第20話 綱掛けの伝承
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異形を押し返した翌朝、大山祇神社には疲労だけが沈殿していた。
社務所の外には、保全機構の規制線が張られたままだった。黒塗りの車両のそばで、隊員たちが交代で休んでいる。眠っているというより、目を閉じて体を預けているだけに見えた。
社務所の縁側には、直弦、三島、村上、澪がいた。
昨夜を越えたばかりだというのに、安堵している者は誰もいなかった。
村上は腕を組み、前庭を見ていた。
その沈黙だけで、誰も軽く口を開けなかった。
三島は目元に濃い隈を作っていたが、その背筋だけは崩していなかった。
澪は少し離れた柱の陰に座っていた。
膝を抱え、肩を小さく丸めている。昨日よりは落ち着いている。けれど、その視線だけが庭を通り越して、どこか別の場所を見ていた。
直弦は、冷えた板敷きに座ったまま、昨夜、志保から送られてきた資料の言葉を思い返していた。
鬼城封緘実証センター。
異常に反応する土。
鬼気安定化。
そして、創業以前。
平原化学の表向きの歴史より前を匂わせる言葉だった。
志保から届いた断片は、この島で見たものと少しずつ重なり始めている。
会社が持っていた古い技術。大山祇の蔵に眠っていた古い欠片。そして、星降りの夜。
どれも、別々の話ではなかった。
直弦が考え込んでいる様子を見て、三島が静かに口を開いた。
「越智さん」
直弦は顔を上げる。
「昨日の資料のことですが……あれを見たうえで、ひとつ聞いていただきたい話があります」
「伝承、ですか」
「ええ。ただの昔話では済まない方の」
三島の言葉に、村上がわずかに視線を動かしたが、口を挟むことはなかった。
三島は、庭先の古い楠を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「大三島の古老たちは、昔から、海の上には見えない綱が掛かっていると言ってきました」
三島の声は低く、朝の冷えた空気に沈んだ。
「それは船が通る道のことだけではありません。島から島へ、神域から神域へ、人には見えない筋が通っている。そういう感覚が、この海には古くからありました」
直弦は黙って耳を傾けた。
「大山祇における祭祀や、神輿の海上渡御、あるいは供物の捧げ方、海の道の選び方に至るまで、その綱を外さぬように、逆らわぬように行われてきました」
三島は直弦の方へ向き直った。
「綱掛け、という言葉があります。何か一つの儀式を指す名前ではありません。島々を結ぶ見えない線を意識し、それに沿って生きる。そういう古い感覚全体を、そう呼んできたのだと思います」
三島はそこで、少しだけ自嘲するように息を吐いた。
「私自身は、ずっと比喩だと思っていました。潮の流れや海の道を、見えない綱にたとえたのだと」
「綱じゃないです」
直弦は、思わず口を挟んでいた。
三島が口を閉じる。
直弦の中で、いくつかの線が同じ場所へ集まっていた。
大山祇で見た、青白い律糸の流れ。
しまなみ海道の上から見下ろした、瀬戸内に広がる網の目。
志保から届いた、吉備津、鬼ノ城、備中国分寺周辺での異常。
そして、平原化学の資料にあった、封物との共鳴という言葉。
「……昔の人が、綱って呼んでいただけです」
直弦は、視線を落としたまま言った。
「実際には、結節点同士を固定していた網に近い」
三島が息を止めた。
村上の目だけが、直弦へ向いた。
直弦の中で、瀬戸内の地図が広がっていく。島と島、神域と神域のあいだに、見えない線が走る。
点在しているように見えた神域が、同じ一枚の網に結ばれている。
「網、ですか」
三島が低く問う。
「大山祇だけが特別なんじゃないです」
直弦は、村上と三島を交互に見た。
「宮島も、吉備津も、淡路の古い神域も……たぶん全部、同じ網の節です。瀬戸内全体の境界を押さえている。その要所に、それぞれの神域がある」
村上はすぐには否定しなかった。
ただ、組んでいた腕の指が、袴の袖を強く握った。
「……迷信とは、言わんのだな」
「言えません」
直弦は答えた。
「今まで見たものと、合いすぎています」
その時、柱の陰から小さな声がした。
「……じゃあ、ここだけじゃないんですか」
澪だった。
彼女は顔を上げていた。血の気が引いている。昨日の異形を前にした時とは違う、もっと静かな恐怖がそこにあった。
直弦は、嘘をつけなかった。
「たぶん、ここだけでは済んでいません」
その一言を聞いて、澪の指が膝の上で固まった。
昨夜、あれ一体を押し返すだけで精一杯だった。息の仕方すら分からなくなった。
それが、瀬戸内全体に広がる網のほころびの一つに過ぎない。
「そんなの……」
澪の唇が動いた。けれど、声にはならなかった。
大三島だけでも怖い。目の前の人を守るだけでも、手からこぼれそうになる。
海の向こうまで続く網など、どうすればいいのか分からなかった。
直弦は何か言おうとした。
君ならできる。
僕が何とかする。
どちらも言えなかった。
言えば、嘘になる。
直弦は現象を見るのは早い。けれど、傷ついた人間の前では、いつも言葉が遅れる。
「綱掛けが、ただの言い伝えではなかったとしたら……」
重い空気を破るように、三島が言った。
「瀬戸内全体で、大山祇と似たことが起きている可能性があります」
「軽々しいことを言うな」
村上が鋭く制した。
村上は前庭の玉砂利を睨みつける。
「だが……広がっているなら、なおさら、ここで手を誤るわけにはいかん」
声は低かった。
けれど、そこに逃げる響きはなかった。
「我々が守るべきものが、島一つでは済まなくなる」
三島はゆっくりと頷いた。
「……場所を変えましょう」
三島が立ち上がり、直弦に促した。
「綱掛けの伝承が残る場所が、この近くにあります」
彼らが向かったのは、大山祇の境内ではなく、海が見える小高い丘の上だった。
古い石積みの跡が残っている。草に埋もれかけた石の角は丸く、長い時間を潮風に削られていた。かつては海の道を見張る場所であり、同時に祭祀の場でもあったのだろう。
眼下には、朝の柔らかい光を弾く瀬戸内の海が広がり、遠くには大小さまざまな島影が霞んで浮かんでいる。
「ここからだと、海の道が一本に見えるでしょう」
三島が海を指差して言った。
直弦は目を細め、視界のノイズを見定める。
光を反射する海面の上、島と島の間を縫うように、空中にうっすらと青白い線が走っているのが見えた。
それは、しまなみ海道の上で見たものと同じだった。
綱掛けとは、島々の間に昔の人が勝手に意味を見出したものではない。最初からそこにあった線を、彼らなりの感覚で呼び表した言葉だったのだろう。
神話、地理、平原化学の古い技術、そして目の前の異常。
ばらばらだったものが、直弦の中でまとまり始めていた。
「伝承の整理は結構です」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、相楽征司が立っていた。彼の背後には、保全機構の隊員が数名、控えている。
「相楽統括官……」
三島が顔をしかめた。
「町側で、兆候が出ています」
相楽は手元のタブレットを操作しながら、淡々と告げた。
「宮浦港の潮位計に異常値が出ました。周辺の照明設備で原因不明の瞬断。一部住民からは、頭痛と息苦しさの訴えが出ています。海沿いの数箇所では、局所的な気圧異常も観測されています」
誰もすぐには返せなかった。
神域の内側で起きていたものが、町へ漏れ始めている。
その事実だけで十分だった。
「まだ大規模災害ではありません」
相楽は続けた。
「だから今のうちに動線を確保します。宮浦港周辺の封鎖レベルを一段階引き上げる」
澪の肩が、わずかに揺れた。
港。町。学校へ向かう道。顔を知っている人たちの暮らし。
そこへ、もう滲み始めている。
相楽の視線が直弦を射抜いた。
「構造を読むのはあなたの勝手です。だが私は、先に人を逃がす手順を優先する」
直弦は言い返せなかった。
間違ってはいない。だが、それだけでは止まらない。
直弦は海を見た。
相楽は町を見ていた。
同じ異常を前にしているのに、最初に守ろうとする場所が違っていた。
相楽たちは足早に丘を下りていった。
直弦は、もう一度海へ向き直る。青白い線は、まだ見えている。
遠くへ伸びる綱……、いや、網だ。
星降りの欠片が複数落ちたことにも、理由がある。
結節点を狙ったのか。それとも、結節点に引き寄せられたのか。そこまでは分からない。
ただ、落ちた場所は偶然ではない。
直弦は冷えた指先を握りしめた。
見えなければよかった、とは思わない。けれど、見えたせいで逃げ場が消えた。
綱は、古い伝承の中にだけ残っていたのではない。瀬戸内の底で張り詰めたまま、今もそこにある。
理屈が見えたからといって、何かできるとも限らない。
その日の夕方。
宮浦の町で、最初の街灯が青白く明滅を始めた。
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