第22話 封鎖線の中心
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夜明け前の宮浦港には、潮の湿った匂いと、夜通し張りつめていた空気が残っていた。
異形は押し返され、港を狂わせていた異常な圧力は引いた。
乱れていた潮位計の数値は落ち着き、街灯の青白い明滅も止まっていた。
警報サイレンが鳴り止んだ町は、白み始めた空の下で、一見すると何事もなかったかのように静まり返っていた。
それでも、町のあちこちには昨夜の跡が残っていた。
港湾道路には保全機構の黒塗りの車両が等間隔で停まり、細い路地の入り口には、進入を禁じる黄色と黒のテープが張り巡らされている。雨戸が震えた民家の前では、防護服を着た隊員たちが淡々と計器を覗き込み、残留する異常の数値を記録し続けている。
逃げ遅れていた老婆は無事だったが、救護用の毛布を掛けられ、顔色を失ったまま隊員の質問に頷いていた。
澪は、その路地から少し離れた防波堤のそばに、パイプ椅子を与えられて座っていた。
彼女のすぐ背後には、保全機構の女性隊員が無言で立っていた。
ときおり体調を確認するように声をかけていたが、澪が少し身じろぎするだけで、その視線も一緒に動いた。
保護というより、見張りに近かった。
澪はただ静かに座っていた。
時折、膝の上に置いた自分の両手を、じっと見つめている。指先が少し動いては、また止まる。
昨夜、自分が前に出たことで、町は持ちこたえた。
けれど澪は、その事実をどう受け止めればいいのか分からずにいた。
「――以上が、現時点での状況です」
港の一角に設けられた仮設の指揮テントで、相楽がタブレットの画面を切り替えながら言った。
テントの中には、直弦、村上、三島の三人が集められていた。
画面に表示された地図には、大山祇神社の生樹の御門、そこから宮浦港へと伸びる地形、そして昨夜異常が確認された路地が、赤い線と点で結ばれている。
「次に同じ規模の圧力が抜けた場合、町側に出てから対応していては遅い」
相楽の声は、低くよく通った。
「被害を最小限に抑えるためには、発生源である神域と、この町との境界線上で、最初から圧力を削ぐ必要があります」
誰も否定できなかった。異常はもう、神域の中だけに収まっていない。
相楽はタブレットを置き、村上と三島、そして直弦をゆっくりと見渡した。
そして、本題に入った。
「河野澪さんを、封鎖線の中心に置きます」
テント内の空気が止まった。
「……その子を杭にするつもりか」
村上が、地を這うような低い声で唸った。
「門の災害を止めるための、中心点です」
相楽は悪びれる様子もなく、言い直した。
「彼女が引く境界線は、神職の祓えよりも、我々の物理的封鎖よりも、強固に異常の抜けを防ぐ。昨夜の結果がそれを証明しています」
「認められません」
三島が一歩前へ出て、相楽を鋭く睨んだ。
「彼女の力は、完全に制御できているわけではない。何より、澪をあのような形で、道具のように扱うことは……」
「昨夜、確認されています」
相楽は、三島の言葉を遮った。
「彼女の固定で影が止まり、越智さんの封緘で押し返した。その結果、住民の被害は避けられた。」
町は助かった。
相楽にとっては、それで十分なのだろう。
「その方法だと、河野さんが残らない」
直弦は、じっと相楽を見据えたまま言った。
澪を中心点にすれば、門からの圧は止まるかもしれない。だが、直弦には見えていた。
澪の背中の結び目は、昨夜よりも深く沈んでいる。自分自身を、そこへ打ち込まれかけている。
このまま続ければ、澪が残らない。
「彼女の命を削って、一時しのぎの壁を作る気ですか」
直弦の声に、抑えきれない怒りが混じった。
「人を、封鎖材みたいに言うな」
相楽は直弦の怒りを受けても、表情一つ変えなかった。
「残すことが最優先ではありません」
「一人を残して百を失う判断を、私は正しいとは言わない」
相楽は、直弦を見た。
「越智さん、あなたの方法はただの賭けです。代案が出るまで、こちらは止まりません」
テントの外から、微かな足音が聞こえた。
直弦が振り向くと、入り口の隙間に、澪が立っていた。
監視の女性隊員に付き添われ、席を外した帰りだったのだろう。
彼女は、テントの中での会話を最初から聞いていたわけではないはずだ。
だが、『中心点』『封鎖処置』『残すことが最優先ではない』。
その断片だけは、確かに彼女の耳に届いていた。
澪の目が、直弦と合った。けれど、すぐに逸れた。
澪は自分の手を一度だけ握りしめた。
昨夜、町は助かった。あの老婆も助かった。自分が前に立てば、異常は止まる。
なら、自分が最初からそこにいればいい。
澪は、ゆっくりと直弦から視線を外し、隊員に促されるままに歩き去っていった。
「河野さん!」
直弦はテントを飛び出し、少し離れた防波堤の陰で澪に追いついた。
監視の隊員が直弦を制止しようとしたが、直弦が振り返ると、隊員は無言で数歩下がった。
澪は立ち止まり、振り返った。唇の色が薄く、目の焦点も少し遅れて合った。
「……納得するな」
直弦は言葉を探した。けれど、出てきたのは、また硬い言い方だった。
「自分を、あいつらの材料みたいに扱うな」
澪の肩が、微かに震えた。欲しかったのは、そんな言葉ではなかったのだろう。
「……じゃあ、他にどうするんですか」
澪の声は、かすれていた。それでも、言葉はまっすぐだった。
「私が前に出れば、止まるんですよね。昨日、町はそれで助かった」
「だからって、君が自分を削る必要はない」
「じゃあ……!」
澪が初めて、直弦に向かって声を荒げた。
「越智さんは、私を使わずに、あれを止められるんですか!」
直弦は、息を呑み、沈黙した。
答えられなかった。直弦には、まだその答えがなかった。
直弦の沈黙を見て、澪は力なく笑った。
「……使えるなら、使った方が早いんじゃないですか」
澪は、そう言って、少し笑った。
その笑い方が、直弦にはひどく堪えた。
「止めたいなら、代わりの道を示してください」
背後から、低い声がした。
振り返ると、三島が立っていた。
三島は直弦と澪の間に割って入らず、ただ二人を見ていた。
「君を使うつもりはない」
そう言えれば、どれほど楽だっただろう。
だが、三島には言えなかった。
神社の内側だけでは、もう収まらない。澪の力を借りなければ、町を守れないところまで来ている。
それを、三島も分かっていた。
「我々も、相楽のやり方を認めたくない。ですが、止めるだけの代案もない」
三島は直弦を見た。
「……澪のためにも、早く答えを見つけてください」
それだけ言って、三島は背を向けた。
夜が明け、朝の光が宮浦の町を照らし始めていた。
◇
「……越智さん。これ、完全に見張りですね」
社務所に戻る車の横で、難波が小声で直弦に言った。
澪のそばには、先ほどの女性隊員がピタリと張り付いている。
直弦は難波の言葉に返事をせず、少し離れた場所に座らされている澪の後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
直弦には、彼女の背中の結び目だけが、昨夜よりも深く沈んで見えた。
それはもう、何かを守るために境界に引かれた線には見えなかった。
門を閉じるために、そこへ打ち込まれようとしている杭。
澪は保護された。
そう呼ばれているだけで、彼女はもう、自由ではなかった。
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