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第19話 志保の手札

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

岡山駅東口からほど近い一角に、平原(ひらばる)化学株式会社の本社ビルはある。


エントランスでは、社員たちがいつものように社員証をかざし、ゲートを抜けていく。

昨夜、瀬戸内で何が起きたかなど、このビルの朝にはまだ関係がないようだった。


妹尾(せのお)志保(しほ)も、その流れに混じっていた。


経営直轄と技術本部のあいだに置かれた、横断部署の執務室。

志保は自分のデスクに座るなり、朝一番で片づけるはずだった定例資料の束を端へ寄せた。


昨夜、直弦から大山祇(おおやまづみ)と吉備の話を聞いてから、志保の中で、仕事の順番は入れ替わっていた。


志保は、超常現象という言葉で仕事を片づける人間ではない。

それでも、現場で起きていることと会社の記録が、もう無視できないところまで重なっていた。


志保はデュアルモニターの片方でメールの処理と稟議書の決済をさばきながら、もう片方の画面で、旧案件の保管先を示す社内索引を開いていた。

直弦の所属する中央研究所の旧案件番号をいくつか手書きで控え、検索窓に打ち込んでいく。


画面には「高強度樹脂接合テスト」や「次世代ゲル化剤開発」といった見慣れた製品名の列が並ぶ。だが、その階層をさらに潜り、現在はアクセス権が限定されている旧保管データベースを開いた時、並んだ文字列の中に、異質なものが混ざっているのに気づいた。


「……何、これ」


志保はマウスを握る手を止めた。


「特殊封止材耐塩害試験」「高湿環境下安定化」――そこまでは見慣れた範囲だった。

だが、その次の行で手が止まった。


『鬼城封緘実証センター 第三試験棟 運用申請』


鬼城(きのじょう)。岡山の総社市に実在する古代山城だ。しかし、封緘実証センターなどという施設は、平原(ひらばる)化学の設備一覧のどこにも存在しない。


志保は直接の本体ファイルではなく、申請履歴に残っていた添付PDFを開いた。


スキャンされた古い手書きの書類がモニターに映し出される。


用途不明の配合記録。現行の製品ラインナップから不自然に外された封止材の試験記録。そして、その所見欄に記された見出しに、志保は息を呑んだ。


『異常に反応する土に対する物理的封止効果』

『封物との共鳴によるゲル構造の崩壊』

『鬼気安定化のための旧配合比率について』


志保は、画面から少しだけ顔を離した。


怖かったのは言葉そのものではない。こんな言葉が、社内の正式な書式の中で普通に使われていたことの方だった。


これは誰かが勝手に書き込んだ怪文書ではない。稟議番号も、承認欄も、試験責任者の署名もある。


「妹尾さん。その資料、今どこまで見ています?」


不意に、背後から穏やかな声が落ちてきた。


志保が振り返ると、経営企画室長の真鍋玲司が立っていた。

いつもと変わらぬ、アイロンの利いたスーツ姿。表情は柔らかいが、その目は画面の隅を正確に捉えていた。


志保はブラウザのタブを閉じることもせず、正面から真鍋を見た。


「整理しているところです。越智くんの案件に関連しそうな旧資料のインデックスを」


「整理、ですか」

真鍋は微かに目を細めた。


「それで済む段階ならいいんですが。今は、不用意に広げない方がいい案件ですよ」


真鍋の言葉は丁寧だが、明確な牽制だった。


真鍋は、理解できないものから目を逸らすような人物ではない。

ただ、まず名前を付け、書類の中へ収める。

それで会社を守ってきた人間だった。


「広げてはいません」

志保は冷静に返した。


「どこに何があるかだけは、先に押さえておかないと。後になって、知らなかったでは済みませんから」


「……彼は優秀ですが、少し真っ直ぐすぎます。あまり引きずられないようにしてくださいね」


真鍋はそれ以上踏み込まず、静かに執務室を出て行った。


真鍋は真鍋の仕事をしているだけだ。


それは分かっている。

だが、真鍋の言う整理は、現場の亀裂ごと蓋をする作業に近かった。


志保は席を立ち、本社ビルの一角にある別館へと向かった。

そこは「社史・技術継承室」という名目の、実質的な旧文書保管庫だ。


薄暗い蛍光灯の下、天井まで届くスチールラックの奥で、守安(もりやす)典孝がラベルの剥がれた保存箱を開いていた。


「おや、妹尾くん。こんな埃っぽい所へ、今日はどうしましたかな」


「守安さん。聞きたいことがあって来ました」


志保は単刀直入に、先ほど見つけた「鬼城封緘実証センター」と「鬼気安定化」の書類について尋ねた。


守安は志保の問いを遮ることもなく、最後まで静かに聞いていた。


彼はすぐに答えを渡すようなことはしなかった。志保がどこまで本気で踏み込む気なのかを、その老練な目で測っている。


「……妹尾くん。うちの会社は、一八二六年の創業ということになっていますな」


やがて、守安は手元のバインダーを閉じ、ぽつりと言った。


「ええ。文政九年。備前国(びぜんのくに)(にかわ)職人がルーツだと」


「それは、表の話です」


守安の言葉に、志保は眉を寄せた。


「社史に書ける始まりと、そうでない始まりは違います。例えば……『封緘(ふうかん)』という言葉。あれは近年になって付けられたプロジェクト名ではありません」


守安はラックの奥から、色褪せた一つの保存箱を引き出し、志保の前の机に置いた。


「今うちが接着や封止として扱っているものも、元を辿れば別の使い方をしていたんです。土地の歪みを押さえたり、繋ぎ止めたりするためにね」


守安は箱の蓋を完全には開けなかった。

半分だけ開いた隙間の奥は暗く、志保には、それが会社のさらに奥へ続いているように見えた。


「……これは、越智くんに回すべきね」


志保はその場でスマートフォンを取り出し、先ほど抜き出しておいた資料のPDFと画像を確認した。宛先を直弦だけに絞り、暗号化された共有リンクを送った。



大三島の旅館、山茶花。

昨夜の異形出現の後始末と、保全機構の監視による緊張で、直弦はほとんど眠れないまま朝を迎えていた。


直弦は、ひとり、山茶花の食事処で朝食を取っていた。

朝食の客は、もう残っていなかった。

卓上コンロであじの干物を焼いていると、直弦のスマートフォンが振動する。志保からだ。

直弦はすぐに、送られてきたメールの添付PDFを開いた。


『鬼城封緘実証センター 第三試験棟』

『異常に反応する土に対する物理的封止効果』

『鬼気安定化のための旧配合比率』


直弦の目が、その文字列に釘付けになった。

卓上コンロの上で、干物の脂が小さく跳ねた。


直弦はずっと、自分の研究を回り道だと思っていた。

本当に証明したかったのは、怪異や知覚の境界という現象そのものだ。

だが会社で与えられたのは、発酵由来の素材開発や微細構造安定化、封止材といった地味な実務ばかりだった。


だが、違ったのだ。


自分が何年も触ってきたゲルや封止材は、ただの回り道じゃなかった。あれは、欠片と土地の流れがぶつかった時に、間へ入れて持たせるためのものだったのかもしれない。


「……やっぱり、ただの会社じゃない」


直弦は、画面を睨みつけながら低く呟いた。


嬉しさはなかった。あまりにも出来すぎた符合に、自分が知らないところでずっと前から仕組まれていたようで、気味が悪かった。


「うちの技術、最初からこっちを見てたのか」


「……何なんですか、それ」


不意に横から声がした。

直弦が顔を上げると、いつの間にか横に立っていた澪が、直弦のスマートフォンの画面を覗き込んでいた。澪の視線は、画面の文字に貼りついていた。


「それって、会社からですか?」


「のぞき見は感心しませんね」


「どうして会社の資料に、そんな言葉があるんですか」


澪は、もう一度画面を見た。

そこにある言葉を、まだ飲み込めていない顔だった。


「ちょうど今、送られてきたところです」


「『異常に反応する土』って……『鬼気』って……」


澪は震える声で言葉を紡ぐ。


昨夜、彼女自身が直面し、その身で固定してしまったあの異形。それが、遠く離れた岡山の化学メーカーの古い資料に、実務的なデータとして記載されているのだ。


自分だけのものだと思っていた異常が、会社の古い仕組みの中に、最初から置き場所を持っていた。そう思った瞬間、澪の顔から血の気が引いた。


「……私に起きたこと、最初からどこかで知ってたみたいじゃないですか」


澪が一歩踏み込んで、直弦を睨みつけた。

直弦を責めたいわけではない。けれど、責める相手がそこにしかいなかった。


直弦は、その澪の言葉を否定しきれなかった。


「……少なくとも、昔から対処しようとしていた人間はいた、ということです」



岡山。平原(ひらばる)化学本社。


守安と別れ、志保は古い資料のコピーを抱えて廊下を歩いていた。


窓の外には、いつもと変わらぬ岡山の市街地が広がっている。


すれ違う社員たちも、いつもの表情で挨拶を交わしていく。

だが、志保の足取りは重かった。


志保は抱えたコピーを持ち直した。

紙の束は薄い。それでも、ただの資料とは思えなかった。


執務室へ戻る直前、志保は立ち止まり、守安から最後に渡された一枚のメモ書きを見つめた。

それは、社内システムのどこにも紐づいていない、物理的な保管庫のインデックス番号だった。


『前史資料 一括移管』

そこに記された日付は、平原化学の創業年である一八二六年よりも、さらに数十年も昔のものだった。


「……妹尾さん。平原の始まりは、社史に載っている年だけではありません」


守安の最後の一言が、耳の奥でこだましている。


志保はスマートフォンを取り出し、直弦宛のチャットに短いメッセージを打ち込んだ。


『越智くん、まだ底は見えない』


『一八二六年より前がある』


送信ボタンをタップする。


大山祇に残る伝承と、平原化学の古い技術。

別のものだと思っていた二つを、もう別々には扱えなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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