表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/30

第20話 綱掛けの伝承

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

異形を押し返した翌朝、大山祇神社には疲労だけが沈殿していた。


社務所の外には、保全機構の規制線が張られたままだった。黒塗りの車両のそばで、隊員たちが交代で休んでいる。眠っているというより、目を閉じて体を預けているだけに見えた。


社務所の縁側には、直弦、三島、村上、澪がいた。

昨夜を越えたばかりだというのに、安堵している者は誰もいなかった。


村上は腕を組み、前庭を見ていた。

その沈黙だけで、誰も軽く口を開けなかった。

三島は目元に濃い隈を作っていたが、その背筋だけは崩していなかった。

澪は少し離れた柱の陰に座っていた。

膝を抱え、肩を小さく丸めている。昨日よりは落ち着いている。けれど、その視線だけが庭を通り越して、どこか別の場所を見ていた。


直弦は、冷えた板敷きに座ったまま、昨夜、志保から送られてきた資料の言葉を思い返していた。


鬼城封緘実証センター。

異常に反応する土。

鬼気安定化。

そして、創業以前。


平原(ひらばる)化学の表向きの歴史より前を匂わせる言葉だった。


志保から届いた断片は、この島で見たものと少しずつ重なり始めている。


会社が持っていた古い技術。大山祇(おおやまづみ)の蔵に眠っていた古い欠片。そして、星降りの夜。

どれも、別々の話ではなかった。


直弦が考え込んでいる様子を見て、三島が静かに口を開いた。


「越智さん」


直弦は顔を上げる。


「昨日の資料のことですが……あれを見たうえで、ひとつ聞いていただきたい話があります」


「伝承、ですか」


「ええ。ただの昔話では済まない方の」


三島の言葉に、村上がわずかに視線を動かしたが、口を挟むことはなかった。


三島は、庭先の古い楠を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。


「大三島の古老たちは、昔から、海の上には見えない綱が掛かっていると言ってきました」


三島の声は低く、朝の冷えた空気に沈んだ。


「それは船が通る道のことだけではありません。島から島へ、神域から神域へ、人には見えない筋が通っている。そういう感覚が、この海には古くからありました」


直弦は黙って耳を傾けた。


大山祇(おおやまづみ)における祭祀や、神輿の海上渡御、あるいは供物の捧げ方、海の道の選び方に至るまで、その綱を外さぬように、逆らわぬように行われてきました」


三島は直弦の方へ向き直った。


「綱掛け、という言葉があります。何か一つの儀式を指す名前ではありません。島々を結ぶ見えない線を意識し、それに沿って生きる。そういう古い感覚全体を、そう呼んできたのだと思います」


三島はそこで、少しだけ自嘲するように息を吐いた。


「私自身は、ずっと比喩だと思っていました。潮の流れや海の道を、見えない綱にたとえたのだと」


「綱じゃないです」

直弦は、思わず口を挟んでいた。


三島が口を閉じる。


直弦の中で、いくつかの線が同じ場所へ集まっていた。


大山祇で見た、青白い律糸の流れ。

しまなみ海道の上から見下ろした、瀬戸内に広がる網の目。

志保から届いた、吉備津、鬼ノ城、備中国分寺周辺での異常。

そして、平原化学の資料にあった、封物との共鳴という言葉。


「……昔の人が、綱って呼んでいただけです」

直弦は、視線を落としたまま言った。


「実際には、結節点同士を固定していた網に近い」


三島が息を止めた。


村上の目だけが、直弦へ向いた。


直弦の中で、瀬戸内の地図が広がっていく。島と島、神域と神域のあいだに、見えない線が走る。


点在しているように見えた神域が、同じ一枚の網に結ばれている。


「網、ですか」

三島が低く問う。


「大山祇だけが特別なんじゃないです」


直弦は、村上と三島を交互に見た。


「宮島も、吉備津も、淡路の古い神域も……たぶん全部、同じ網の節です。瀬戸内全体の境界を押さえている。その要所に、それぞれの神域がある」


村上はすぐには否定しなかった。


ただ、組んでいた腕の指が、袴の袖を強く握った。


「……迷信とは、言わんのだな」


「言えません」


直弦は答えた。

「今まで見たものと、合いすぎています」


その時、柱の陰から小さな声がした。


「……じゃあ、ここだけじゃないんですか」


澪だった。


彼女は顔を上げていた。血の気が引いている。昨日の異形を前にした時とは違う、もっと静かな恐怖がそこにあった。


直弦は、嘘をつけなかった。


「たぶん、ここだけでは済んでいません」


その一言を聞いて、澪の指が膝の上で固まった。

昨夜、あれ一体を押し返すだけで精一杯だった。息の仕方すら分からなくなった。


それが、瀬戸内全体に広がる網のほころびの一つに過ぎない。


「そんなの……」


澪の唇が動いた。けれど、声にはならなかった。


大三島だけでも怖い。目の前の人を守るだけでも、手からこぼれそうになる。

海の向こうまで続く網など、どうすればいいのか分からなかった。


直弦は何か言おうとした。

君ならできる。

僕が何とかする。

どちらも言えなかった。


言えば、嘘になる。


直弦は現象を見るのは早い。けれど、傷ついた人間の前では、いつも言葉が遅れる。


「綱掛けが、ただの言い伝えではなかったとしたら……」


重い空気を破るように、三島が言った。


「瀬戸内全体で、大山祇と似たことが起きている可能性があります」


「軽々しいことを言うな」

村上が鋭く制した。


村上は前庭の玉砂利を睨みつける。


「だが……広がっているなら、なおさら、ここで手を誤るわけにはいかん」


声は低かった。

けれど、そこに逃げる響きはなかった。


「我々が守るべきものが、島一つでは済まなくなる」


三島はゆっくりと頷いた。


「……場所を変えましょう」


三島が立ち上がり、直弦に促した。


「綱掛けの伝承が残る場所が、この近くにあります」


彼らが向かったのは、大山祇(おおやまづみ)の境内ではなく、海が見える小高い丘の上だった。


古い石積みの跡が残っている。草に埋もれかけた石の角は丸く、長い時間を潮風に削られていた。かつては海の道を見張る場所であり、同時に祭祀の場でもあったのだろう。


眼下には、朝の柔らかい光を弾く瀬戸内の海が広がり、遠くには大小さまざまな島影が霞んで浮かんでいる。


「ここからだと、海の道が一本に見えるでしょう」

三島が海を指差して言った。


直弦は目を細め、視界のノイズを見定める。


光を反射する海面の上、島と島の間を縫うように、空中にうっすらと青白い線が走っているのが見えた。


それは、しまなみ海道の上で見たものと同じだった。


綱掛けとは、島々の間に昔の人が勝手に意味を見出したものではない。最初からそこにあった線を、彼らなりの感覚で呼び表した言葉だったのだろう。


神話、地理、平原化学の古い技術、そして目の前の異常。


ばらばらだったものが、直弦の中でまとまり始めていた。


「伝承の整理は結構です」


不意に、背後から声がした。


振り返ると、相楽征司が立っていた。彼の背後には、保全機構の隊員が数名、控えている。


「相楽統括官……」

三島が顔をしかめた。


「町側で、兆候が出ています」

相楽は手元のタブレットを操作しながら、淡々と告げた。


「宮浦港の潮位計に異常値が出ました。周辺の照明設備で原因不明の瞬断。一部住民からは、頭痛と息苦しさの訴えが出ています。海沿いの数箇所では、局所的な気圧異常も観測されています」


誰もすぐには返せなかった。


神域の内側で起きていたものが、町へ漏れ始めている。

その事実だけで十分だった。


「まだ大規模災害ではありません」

相楽は続けた。


「だから今のうちに動線を確保します。宮浦港周辺の封鎖レベルを一段階引き上げる」


澪の肩が、わずかに揺れた。


港。町。学校へ向かう道。顔を知っている人たちの暮らし。

そこへ、もう滲み始めている。


相楽の視線が直弦を射抜いた。


「構造を読むのはあなたの勝手です。だが私は、先に人を逃がす手順を優先する」


直弦は言い返せなかった。


間違ってはいない。だが、それだけでは止まらない。


直弦は海を見た。

相楽は町を見ていた。

同じ異常を前にしているのに、最初に守ろうとする場所が違っていた。


相楽たちは足早に丘を下りていった。


直弦は、もう一度海へ向き直る。青白い線は、まだ見えている。


遠くへ伸びる綱……、いや、網だ。


星降りの欠片が複数落ちたことにも、理由がある。

結節点を狙ったのか。それとも、結節点に引き寄せられたのか。そこまでは分からない。

ただ、落ちた場所は偶然ではない。


直弦は冷えた指先を握りしめた。

見えなければよかった、とは思わない。けれど、見えたせいで逃げ場が消えた。


綱は、古い伝承の中にだけ残っていたのではない。瀬戸内の底で張り詰めたまま、今もそこにある。

理屈が見えたからといって、何かできるとも限らない。


その日の夕方。

宮浦の町で、最初の街灯が青白く明滅を始めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ