第17話 最初の異形
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夜の神域は静かだった。
風は確かに肌を撫でているのに、木々の枝葉が擦れ合う音が妙に遠い。
代わりに、保全機構の機材が立てる低い電子音だけが、境内に響いていた。
黄色と黒の規制線が張り巡らされ、仮設灯の鋭いLEDの白光が、神域の暗がりを切り裂いていた。
石畳の影だけが、妙に白く浮いて見えた。
「規制線から出ないでください。観測を優先します」
相楽の低く通る声が、暗闇の中で響いた。
彼らは必要なことだけを短く交わしながら、作業区域を広げていく。
「ここは神域だ。それ以上、前へ出すな」
社務所の前に立つ村上が、低い声で牽制した。
「下げるべき時は下げます」
相楽は村上を見たまま答えた。
「しかし、前に出すべき時は前に出します」
相楽自身は、その場を動かなかった。
それでも、隊員たちは彼の短い指示だけで配置を変えていく。
部屋で待機するよう言われていた澪だったが、結局は三島の近く、参道の入り口付近に立ち尽くしていた。
三島は何度か戻るよう促した。
しかし、澪はそのたびに首を横に振った。
その時だった。
直弦は、肺の奥を押し潰されるような圧迫感に息を詰まらせた。
風や冷気とは違う。空間の張力そのものが、限界を超えて軋んでいた。
周囲の音の距離感が狂い始める。発電機の唸りが遠のき、代わりに地面の底から這い上がるような振動が足の裏に伝わってきた。
直弦の視界が青白く明滅する。
敷石の継ぎ目や、奥の鳥居の根元に沿って、異常な密度で律糸が絡み合い、膨張し始めていた。
「……来る」
直弦が呻くように言った。
「何が来るんです」
三島が表情を強張らせる。
「門が、押されてる」
直弦の視界の中で、古い継ぎ目を縫い留めていた糸が、内側からの圧力でギリギリと軋んでいた。
「あっ……!」
澪が、心臓のあたりを押さえた。
「嫌な感じが……もう、近い」
参道の奥、連なる鳥居の向こう側。
その暗がりだけが、周囲より一段と濃くなったように見えた。
直弦は目を細めた。
何かがいる。
それが一歩分だけ前へ抜け出した時、ようやく輪郭が生き物の形を取った。
四つ足とも二足ともつかない歪な姿勢。
頭部には、角のような突起が浮いていた。
それは、空間のノイズが、無理に形を取ったようなものだった。
足音や土の沈む感触は確かにあるが、関節の運びや首の動きに僅かな違和感がある。
前足が出たあと、遅れて肩がずれた。首だけが、体の向きと違う角度でこちらを向く。
そいつは今、鳥居の線を跨ごうとしていた。
「下がれ!」
村上の声が境内を打った。
「澪も来るな!」
村上は一歩踏み出し、印を結んで低く祓詞を唱え始めた。
その声に合わせて、足元の玉砂利がわずかに鳴った。
見えない線が、鳥居の前で一度だけ張り直される。
「規制線より前へ出ないで!」
三島が叫び、すぐに村上の声へ詞を重ねた。
異形が踏み込んでくるのを、二人がかりで抑え込もうとしている。
「観測班、後退!」
後方から相楽の指示が飛んだ。
「封鎖班、前へ!」
防刃ベストと特殊な機材を装備した保全機構の部隊が、盾を構えるようにして素早く陣形を組む。
相楽の指示も速かったが、わずかに先手を取ったのは村上と三島だった。
「澪!」
三島が叫んだ。
村上と三島に止められていたはずの澪が、ふらつくような足取りで、規制線を越えて前に出ていた。
「澪、止まりなさい!」
「だめ……止まらない!」
澪は、恐怖に顔を引き攣らせながらも、歩みを止めなかった。
膝が震えているのに、足だけが前へ出る。
「ここを通したら駄目だって、身体が……!」
背中の奥で結び目が熱を持っていた。
逃げたいのに、足が止まらない。
澪が一歩、深く敷石を踏み込んだ。
その瞬間。
彼女の足元から、青白い律糸が爆発的に広がった。
鳥居の根元、石の継ぎ目、土の割れ目。見えないはずの境界線だけを正確に選ぶように、その光は放射状に伸びていく。
異形の動きが、見えない壁に押し付けられたようにピタリと止まる。
周囲の空間のブレが収まり、かえってその異形の歪な輪郭が、生々しく現実のものとして際立った。
(……そうか)
直弦は、目の前で起きた現象の構造に息を呑んだ。
「影響を受けてるだけじゃない……」
直弦は、澪の足元から伸びる律糸を見ていた。
「繋がった後、場そのものに触れているんだ」
境界を固定した瞬間、澪の中で何かが弾けた。
人のいない社務所の奥。
白布の上に置かれた、黒ずんだ石の欠片。
近づいた瞬間、頭の奥で甲高い音が鳴った。
背中の奥を、冷たい指でなぞられる感覚。
怖くて、声も出なかった。
「前にも、似た感じが……」
澪は苦鳴を漏らしながら、その場に膝をつきそうになった。
「小さい頃……」
直弦の視界には、澪の背中の結び目、蔵の古い欠片、生樹の御門の脈動が、一つの回路として噛み合っているのが見えていた。
「可能性の話じゃないですね」
直弦は、異形を抑え込みながら顔を歪めている三島に向かって叫んだ。
「河野さんは、昔、あれに近づいている!」
三島はすぐには答えなかった。
澪の足元で、青白い線が小さく脈を打っていた。
「……はい」
三島が、絞り出すように認めた。
「幼い頃、一度だけ。私は、その時のことが忘れられなかった」
三島の顔から、血の気が引いていた。
「今だ。押さえろ」
村上が低く言った。
澪の固定によって異形の動きが止まった隙を突く。
「そのまま、動かないでください!」
直弦は保冷バッグを掴んだまま、澪の横へと滑り込んだ。
シリンジから混合物を絞り出し、澪が固定した境界線の起点――敷石の隙間に封緘を施していく。
閉じる必要はない。澪が繋いだ縁を補強して、押し返せればいい。
「後方、保持!」
相楽の鋭い指示が響く。
保全機構の隊員たちが機材を展開し、万が一突破された時の備えを固めている。
村上の祓詞が場を締め、澪の足元から伸びた線が異形を留める。
直弦はその線を補強し、相楽の部隊は背後の封鎖を固める。
目的は違う。
それでも、その一瞬だけ、全員が同じものを押し返していた。
「グゥゥ……ァァァ……!」
異形が、空気が軋むノイズのようなうめき声を上げて身を捩る。
直弦がゲルの層を定着させた瞬間、異形の姿が透明な壁の向こうへ弾き飛ばされた。
鳥居の奥の暗闇へ、融けるように消えていった。
張り詰めていた圧が、空間から抜け落ちたようだった。
後に残されたのは、発電機の鈍い唸り音と、荒い息遣いだけだった。
「はぁっ……はぁ……」
澪は、冷たい敷石の上に座り込んだ。
異形は押し返した。だが、彼女の顔に安堵はなかった。
自分が何をしたのか。それを、理解してしまったのだ。
自分が、この土地の巨大な仕組みに組み込まれている。
その事実だけが、身体の奥に残っていた。
「岡山で始まったんじゃない」
直弦は、自分の震える手を見つめながら低く呟いた。
あの蔵の欠片との繋がりは、もっと前からあった。
星降りの夜は、それを表へ引きずり出しただけだ。
相楽の部隊がどれだけ強固な規制線を張ろうとも、門は閉じきってはいない。
ただ、持ちこたえただけだと、誰もが分かっていた。
押し返したのは、門の向こうから漏れ出した影の一つに過ぎない。
鳥居の奥は、また黒いだけの暗がりに戻っていた。
だが直弦には、そこに残った細い震えが見えている。
発電機の低い音が戻ってくる。
誰も、すぐには動かなかった。
その震えは、御門の奥だけでは終わっていなかった。
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