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第24話 守るという呪い

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

宮浦の町には、朝になっても昨夜の気配が残っていた。


夜の異変の後始末は、朝を過ぎても続いている。

港の一部は黄色と黒の規制テープで封鎖されたままで、住民の立ち入りは厳しく制限されていた。


澪は、大山祇神社の社務所の奥、日当たりの悪い和室にいた。


食事は運ばれてくる。体調も、決まった時間に確認された。

しかし、立ち上がるだけで、廊下の気配が動く。手洗いに向かう時も、少し離れて足音がついてきた。


鍵は掛かっていない。それでも、澪は部屋を出られなかった。


誰も露骨に彼女を責めたり、見捨てたりはしない。だからこそ、余計に逃げ場がなかった。


和室の縁側からは、宮浦の町の一部が見下ろせた。


普段ならフェリーを待つ車や観光客で賑わうはずの港湾道路に、保全機構の車両が列をなしている。海沿いの商店は半分だけシャッターを下ろし、避難を促されて家を空けた住民たちの戸口には、点検済みの紙が貼られていた。


澪の母親と祖母も、不安を隠せない様子で神社の控えの間に身を寄せていた。


「……ええ、まだしばらく戻れんゆうてね。ガス管の点検が長引きよるらしくて」


廊下の向こうで、母が親戚に電話をかけている声が聞こえる。

明るく話そうとしているのに、語尾が少しだけ震えていた。


澪は、膝の上で指を握った。


祖母は和室の片隅で、出されたお茶を飲むでもなく、湯呑みを両手で包んだまま座っている。


目に入るものが増えるたび、澪は顔を上げていられなくなった。


神域の危機だの、世界の理だのと言われても、澪には遠すぎた。目に入るのは、母の声や、祖母の手や、町に貼られた紙ばかりだった。


自分の知っている日常が、自分のせいで少しずつ壊れていくように思えた。


昨夜、自分が前に出たことで、路地に取り残された老婆は助かった。町は守られた。

なら、自分があの人たちの言う通りに立てば、母も祖母も、また元の静かな暮らしに戻れるのではないか。


立派な覚悟などではなかった。

そう思わないと、母の声を聞いていられなかった。


「……体調はどうですか」


襖が開き、直弦が部屋に入ってきた。


澪は顔を上げず、ただ短く「平気です」とだけ答えた。


直弦の目には、澪の背中にある結び目の状態がはっきりと見えていた。


昨夜までは、彼女の内側に流れる青白い律糸が、外からの圧力を押し返すための盾のように編み込まれていた。だが今は違う。結び目は彼女の存在そのものを芯にして、内側へ内側へと深く食い込むように巻き直されている。


理屈としては読める。彼女の力は、町を守るために外へ伸びているのではない。澪自身を、どこかへ打ち込もうとしている。


壊れる方へ向いている。直弦には、そう見えた。


「その力は、使わない方がいい」


直弦は、なるべく感情を抑えた声で言った。


「それは守ってるんじゃない。自分を潰してるだけです」


澪は、縁側の外を見たまま動かなかった。


「……潰れたら、駄目なんですか」


声は小さかった。縁側の外を見たまま、澪は続けた。


「私が潰れて、それで町が元に戻るなら、その方がいいじゃないですか」


「そんなわけないだろ」


思ったより強い声が出た。


「君一人を差し出して済むなら、こんなことにはなってない」


直弦の口から出るのは正しい理屈だった。だが、それが彼女の心に届いていないことは、彼自身が一番よく分かっていた。


駄目だ、と言いたい。それだけは絶対に駄目だと。


けれど、なぜ駄目なのかを、うまく言葉にできない。


結び目の状態なら説明できる。澪の力がどこへ向いているかも分かる。でも、それでは足りない。


『君は彼女を救いたいのか。それとも、自分が見てきたものが正しかったと証明したいのか』


相楽に突きつけられた言葉が、また頭をよぎった。


証明したい気持ちが、自分の中にないとは言えない。

それでも、澪を部材にされることだけは許せなかった。


その二つが、うまく分けられない。だから直弦の言葉は、一歩遅れる。


「越智さん」


澪がゆっくりと振り返り、直弦を真っ直ぐに見た。


澪はまばたきもせず、直弦を見ていた。その目には、もう揺れがなかった。


「越智さんは、私を見てるんですか」


直弦は、すぐに答えられなかった。


「それとも、私の背中にある結び目を見てるんですか」


直弦の呼吸が止まった。


違う。

そう言いたかった。

結び目だけじゃない。君を見ている。そう言えばよかった。


けれど、直弦の言葉は、また、一拍遅れた。


その一拍で、澪は少しだけ目を伏せた。


「……ですよね」


澪は、小さく笑った。


その表情を見て、直弦は分かった。

今の沈黙で、澪は答えを受け取ってしまった。

手を伸ばしかけたが、澪はもうこちらを見ていなかった。


その後も、澪の部屋を訪れる大人たちはいた。けれど、誰も長くは話さなかった。


直弦と入れ替わるように部屋を訪れた三島は、澪の顔を見て、用意していたはずの励ましの言葉をすべて飲み込んだ。


澪を守りたい。


けれど、神社もずっと、澪を「近い子」として見てきた。相楽だけを責めれば済む話ではない。


三島は、それを分かっていた。


「……何か、必要なものはあるかな」


それが、やっと出た言葉だった。


廊下の奥では、村上が腕を組み、境内の外を睨みつけていた。


「あの男のやり方は外道だ」


村上は低い声で吐き捨てた。しかし、その後が続かなかった。


澪の力を使えば、町は守れる。その事実が、村上の言葉を止めていた。


「お前はもう必要ない」とは言えなかった。


誰も、澪を傷つけようとしているわけではない。けれど、誰も「行くな」とは言わなかった。


澪には、それが答えのように思えた。



昼下がり。


直弦が去り、三島も退室した後、澪は一人、畳の上に正座していた。


澪はそっと目を閉じた。


不安そうに電話をかけていた母の背中。震える手で湯呑みを持っていた祖母。

宮浦の町で、息苦しそうに膝をついていた人たち。

そして、うまく言葉を見つけられず、ただ沈黙した直弦の顔。


(私が受ければ、済むんだ)


そう思うと、胸の奥が少しだけ静かになった。


自分の力が役に立つなら。周りの人がこれ以上傷つかないなら。


使われてもいい。

そう思ってしまった。


遠くから、重機のキャタピラが砂利を踏みしめる音と、金属の資材がぶつかり合う音が聞こえてきた。

保全機構が、境内の外側で封鎖処置の準備を進めている音だった。


澪はゆっくりと目を開け、立ち上がった。

相楽が迎えに来れば、抵抗せずに従うつもりだった。


同じ頃、社務所の別の部屋でその重機の音を聞いていた直弦は、手の中のスマートフォンを強く握りしめていた。


澪が今、どちらへ傾きかけているのか、直弦には分かっていた。


彼女の背中の結び目が、また一つ、深く沈む。直弦には、そう見えていた。


止めなければならない。


だが、直弦の手にはまだ、彼女を救い出すための理屈が揃っていなかった。


その時、スマートフォンが震えた。


画面に、妹尾志保の名前が表示されている。


添付ファイルが一つ。


件名は短かった。


『旧配合の劣化パターン、大山祇の反応と一致』


直弦は、画面を見たまま動けなくなった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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