第23話 切る側の人間
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宮浦港に、朝が来た。
カモメの声が遠くから聞こえてくる。それでも、港はいつもの朝ではなかった。
普段なら、夜明け前から漁船のエンジン音がいくつも重なっている時間だ。
だが今朝は、岸壁に係留された船が、ロープに繋がれたまま静かに揺れているだけだった。
港湾道路には、保全機構の黒塗りの車両が等間隔で停まり、黄色と黒の規制テープが朝の風にバタバタと煽られている。住民たちには海底ケーブルの緊急点検だと説明されている。
作業服姿の隊員たちが、周囲の残留数値を計測しながら後処理を続けていた。
直弦は、社務所へ戻るための車が停められた場所から、少し離れた防波堤のそばを見ていた。
澪がパイプ椅子に座っている。そのすぐ斜め後ろには、変わらず保全機構の女性隊員が立っている。
澪が少し身じろぎするたび、その視線も動いた。
昨夜、自分の意思で町を救った澪は、もう一人では動けなくなっていた。
「……越智さん」
難波が背後から小声で呼びかけてきた。
「相楽さんが呼んでます。一人で、だそうです」
直弦は微かに顎を引き、もう一度だけ澪の背中を見た。澪はこちらに気づいているようだったが、視線を合わせようとはしなかった。
直弦は、港の端に設けられた仮設指揮所の方向へ歩き出した。
少し外れた波止場のそばに、相楽征司は立っていた。朝の風を受けながら、彼は海面を見ていた。
直弦の足音に気づくと、相楽はゆっくりと振り返った。
「昨夜の処置について、確認しておきたいことがあります」
挨拶や前置きはない。
直弦は、相楽から目を逸らさなかった。
「河野さんを中心に置く話なら、認めません」
相楽は、すぐには答えなかった。表情を動かさず、直弦を見返した。
「結果は出ています。あなたの即席の封緘材と、彼女の固定。それで被害は抑えられた」
「なら……」
「ですが、現場では再現性のない手段は採用できません」
「失敗したわけじゃない」
直弦が反論する。
「成功したからこそ、危険です」
相楽は一歩だけ直弦に近づいた。
「一度成功した方法は、次も通用すると人を錯覚させる」
相楽は、波止場の向こうへ視線を向けた。
「あなたの方法は確かに一度成功した。だが、二度目で大勢を殺すことになるかもしれない。私たちは現場で、それを賭けと呼びます。住民の命を、再現性のない処置に預けることはできません」
直弦は奥歯を噛みしめた。自分の見出している理論が未完成であり、常に綱渡りであることは、自分が一番よく分かっている。だからこそ、すぐには言い返せなかった。
「だからって……彼女を部材のように扱うのが正しいとは限らない」
直弦は相楽を見たまま言った。
「あなたは、前にも誰かを中心に置いたんですか。そうやって人を犠牲にしてきたから、そんなふうに言い切れるんですか」
相楽は、かすかに目を伏せた。
「……逆です」
「逆?」
「置かなかった。だから、広がった」
相楽は、そこで少しだけ目を細めた。直弦を見ているようで、見ていなかった。
「祝島でした。周防灘の島です。あそこも、古くから神霊の鎮まる場所として扱われてきた」
相楽は、そこで一度だけ言葉を切った。
「そこに、条件に適合する依代候補がいた」
声の調子は変わらなかった。ただ、その話だけは、相楽も少しだけ言葉を選んでいた。
「彼女には家族がいて、神社の意向があり、何より本人がひどく怯えていた」
海風が、二人の間を吹き抜ける。
「私は、彼女を人として残す道を探した。彼女を使わずに済む方法を協議し、封鎖の判断を遅らせた」
相楽は、わずかに目を伏せた。
「結果として、門は広がった。避難は間に合わず、負傷者も出た。彼女も、生きては残りましたが……以前と同じ形では残せなかった」
相楽は再び直弦を見た。
「あの時、私は人を見ていました。現象を見ていなかった。だから、人も現象も守れなかった」
直弦は、ようやく分かった。相楽は、澪を憎んでいるわけではない。直弦を軽く見ているわけでもない。
ただ、迷った先に何が起きるかを知っている。
「私は、次の犠牲を出さないために、河野澪さんを使います」
「……僕は、彼女を救いたいだけです」
直弦のその言葉に、相楽の視線が少しだけ鋭くなった。
「本当にそうですか」
「何が言いたい」
「越智直弦。あなたは有能だ。だからこそ危険だ」
直弦は眉をひそめた。褒められているのではないことだけは分かった。
「あなたは、河野澪さんを救いたいのか。それとも……自分が見てきたものが正しかったと、証明したいのか」
直弦は、すぐには言い返せなかった。
誰にも信じてもらえなかったものが、今は目の前の現象としてつながっている。
自分が見てきたものは、間違っていなかった。そう言いたい気持ちが、まったくないとは言えなかった。
直弦は言葉を失った。
違う、と言いたかった。だが、どこまでが違うのか、直弦自身にも分からなかった。
直弦が押し黙ったのを見て、相楽は静かに息を吐いた。
「あなたが代案を出すなら、私はそれを検討します」
相楽はそこで一度、海の方へ視線を戻した。
「だが、代案がない間は、私は河野澪さんを使う」
相楽はきびすを返し、指揮テントの方へ戻っていった。
直弦は、その背中に何も言い返せないまま、ただ立ち尽くすしかなかった。
駐車場へ戻る道すがら、直弦は澪とすれ違った。
女性隊員に付き添われた彼女は、うつむき加減で歩いていたが、直弦の姿を認めるとふと足を止めた。
澪は、何かを待っているように直弦を見た。
大丈夫だ、と言えばよかった。けれど、その言葉は出てこなかった。
澪は短く息を吸い、ぽつりと言った。
「……越智さん、無理なら、無理って言ってください」
直弦は、その場から動けなくなった。
澪は責めたいのではない。期待していいのか、諦めた方がいいのかを知りたいだけだった。
直弦が答えられないのを見ると、澪はそれ以上は何も言わず、隊員と共に歩き去っていった。
直弦が社務所の近くまで来たとき、ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には、志保の名前が表示されていた。
「……志保さん」
『越智くん。こっちの状況、報告しとくわ』
志保の声は平坦だったが、徹夜明けの深い疲労が滲んでいた。
『鬼ノ城周辺は、保全機構の岡山班が封鎖線を引いてる。うちの旧配合の封緘材もかなり引っ張り出させて、どうにか対応してるわ』
「止まってるんですか」
『ううん。止まってるんじゃない。押さえ込んでるだけ』
『鬼ノ城も、吉備津も、備中国分寺の近くも、同じような反応が残ったままよ。保全機構も、うちの会社も、いつまで蓋をしていられるか分からない』
直弦は目を閉じた。
『そっちが崩れたら、たぶんこっちも保たない』
志保は少しだけ間を置いた。
『だから、越智くん。答えを急いで』
通話が切れた後も、直弦はしばらくスマートフォンを下ろせなかった。
相楽は、澪を使うと言った。三島は、代わりの道を示せと言った。澪は、もう自分が使われることに抗いきれなくなっている。
そのどれにも、直弦はまだ答えられない。
そして志保は、岡山も保たないと告げた。
直弦は、朝の海を見た。
波は静かに打ち寄せ、海面はすでに明るい朝の色をしていた。
その下で、青白い線だけが、まだ震えている。
答えを出さなければ、澪は杭になる。
答えを間違えれば、瀬戸内が崩れる。
猶予は、もうどこにもなかった。
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