第25話 生樹の門を越えて
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社務所から神域の奥へ向かう道は、もう昼間と同じ道ではなかった。
島のはずなのに、潮の匂いがまったくしない。代わりに、カラカラに乾いた古い木の匂いと、冷えた土の匂いが、息を吸うたび胸の奥に残った。
保全機構が持ち込んだ仮設灯の光が足元を照らしているのに、なぜか視界の隅は墨を流したように暗かった。風が枝葉を揺らしているが、ザワザワという音だけが一拍遅れて届くような、奇妙な感覚のズレがある。
土は乾ききっているはずなのに、一歩踏み出すたびに、靴の裏に重く粘りつくような感触が残った。
直弦の隣を、澪が無言で歩いていた。前を歩く村上と三島の背中も、張りつめていた。少し離れた後方からは、相楽に率いられた保全機構の部隊が、一定の距離を保ちながら粛々とついてきていた。
彼らは同じ場所に向かっているが、決して一つの輪の中にはいない。それぞれ別のやり方で、同じ危機に向き合っていた。
参道の奥。ぽっかりと空いた空間に、生樹の御門が立っていた。
だが、それはもう、御神木と呼べる姿ではなかった。
風向きが、いつもと違っていた。
背後の神体山の方角から、海の底のような冷たい潮の匂いが吹き下ろしてくる。
仮設灯の光が青白く明滅を繰り返し、周囲の木々の影が、光源の位置とは関係なく異様に長く伸びては縮む。
空間そのものが、歪んでいるようだった。
直弦の視界の中で、中心が崩れていくのがはっきりと見えた。
御門の空洞を覆うように縫い留められていた無数の律糸。何代にもわたって、祈りと土地の理で継ぎ当てられてきた古い縫い目が、内側からの圧にぎりぎりと軋んでいた。
岡山の研究所の地下で見た、空間を食い破る一本の線とはまるで違った。巨大な瘡蓋が、内側から裂けかけていた。
恐怖より先に、崩れ方が目に入った。直弦は、まず壊れ方を見る人間だった。
少し離れた場所で、相楽はインカム越しに的確な指示を飛ばし続けていた。
「封鎖線を下げるな。町側への漏出を最優先で抑えろ」
彼は、御門の異常を目の前にしても、決して声を荒げない。
「第一班は避難誘導を継続。第三班、こちらへ。封鎖処置は予定通り進める」
町側を抑えながら、御門の封鎖処置まで進めている。直弦には、その手際の良さが嫌でも分かった。
保全機構の隊員たちが、樹脂製の杭と金属のワイヤーを展開し、御門を取り囲むように陣形を組んでいく。迷いのない動きだった。
直弦は、相楽を冷酷な悪だと切り捨てることはできなかった。
町を守るというだけなら、相楽の判断は間違っていない。だからこそ、澪を中心に配置するという選択が厄介だった。
澪は、御門から来る圧の前で、足を小刻みに震わせていた。
だが、彼女は逃げ出そうとはしなかった。
避難誘導から取り残されていた老婆の姿。不安そうに電話を握っていた母の背中。和室の片隅で、湯呑みを見つめていた祖母の震える手。
「……私で止まるなら、それでいいです」
澪が、ぽつりと言った。
それは覚悟というより、半分諦めたような声だった。
自分を差し出せば、もう誰も傷つかない。あの重い監視の目からも、自分の力の不気味さからも離れられる。
澪は、もうそれを受け入れていた。
直弦は息を呑んだ。
彼の目には、澪の背中から御門へと伸びようとする青白い律糸がはっきりと見えていた。
町で引いた境界の糸とは違う。澪の背から伸びた糸が、そのまま御門へ食い込もうとしている。このままでは、彼女は門を押さえるための杭にされる。
「違う」
直弦は、絞り出すように言った。
「それは守る糸じゃない」
杭じゃない、とまでは言えなかった。そう言い切るだけの手段を、直弦はまだ持っていなかった。
その迷いが、彼の言葉を短く切らせていた。
その直後、御門の空洞の奥の暗がりが、突如としてどろりと濃くなった。
音もなく、まだ形になりきらないものが、向こう側から押し寄せてきた。
そこから、まだ輪郭を持たない何かの圧が、町の方へじわりと滲み出してくる。
澪が、弾かれたように一歩前へ出た。
彼女の足元から、青白い糸が走る。
空間の歪みに線を引くように、彼女は自らの意志で、押し寄せる圧力を押しとどめた。
それは、力で弾き返すのではなく、決壊しかけたところへ身体を押し当てるような、強引で痛々しい固定だった。
異形の流入が、見えない壁に阻まれたように一瞬だけピタリと止まる。
だが、澪の顔が苦痛に歪み、膝がガクッと折れ曲がりそうになる。
あの巨大な質量と、何千年も溜め込まれた土地の淀みを、彼女一人の境界で支えきれるはずがない。長くは持たない。
「封鎖処置、開始しろ」
相楽の冷徹な声が響き、特殊な機材を持った隊員たちが動き出した。
相楽は、澪が作った境をそのまま封鎖の芯にしようとしていた。
直弦は、自分の手札がまだ仮説に過ぎないことを知っていた。
大山祇の伝承にあった「綱掛け」。
平原化学の古い資料に残っていた「封物との共鳴」と「鬼気安定化」。
そして、志保から送られてきた旧配合の劣化パターン。
結び目をどうすれば繋ぎ直せるのか、確証はない。岡山で扱ってきた技術が、この網にどう届くのかも分からない。
だが、もう観測しているだけでは済まないと知った。
理屈を並べている間に、澪は使われる。
間違えれば終わる。
分かっていても、立たない方は選べなかった。
直弦は平原化学のロゴが入った保冷バッグを強く掴み、村上と三島の間を抜けた。
村上と三島が、直弦のために道を空けた。
頼むという言葉はなかった。だが、二人がそこを譲ったこと自体が答えだった。
直弦は、御門から吹きつける逆巻いた風の中へ踏み込んだ。
澪の足が崩れかける。
相楽の部隊が、封鎖用のワイヤーを展開しながら迫る。
その背中の結び目と、御門の崩れかけた縫い目。
直弦はその狭間で、シリンジを握った右手の指先を上げる。
切るか、つなぎ直すか。
答えはまだない。それでも直弦は前へ出た。
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