第18話 吉備の鬼
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異形は消えた。
だが、夜の神域に安堵の空気はなかった。
規制線は張られたまま、白い光が静まり返った境内を照らしていた。
その下で、機構の隊員だけが小声で動いている。
神社の人間は、誰も鳥居の奥へ近づかなかった。
「封鎖はこのまま維持します。今夜はまだ解きません」
相楽の低く通る声が、冷たい夜気を切った。
「致し方ない」
村上が短く返す。
機構の隊員たちは機材を畳まなかった。
村上も、それを止めなかった。
助かったわけではない。今夜は、境界を越えさせなかっただけだ。
直弦は、冷たい敷石の上に座り込んだままの澪を一瞥した。
澪は、さっき自分の足元から光が走った場所を見ていた。
その肩は小刻みに震えている。
反動だけではないのだろう。
自分の身体が、あの境界を押さえた。その意味に、まだ追いつけていなかった。
直弦は、右手の微かな痙攣と耳の奥の耳鳴りをやり過ごしながら、鳥居の根元を見つめていた。
澪が固定した境界の痕跡が、青白い律糸の残滓として、まだ生々しく燻っている。
門は閉じていない。
向こう側の圧力は、今も確実にこの空間を押しつぶそうとしている。
そのひりつくような静けさを破ったのは、控えの間にいた難波からの小走りの足音だった。
「越智さん」
難波は声を落とし、直弦にスマートフォンを差し出した。
「会社からです。妹尾さんから……至急、と」
直弦は微かに眉をひそめ、スマートフォンを受け取った。
「……越智です」
『越智くん、今話せる?』
電話の向こうの志保の声は、いつものように落ち着いていた。だが、実務的に情報を整理しようとするその声のトーンが、かえって事態の深刻さを物語っていた。
「はい。こっちはひとまず、一つ抑えたところです」
『そう。お疲れ様。今から言うこと、落ち着いて聞いて』
「はい」
『こっちで……、岡山で変なのが出てる』
「変?……何が出ているんですか」
『吉備津の周辺で、『鬼』みたいなものを見たって通報が複数上がってるの』
直弦は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「鬼……?」
『警察と消防の無線を拾った初期報告だから、確かなことは分からないの。ただ、表向きは局地的な磁気異常と見間違いに寄せるみたい』
志保は『鬼』という言葉を、怪談のようには扱っていなかった。
まだ分類できないものに、とりあえず貼られた名前。そんな響きだった。
『しかも、一箇所じゃないわ。鬼ノ城寄りの山間部と、備中国分寺の近くでも、おかしな反応が出てる』
志保の淡々とした報告が、直弦の思考を強く揺さぶった。
点が一つでは済まない。
「……大山祇だけじゃない」
大三島から岡山へ伸びていた糸の記憶が、頭の中で地図と重なった。
大三島。吉備津。鬼ノ城。備中国分寺。
ばらばらだった地名が、一本の線で結ばれていく。
島と陸を渡る、古い海の道だった。
「ほぼ同時に軋み始めてる。結節点が、海を挟んで連なってるんだ」
直弦の声は、誰に語りかけるでもない独白だったが、その場にいた者たちの耳にははっきりと届いた。
「西側だけの話ではありません」
いつの間にか、相楽が近くに立っていた。
画面には、別の地点の記録が開かれていた。
「瀬戸内の複数地点で、同種の揺らぎはすでに上がっています。我々も、それを確認している」
相楽は、手元のタブレットに目を落としたまま言った。
彼ら保全機構は、直弦たちよりもずっと早く、この広域連鎖の兆候を把握していたのだ。
「だからこそ、ここで例外をつくるわけにはいかない」
相楽は顔を上げ、直弦を見た。
「一箇所でも決壊すれば、すべてが繋がって崩れる。だから、徹底的に閉じて、隔てるしかないんです」
同じ事実を見ているのに、相楽の答えは直弦とは逆だった。
「吉備まで動いているなら……一つの土地の異変では済みませんね」
三島の声は、重かった。
彼は、吉備という名を遠い土地のものとして聞き流さなかった。
「広がっているからこそ、口を慎め」
村上が、三島の言葉を鋭く制した。
「浮き足立って済む話ではない。ここだけで抱える段階は過ぎたが、いたずらに混乱を広げるべきでもない」
村上はそれ以上言わなかった。
ただ、視線は鳥居の奥ではなく、海の向こうへ向いていた。
「……同じようなのが、ほかにも出てるんですか」
敷石の上に座り込んでいた澪が、顔を上げてしばらく直弦を見ていた。
さっきまでの震えとは違うものが、喉元で止まっているようだった。
「……たぶん。少なくとも、ここと無関係ではないです」
直弦は澪を見下ろし、事実だけを伝えた。
「じゃあ、私がさっき止めたのって……」
「一つです」
直弦は、迷わず言った。
「ここで、一つ止めただけです」
澪は唇を噛みしめ、うつむいた。
膝の上で握った手に力が入るのを、直弦は見た。
ほかにも同じものがあると知れば、澪はきっと、自分が止めなければならないと思う。
そういうところがあるのは、もう分かっていた。
だからこそ、今ここで「関係ない」とは言えなかった。
そんな慰めは、澪には届かない。
直弦は再びスマートフォンを耳に当て、志保に問いかけた。
「志保さん。さっきの『鬼』の話ですが……」
直弦は、吉備の異変と、大三島で先ほど目撃した異形の姿を頭の中で重ね合わせた。
「鬼って呼び方が先にあったんじゃないのかもしれない」
直弦は鳥居の奥の暗がりを見た。
「先に、見たものがあった。それを土地の言葉で鬼にしたんだ」
直弦は、電話越しにその名を口にした。
「……温羅伝説は、ただの昔話じゃないのかもしれない」
直弦の仮説に、電話の向こうの志保が一瞬沈黙した。
鬼ノ城。備中国分寺。吉備津。
その周辺には、平原化学の古い試験場や、社史から外れた資料がいくつも重なっている。
「……うちの技術も、おかしいんですよ」
直弦は、自らの手首に残る微かな痺れを見つめながら続けた。
「保存とか封止とか、そういう言葉で片づけるには、出来すぎてる。僕たちが使ってきた旧配合の素材は……ただの工業製品じゃない」
『……それ、私も思ってた』
志保の声が、鋭く響いた。
『だから今、古い資料を当たってる。ただの素材会社で済むとは、私も思ってないわ』
志保の声には、驚きよりも覚悟に近いものが混じっていた。
『……明日までに、もう少し探ってみるわ。たぶん、うちの古い資料にも何かある』
志保はそう言って、通話を切った。
直弦はスマートフォンを下ろし、夜の境内を見渡した。
仮設灯の光に照らされた生樹の御門の方角。
見えない糸で繋がった海の向こうの吉備。
そして、その間に座り込み、重い責任に沈む澪。
岡山で始まったのではない。
大三島だけで終わるわけでもない。
仮設灯の白い光の下で、鳥居の奥に残った震えがまだ見えていた。
その先には、海を渡る別の線がかすかに揺れている。
直弦は、スマートフォンを握る手に力が入っていることに気づいた。
海の向こうで、まだ別の何かが軋んでいる。
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