第27話 残るための境界
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直弦の指先が、澪の背中の結び目に触れる寸前、青白い糸が強く跳ねた。
澪の肩が震える。振り返る余裕は、もう彼女にはなかった。
背後では、保全機構の隊員たちが封鎖の機材を構えたまま、相楽の次の指示を待っている。
直弦の視界には、激しいノイズが走っていた。
怖い。それでも、目は結び目を追っていた。どこでねじれているのかが、見えてしまう。
「違う」
直弦はシリンジを握った手を寸前で止め、澪の耳元で言った。
その声には、余裕がなかった。澪を安心させるための言葉ではなかった。
「門の圧に負けてるんじゃない。君が、自分をそっちへ寄せてる」
澪の肩が、弾かれたように震えた。
唇が小さく震え、すぐには言葉が出なかった。
「……何、言ってるんですか」
「守るために消える方へ、結び目ごと傾いてるんだ」
直弦は、結び目の中心から内側へ食い込もうとしている律糸の束を睨みつけた。
「自分が消えれば済むと思ってるから、力の向きが内側へ固定されてる。結び目がねじれてるのは、そのせいだ」
「……っ」
澪の顔が歪んだ。
神域の圧に押し潰されているだけではなかった。自分が消えればいいという諦めが、力の向きを内側へ曲げている。
言われたくなかった。
澪自身も、そこから目を逸らしていた。
直弦は、一度だけ短く息を吸った。
そして、普段なら選ばない言葉を口にした。
「……お前は、門を閉じるための杭じゃない」
直弦には、そう見えていた。大山祇の権能は、人を捨てるためのものではない。
澪が部材として消える形は、間違っている。
けれど、それだけでは澪は止まらなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか!」
澪が、直弦に向かって叫んだ。
声は風に削られて、かすれていた。
「私が下がったら、町が壊れる! お母さんも、お婆ちゃんも、宮浦の人も巻き込まれる!」
彼女の足元で、青白い糸が切れそうに震えた。
「残って……それで誰か守れるんですか! 私じゃないなら、誰が止めるんですか!」
ずっと、一人で書き留めてきた。
島で感じた違和感も、怖かったことも。
自分がおかしいのだと思ってきた。
だから、自分が前に出ることで誰かが助かるなら、それでいいと思いたかった。
直弦は、その叫びを受け止めた。
うまい言葉は出てこない。直弦は、こういう時の言葉をいつも間違える。
それでも、理屈だけでは澪に届かないことは分かっていた。
「全部を受けるな」
直弦は、一歩だけ澪に近づいた。
「島ごと背負うな。そんなもの、人間の持てる重さじゃない」
「でも……」
「今、ここにいる人を守れ」
直弦は、息を継いだ。
「……お前も、その中に入れろ」
澪の目が、わずかに見開かれた。
自分も、守られる側に入れていい。
その考えに、澪の呼吸が乱れた。
直弦は、手元のシリンジを下ろし、素手で澪の背中の結び目へ触れた。
「っ……!」
採律の負荷が、頭の奥で弾けた。
視界が白く飛び、耳の奥で甲高い音が鳴った。
触れたところから、澪の感覚が流れ込んできた。
恐怖と孤独。自分が異常であることへの怯え。
自分が消えて済むなら、その方がましだという思い。
澪はいつも、守る時に自分を一番最後に置いてきた。それが律糸の向きと重なり、結び目を内側へ沈ませている。
もう理屈だけではなかった。澪がどんなふうに自分を削ろうとしているのか、直弦の手に伝わってきた。
シリンジを握り直す彼の手が、怒りと焦りで小さく震えた。
「その賭けに、現場全体を巻き込むつもりですか」
背後から、相楽の低い声が飛んだ。
「越智直弦。あなたのそれは、ただの感情論だ。現場を預かる側の判断ではない」
相楽は揺らがなかった。
直弦の手順を通すわけにはいかない。それだけを見ていた。
村上と三島も動けなかった。
村上は歯を食いしばった。奇跡など軽々しく信じない。
それでも、「杭じゃない」という直弦の言葉を、すぐには否定できなかった。
三島は、直弦の背中を見つめたまま動けなかった。
止めなければならない。けれど、直弦の言葉が澪をこちら側へ引き戻しかけているのも見えていた。
「感情論でいいです」
直弦は相楽を振り返ることなく、澪の結び目に触れたまま言い放った。
「澪さんが残ることを計算に入れない封鎖なんて、ただの欠陥だ」
御門の奥から、重い圧がもう一度来た。
澪の身体が大きくよろけ、足元の青白い糸が千切れそうになる。
(耐えろ。向きを変えろ)
直弦は、澪の結び目へシリンジの先端を当てた。
澪の足元で、敷石の隙間に張られていた青白い糸のうち、たった一本だけが、今までとは違う動きを見せた。
門へ押し返すでもなく、内側へ引き込むでもない。
ただ、澪の足元に留まろうとするように。
わずかに、しかし確かに、糸が張った。
澪は気づいていなかった。圧を抑えるだけで精一杯だった。
だが、結び目に触れていた直弦だけは、手応えが変わったのを感じていた。
(……いける)
直弦の視界の中で、内側へ沈み込んでいた結び目が、かすかに揺れた。
ほんの少しだけ、外へ向かおうとしていた。
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