エピローグ 星はまだ降っている
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朝の光が、宮浦の町を白く照らしていた。
大山祇神社の境内から、竹箒で参道の玉砂利を掃く規則正しい音が聞こえてくる。
港の方からは、漁船のエンジン音や、フェリーの到着を待つ車の音が少しずつ戻り始めていた。
保全機構の黒塗りの車両はすでに大半が撤収し、黄色と黒の規制テープも剥がされている。
表向きには、昨夜の騒動は「局所的な地盤の異常」と「それに伴う電気設備の不具合」として処理されていた。
住民たちも、説明をそのまま飲み込んだわけではなかった。
すれ違う大人たちは皆、声を潜めて昨夜の息苦しさや青白い明滅について囁き合っている。
それでも、彼らはとにかく日常を再開しようとしていた。
町は動き出している。
ただ、元通りではなかった。
境内の隅には、保全機構が打ち込んだ特殊な杭の跡がいくつか残されたままだし、御門へと続く玉砂利の一部には、高熱で焼け焦げたような黒い変色があった。
神社の職員たちは、いつもより口数が少なかった。昨夜のことを誰も口にはしない。
けれど、参道を掃く手つきも、社務所を行き来する足取りも、どこか重かった。
昨夜は越えた。
だが、それだけだ。
澪は、社務所の奥にある控えの間の布団の上で目を覚ました。
ゆっくりと身を起こす。身体中が鉛のように重い。
それよりも、背中の奥に残った感覚の方が気になった。
大山祇の古い節に接続したまま、背中の奥で微かな熱が残っている。消えてはいない。
けれど、昨日のように澪を内側へ引き込もうとはしていなかった。
澪はそっと自分の手のひらを見つめた。
窓の隙間から入る風の冷たさ。廊下を歩く神職の足音。台所で動く母と祖母の気配。
どれも、昨日までより近く感じた。
以前のような、情報が流れ込んできて脳がパンクしそうになる苦痛ではない。
余計なものが流れ込んでくる感じはない。
ただ、近くにあるものが、前よりはっきり分かった。
(私は、もう普通には戻れない)
澪は、静かにその事実を受け止めた。
けれど、後悔はなかった。
あの冷たい暗がりにすべてを明け渡し、自分が消えることで解決する道を選ばなかった。
直弦に言われた「お前も、その中に入れろ」という言葉。
そして、自分で口にした「残って、守る」という言葉。
これから、この島でどう続けていくのか。
不安はある。
それでも、自分は消えずに、今ここで朝の光を見ている。
澪は、手のひらをゆっくり握った。
「閉じてはいない。あの形のままでいいのか」
社務所の別室で、村上が腕を組んだまま低く問うた。
テーブルを挟んで向かいに座る直弦は、手元の記録用端末から目を離さずに答えた。
「応急処置です。完全ではありません。門の圧力は、神域の土台と僕が置いた調律材で散らしているだけです」
「いつまで持つ」
「分かりません。ですが、今すぐ崩れる形ではないです」
直弦はそこで端末を置き、村上と、その隣に立つ三島を真っ直ぐに見た。
「何より、澪さんが残りました」
昨夜の勝利を誇るような響きはなかった。
声はいつも通り平坦だった。
それでも、そこだけは譲る気がないのだと、村上にも分かった。
村上はしばらく直弦の目を見返し、やがて短く息を吐いた。
「……そうだな」
村上も三島も、直弦の手法を完全に理解したわけではない。信じ切ったわけでもない。
それでも、昨夜あの場で何が起きたのかは見ていた。
もう、直弦をただの外の研究者としては扱えなかった。
神社の駐車場では、保全機構の残存部隊が機材の積み込みを終えようとしていた。
社務所から出てきた直弦の姿を認めると、相楽が静かに歩み寄ってきた。
彼の表情は、昨夜とほとんど変わらなかった。
「撤収します」
相楽は短く告げた。
「お疲れ様でした」
直弦も短く返す。
「今回は、そういう結果になっただけです」
相楽は、直弦の目を見た。
「あなたの方法で被害が抑えられた事実は記録に残します。ですが、次も同じように残せるとは限らない。現場の人間として、私はあなたのやり方を正解だとは認めません」
直弦は言い返さなかった。
相楽が間違っていない部分もあるからだ。
自分の調律が綱渡りだったことは、直弦自身が分かっている。
少し間違えば、昨夜の場は保たなかった。
「……分かっています」
相楽はそれ以上何も言わず、黒塗りの車に乗り込んだ。
対立は消えていない。
また、どこかでぶつかるだろう。
直弦はその予感を静かに飲み込んだ。
直弦が自分の車のトランクに保冷バッグを積み込んでいると、背後に人の気配がした。
振り返ると、澪が立っていた。
まだ顔色は優れないが、その目には以前のような怯えはない。
「岡山、戻るんですよね」
澪が、車のナンバープレートを見ながらぽつりと言った。
「ええ。あっちも、旧配合の素材で無理やり押さえ込んでいるだけみたいですから」
直弦はトランクを閉め、澪の方へ向き直った。
海風が、二人の間を吹き抜ける。
澪は少しだけ伏し目がちになった。それから、直弦を見た。
「私も、いつか行くことになりますか」
直弦は、すぐには答えなかった。
彼女の背中の結び目は、大山祇の神域とつながっている。
だが、岡山の欠片の共鳴が完全に消えたわけではない。
理屈だけで言えば、彼女の力が必要になる局面は必ず来るだろう。
だが、直弦は理屈だけで彼女を動かすことはしなかった。
「……必要になったら、聞きます」
直弦は、静かに、だがはっきりと言った。
「決めるのは、河野さんです」
澪の目が、微かに見開かれた。
以前の直弦なら、必要かどうかだけで答えていたかもしれない。
けれど今は、その言葉を選ばなかった。
「……はい」
澪は、小さく、けれど確かに頷いた。
その返事だけで十分だった。
車を出す前、直弦は少し離れた石段の上に立つ村上の元へ歩み寄った。
石段からは、瀬戸内の海が見えた。
一見すればただの美しい海だが、直弦のノイズの混じる視界には、昨夜つなぎ直した律糸の流れが、神域を越え、海の向こうへと細く長く伸びている気配が映っていた。
「……他にもいるでしょうね」
直弦が海を見つめたまま言うと、村上も同じように海へ目を向けた。
「そうだろうな」
「大山祇と吉備。これだけの結節点が呼応しているなら、立つ人間も一人じゃ済まない」
直弦の言葉に、村上は静かに目を閉じた。
「その先にいるのが、瀬戸内の巫女だ」
村上の低い声が、潮騒に溶けた。
点ではなく、線。
大山祇だけではない。宮島、金刀比羅、淡路、まだ名も見えない別の結節点。
それらが、見えない網の目のようにつながっている。
直弦は、まだ入口に立っただけなのだと思った。
◇
同じ頃。
瀬戸内海を挟んだ対岸、岡山県。
鬼ノ城周辺に設けられた平原化学の鬼城封緘実証センター。
その地下、厚い防護ガラスの奥で、異変が起きていた。
壁面を覆い尽くすように塗布された旧配合の封止材の表面に、メキッ、と乾いた音を立てて、黒い亀裂が走った。
吉備津の長い廻廊の下では、釜が煮え立つような低い鳴動が、地下から響き始めていた。
記録用の計器を確認していた白衣の若手研究員が、手を止めた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
大山祇で一本、糸は繋ぎ直された。
けれど、瀬戸内に張り巡らされた網は、まだ震え続けている。
星は、まだ降っている。
ここまで『星降りの欠片と瀬戸内の巫女 〜役立たずと言われた研究者が、世界の理を繋ぎ直すまで〜』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
作者にとって初挑戦となる現代ローファンタジーでした。
毎回の更新を追ってくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
続きの構想もありますが、物語としてはここで一先ず完結とさせていただきます。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




