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第21話 夜の宮浦

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

瀬戸内の海に夕闇が降りる頃、丘から社務所へ戻ろうとしていた直弦たちの足が止まった。


眼下に広がる宮浦の町で、ぽつり、ぽつりと、街灯が青白く明滅を始めていた。


最初は、ただの古い蛍光灯の寿命か、電気系統の不具合にしか見えなかった。

だが、明滅は一つでは終わらなかった。海沿いの通りから、一本内側の路地へ、順番に青白い光が移っていく。


直弦は目を凝らした。

町のささやかな灯りの下で、神域で見たのと同じ青白い律糸が、細く枝分かれしている。


港の方角から、低いサイレン音が聞こえてきた。保全機構が持ち込んだ仮設警報の音だ。


「……町まで来てる」


澪が、胸元をきつく押さえながら、ほとんど息だけの声で呟いた。


理屈が分かったところで、現実は待ってくれない。

神域の中だけで収まっていたものが、町へ出ている。それだけは、直弦にもはっきり分かった。


一行は、丘を下り、宮浦港へ急いだ。


港の周辺に、まだ大きな混乱はなかった。それでも、日常の輪郭は少しずつ崩れ始めていた。


岸壁に設置された潮位計のデジタル表示が、あり得ない数値を示しては、また別の値へ跳ねている。


係留されている数隻の小舟が、波の満ち引きとは全く逆の方向へと不自然に引っ張られ、ロープがギリギリと悲鳴を上げていた。


「港湾道路を閉じる。住民は北側へ流してください。海沿いには絶対に残さないように」


「観測班は計器だけ見ていればいい。数値の異常に引きずられるな」


港の一角で、相楽征司が無線とインカムを使い分け、部隊へ指示を出していた。


彼の声に焦りはなかった。


子供の手を引く住民を先に誘導し、「ガス管の点検」という名目で封鎖線を広げていく。


直弦は相楽のやり方を受け入れたわけではない。

それでも、人を逃がすという判断の正しさだけは否定できなかった。


「越智さん、港の方、機構が車両止め始めてます。こっちも動線ずらした方がええです」


先回りして状況を確認していた難波が、小走りで戻ってきた。


「避難だけで間に合うのか……?」


直弦が呟いた直後、港から少し離れた古い民家が立ち並ぶ通りで、異変が起きた。


ガタガタガタッ!


風もないのに、民家の古い雨戸が内側から叩かれたように震え出した。


路地の奥に落ちた暗い影が、一瞬だけ異様に濃くなる。


昨夜のように、はっきりした身体はまだない。それでも、四つ足とも人影ともつかない輪郭が、明滅する街灯の下で折れ曲がっていた。薄皮一枚隔てた向こう側から、こちらへ這い出そうとしている。


そこにいる、と言い切れるほどの形はない。それでも直弦には、門から漏れた圧が町の影に引っかかり、無理に輪郭を作ろうとしているのが見えた。


「……ッ!」


村上が前に歩み出た。袖口を正し、低く祓詞を唱える。


しかし、影の蠢きは止まらない。


「ここでは難しいか」


村上が低く言った。


「場が薄い」


境内なら、まだ受け止めるものがある。だが、ここは町の路地だった。


直弦の目には、門から伸びてきた無数の細い律糸が、毛細血管のように町の土やアスファルトの隙間に染み込んでいくのが見えた。


住民の誘導は進んでいたが、細い路地の奥まではまだ手が回っていなかった。

このままでは、相楽たちが引いている封鎖線の外側へと、異常が完全に滲み出してしまう。


その時、直弦の横で、澪の身体が小刻みに震え始めた。


彼女の背中にある結び目が焼けるように熱を持ち、目の前の流れに、勝手に応えている。


「澪、ここは君が出る場面じゃない」


三島が、澪の肩を掴んで引き止めようとする。その手には、力が入っていた。


「でも、あそこに人がまだいます」


澪の視線の先、影が蠢く細い路地の奥に、立ちすくんでいる老婆がいた。


澪が一歩、前へ出た。足は震えている。けれど、昨夜のように身体が勝手に動いているわけではなかった。


影は、老婆の方へ伸びている。澪はそれを見ていた。


「待ってください。今の状態で前に出たら――」


直弦が咄嗟に澪の腕を掴もうとした。

澪は振り向き、青ざめた顔で直弦を真っ直ぐに見た。


「じゃあ、誰が止めるんですか」


その言葉の強さに、直弦は息を呑み、即答できなかった。


止めたい。だが、止めた後にあの影をどうするのか。直弦には、その答えがなかった。


直弦が言葉に詰まった一瞬の隙に、澪は直弦の手を振りほどき、明滅する街灯の下へと駆け出した。


澪がアスファルトを強く踏みしめる。

背中の結び目が、さらに深く脈を打った。


直弦は、視界の奥に浮く青白い揺らぎを追った。


澪の足元から、青白い律糸が這い出す。


昨夜の生樹の御門で見せたように、一気に広がるものではなかった。


細い糸が、路地の隙間やアスファルトのひび割れを探るように走り、町へ流れ込もうとする異常な圧力の道筋に、ピンと張り詰めた糸を引いた。


影の輪郭が、澪の引いた見えない境界線にぶつかり、ピタリと動きを止めた。


「止まった?」


直弦は、澪の足元を見ていた。


「境目を、ここに留めてるんだ」


三島と村上が、その固定された境界に向けて、全力の祓えを重ねる。


「観測班、記録を取れ! 封鎖班、南側へ抜ける影を潰すな。押し返すだけでいい!」


後方から相楽の鋭い指示が飛び、保全機構の隊員たちが、盾と機材を並べていく。


澪が引いた細い線を芯にして、異常の流れがそこで止まる。


村上の祓詞が低く続いた。

三島も、その声に遅れまいと詞を重ねる。

相楽の隊員たちは、路地の出口へ回り込んでいく。


その中心で、澪は歯を食いしばって立っていた。


「離れてください!」


直弦は保冷バッグからシリンジを取り出し、澪が引いた青白い線の起点へと駆け寄った。


港の潮の匂い、明滅する青白い光、そして濡れたアスファルト。


直弦はその境界線に沿って、ゲルと旧配合の塩を素早く、薄く引き延ばしていく。


彼の右腕は、昨夜の反動でまだ小刻みに震えていた。それでも、澪が固定しているこの境界を、少しでも長く持たせる。そのための応急封緘だった。


澪は、立っているのがやっとの状態だった。顔からは血の気が引き、呼吸は浅く乱れている。それでも彼女は、決して後ろに下がろうとはしなかった。


やがて、路地の奥で蠢いていた影は、澪の引いた境界と直弦の封止に阻まれ、それ以上こちら側へ形を保てなくなった。ずるずると暗がりの奥へ退き、輪郭ごと空間に溶けて消えていく。


異常な値で上下を繰り返していた潮位計の数字が、ゆっくりと本来の波の高さへと戻っていった。


街灯の青白い明滅も収まり、いつもの光が路地を照らし出す。息苦しさにうずくまっていた住民たちも、少しずつ顔を上げ始めていた。


町は、ひとまず持ちこたえた。


それを見届けたように、澪の身体からふっと力が抜けた。


「河野さん!」


直弦が咄嗟に腕を回し、彼女の細い身体を支える。


軽い。そして、異様に冷たい。


澪の背中にある結び目が、昨夜よりも深く沈んでいる。直弦には、そう見えた。


力を使うたびに、澪は少しずつ戻れない方へ近づいている。


澪は、直弦の腕の中で荒い息を吐きながら、かすかに笑った。


「……助かったなら、よかった」


直弦は、何も言い返せなかった。


「よくない」と言いたかった。自分を削るな、と。


だが、老婆は助かった。澪が前に出なければ、町は持たなかった。


それが分かっているから、言葉が出なかった。


「依代候補を中心に封鎖処置を組む」

背後で、相楽の声がした。


相楽は澪を見ていた。無事を確かめる目ではなかった。


相楽は傍らの記録係へ向き直り、短く告げた。


「今夜の結果で、有効性は確認できた」


その言葉に、三島が息を呑み、村上が顔を強張らせた。


直弦は相楽を睨みつけることすらできず、ただ自分の腕の中にいる澪の背中を見た。


澪の耳にも、相楽の言葉は届いているはずだった。


澪は一度だけ目を伏せた。けれど、何も言わなかった。


自分が使えるなら、その方が早い。彼女は、そう考えているのかもしれない。直弦には、それがいちばん怖かった。


町は、いつもの明かりを取り戻していた。


それでも、誰も勝ったとは言えなかった。


その中で、澪の背中だけが、さっきより深く青く沈んでいる。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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