第26話 仮説の終わり
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生樹の御門から、風が吹きつけていた。
さっきまで消えていた潮の匂いが、濡れた冷気に混じっている。
海は見えないのに、その匂いだけが参道を走った。
澪の膝が一度、深く落ちた。それでも、彼女は倒れなかった。
彼女の足元から、青白い糸が放射状に走っていた。その光は、今にも途切れそうに明滅している。
光が細るたび、御門の奥の暗がりが一歩分、こちらへ滲み出る。
澪は歯を食いしばったまま、膝を震わせていた。糸は切れかけた細さのまま、かろうじて御門の圧を受け止めている。
直弦は、保冷バッグから取り出したシリンジを握りしめたまま、その中心に踏み込んでいた。
考える猶予はない。
御門の空洞の奥で、暗がりが濃くなっている。形になりきらない何かが、町の方へ流れ出そうとしていた。
足はすくみそうだった。
それでも、直弦の目は糸を追っていた。
そういう癖だけは、こんな時でも残っている。
直弦は、澪の背中に食い込む結び目を見た。それから、御門を縫い留めている古い糸を見る。
視界のノイズの中で、律糸の流れが重なって見えた。
目を凝らすうちに、澪へ向かう糸と、御門へ戻ろうとする糸の違いが見えてくる。
澪の力が足りないのではない。門の圧力が強すぎるだけでもない。
(……向きが違う)
直弦は、そこでようやく気づいた。
澪は、門の圧を町へ行かせまいとしている。その一方で、澪は、受け止めようとしている。
町も、母も、祖母も、全部。
その思いが、糸を澪の内側へ引き込んでいた。
守護の力そのものが悪いわけではない。向きだけが、間違っている。
このまま続けば、門は閉じるかもしれない。
だが、その中心にいる澪だけが削り取られていく。
これまで見てきたものが、ひとつの場所へ寄っていく。
岡山の欠片。蔵の古い石。澪の背中の結び目。生樹の御門。
直弦は、ようやく一つの形を見た。
もし最初から生贄を求めるものなら、こんなふうには絡まない。もっと単純に、依代を飲み込んで終わるはずだ。
「……違う」
直弦は、強風の中で小さく呟いた。
「これは、生贄を取る形じゃない。本来は、人を残して守るためのものだ」
大山祇の権能は、人を捨てて門を閉じるためのものではない。境界を保持し、人と土地を共存させるためのものだ。
だとしたら、相楽のやり方は現場の論理としては正しくても、この門の形とは合っていない。
神社の伝承も、初めから人を差し出すためのものではなかったのかもしれない。長い時間の中で、守るための形だけが残り、意味が少しずつずれていった。
澪が「守ることは自分が消えること」だと思い込むほど、糸は内側へ向かう。それが、彼女を壊しかけている。
必要なのは、これ以上澪に力を振り絞らせることではない。
力を増幅させるのではなく、その向きを正すことだ。
御門の圧を、澪一人に受けさせない。
向きを変える。
土地へ。祭祀場へ。瀬戸内に残る古い網へ。
そして、自分が持ち込んだ調律材へ。
閉じるのではなく、つなぎ直す。
流れの向きを定め直す。
定向の調律。
机の上で考えていた言葉が、今は手順として見えていた。
直弦は手元の保冷バッグを全開にした。
旧配合の封止ゲル。
微細構造を安定させる緩衝材。
吉備の古配合に連なる塩と和紙繊維。
どれも、直弦が望んで扱ってきたものではなかった。
志保から送られてきた劣化パターンが、頭の中で配合比率へ置き換わっていく。
「村上さん、土と清水を」
村上が眉を動かした。
「忌地のか」
「はい。ここで使います」
「三島さんは、場を保ってください。河野さんの線を崩さないように」
村上は一瞬だけ迷った。それでも、懐の布包みに手を入れる。
三島も何も聞き返さなかった。低く祝詞を継ぎ、澪の足元の線を保つ方へ声を寄せる。
村上が差し出した土と清水を、直弦は受け取る。
直弦は、シリンジの中でゲルと塩、そして神域の土と清水を混合した。
分量を量る時間はない。
手触りと粘度、視界に見える律糸との馴染み方で判断する。
足りるか、弾かれるか。
それを指先で読む。
平原の古い配合。
大山祇の土と水。
三島の祝詞。
村上の祓え。
ばらばらだったものが、澪の足元でようやく一つの形を取り始めた。
直弦の手が、微かに震えていた。
自分の仮説が間違っていれば、門の圧は暴れる。
澪は無事ではいられない。
この島も、どこまで持つか分からない。
これは本当に澪を残すための理屈なのか。
自分が見てきたものを証明したいだけではないのか。
だが、手を出さないという選択肢は、もう直弦の中にはなかった。
直弦は、ずっと見る側にいた。
現象の外から、糸の流れを追ってきた。
けれど今は、触れなければならない。
直弦が、調律材を満たしたシリンジを澪の結び目へ向けようとした瞬間だった。
「やめろ」
相楽の声だった。
低く、よく通った。
背後で、保全機構の隊員たちが直弦を制止しようと動きかける。
「あなたの理論は実証されていない。ここで構成を崩せば、門が完全に開く」
相楽の目は、少しも揺れていなかった。
「失敗すれば、ここにいる全員を巻き込む」
脅しではなかった。相楽は、本気でそう見ている。
そのことが、直弦にも分かった。
風が、耳元で唸った。
澪の足が、もう限界を迎えていた。
境界の糸が細くなり、御門の暗がりがさらに前へ滲む。
直弦は、相楽を見返した。
もう、観測者としての理屈で反論する気はなかった。
「ここで、何もしなければ……」
直弦は、調律材を握り直した。
「澪さんは、無事では済みません」
御門の圧が、さらに膨れた。
直弦は相楽の制止を振り切り、澪の背中の結び目へ手を伸ばした。
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