器から目を離すな。彼女の後方に入るな。巻き込まれるぞ」
彼は直弦の方法を手放しで認めたわけではなかった。
ただ、現場の被害が抑え込まれている以上、沈黙を選ぶしかなかった。
澪の足元から伸びる糸は、静かだった。
必要な場所にだけ細く伸び、澪の内側ではなく、場の方へ圧を流していく。
「……残って、守る」
澪は、自分に言い聞かせるように呟き、深く息を吸った。
その言葉とともに、背中の結び目はぶれなくなった。
外へ向いた律糸が、静かに張りを増していく。
御門の奥から押し寄せる圧は、もう澪の身体へ食い込んでこなかった。
澪が立ったその場所を起点に、場の形そのものが変わっていく。
消滅したわけではない。門の向こう側で、まだ何かが蠢いている。
だが、こちら側へは出てこられない。
澪の膝は、まだ小刻みに震えていた。
顔色も青白いままだ。
だが、彼女は倒れなかった。自分の足で、しっかりと大地を踏みしめていた。
「……閉じたのではないな」
風が一段弱まり、町へ向かっていた青白い明滅も遠くで収まり始めた頃、村上が直弦を見て言った。
御門の奥には、まだ泥のような暗がりが残っている。
消えたわけではない。人の側へ流れ込む道が、一時的に塞がれただけだ。
「止めただけです」
直弦は、空になったシリンジを下ろしながら短く答えた。
「でも、河野さんは残ってる」
直弦は、荒い息を吐きながら立ち続ける澪のそばへ歩み寄った。
澪の顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、背中の結び目はもう、彼女の内側へ食い込んでいなかった。
「持ちますか」
直弦が問うと、澪は少し遅れて彼を見た。まだ、顔色は戻っていない。
「持たせます」
澪は、はっきりと答えた。
「でも、私だけでは無理です」
それは、彼女が初めて口にした、自分だけで世界を抱え込まないための言葉だった。
「分かっています」
直弦は深く頷いた。
これで終わらないことは、直弦にも分かっていた。
澪の守護で、少しだけ猶予はできた。
だが、門全体はまだ安定していない。
欠片、土地、依代。
その三つを繋ぎ直さなければ、この均衡も長くは保たない。
御門の奥で、暗がりがまだ脈を打っていた。
澪は、もう杭ではなかった。
けれど御門は、まだ閉じていない。
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