寝ている間のはなし
女神の気配が漂っている。魔の国の王はそれを喉から手が出るほど欲している。その女神が司るのは戦ではない。豊穣と愛だ。豊穣というものは何故か愛と密接につながりがあるとされることが多いが、それは繁殖という行為が豊穣をもたらす行動に近しいからであろう。
人間は繁殖に愛を歌う。ゆえに豊穣の女神にも愛が重なるのであろう。
魔の国の王はたった今人生を丸ごと買い占めると言った子供を抱え直した。驚くほど細くやせ細った子供はだがしかし、その体の中に女神の気配を内包している。なぜこの国の誰もがそれに気づかないのかが不思議でたまらないほど、子供からは豊穣の女神の加護が感じ取れた。
何故と言うなら何故が多すぎる。
本来豊穣の女神の加護を持つのはどこの国でも王族かそれに血の繋がりを持つ上級貴族とされており、その貴族の穢れのない少女が多いとされているのだ。
そして豊穣の女神の加護を持つ人間を、普通はこんな市井の中に投じたりはしない。何かを捕まえる餌になんてとんでもない。
この子供は痩せこけた体をして、悪臭を放つような服を身にまとい、本人は気づいていない大昔に刻まれたのか、額には奴隷が刻まれる刻印があって、更にそれを上塗りして奴隷から外れた身の上とされる焼き印が押されている。
この子供は何かしらの理由で、奴隷にすらなれないとされた役立たずということなのだろう。
というのも奴隷の焼印が押されているということは、所有者が居たということであり、万が一なにか大変な間違いを犯した際に、責任が所有屋のもとに行くのだ。
奴隷を撤回する焼き印が押されているということは、この子供は奴隷にすらなれないと大衆に示されたということである。
本来奴隷をやめる場合には、所有者が神殿で奴隷の刻印を浄化してもらうための代金を、奴隷が稼いで消してもらうというのが一般的だ。
奴隷ですらないという焼き印に上書きされた子供というのは、本当に役に立たないと示されたとも言っていい。
そんな子供が女神の気配を持っている。
それが何を意味するのだ。魔の国の王は長命だが、何もかもを知る全知全能ではないがゆえにわからない。
「……軽いな」
魔の国の王はそう呟いた。驚くほど軽い体の中に、命が詰まっている。それもぎりぎり生き続けているという、不安定な命が。
最低の身分の子供に宿った女神の加護。誰も彼もが気づかないその気配。
それが意味するのはなんだ。
神官すら気づかないのか、それとも認められなかったか。
だが認められないにしても、それならば一層この子供は庇護されなければならなかっただろう。女神の加護を持つ子供がふらふらとさまよい歩いて良いわけがないのだ。
さまよい歩いたその先にあるのは私利私欲にまみれた何者かに手に入れられ、いいように利用されるという未来のみ。
豊穣の女神の加護は、加護を受けた人間を丁重に扱うということで更に増す。ゆえに、女神の加護を持つ少女たちは贅の限りを尽くした素晴らしい生活をおくると言われているのを鑑みるに、この子供の扱いは極めて異常だ。
この価値を知っていたら、誰もこの子供にこのような扱いをしないだろう。
魔の国の王は子供を抱えて歩く。別段怪しくもない光景だ。浮浪児を気に入り好き勝手する人間は多いのだし、そのたぐいだと思われることに対して魔の国の王は大した痛みも感じない。
すうすうと安心しきった調子で寝息を立てる子供の手の甲には、本来額に浮かび上がるはずの、女神の加護の印を一層簡略化した痣すらある。
簡略化されすぎているからか、見ただけでは誰もそうだとわからないほどであるが。
「ラシッド様、何を拾ってきなすったのか」
「見どころのある子供だ。俺を見て自分を買えとのたまわった」
「ひょっひょっひょ、それはそれは見どころの有りすぎる子供に違いありませんな」
数日泊まることになっていた宿に戻ると、宿で待機していた老婆が問いかけてきたものの、老婆は闇の力が濃すぎるゆえ、日中表に出たくないただの出不精である。それを魔の国の王は認めている。
その老婆が子供を見て問いかけてきたがゆえに、魔の国の王は細かいことを言わずにそう言った。
ここではそうしておいたほうが有利だ。ただの男が、見どころのある子供を拾った。それだけのことにすれば、女神の加護だのなんだのを大っぴらにせずに、子供をここから連れ出せるのだから。
「にしても、おやおや、見事に骨と皮ばかり。これで生きているのも驚きなくらい」
「生き延びてもらわなければ困る。頼めるな」
「それはそれはもちろん」
老婆がにたにたと笑うのは、そういった言葉を魔の王があまり魔の国の他者に投げかけないからであろう。
王にとって子供が特別気に入ったか、利用価値があると老婆が即座に判断した、それだけのことだ。
「……おや、女の子でしたか」
「女だったか」
女神の加護があるならば性別などは些細だ。どちらでも大したことはない。魔の国の王にとっては。
「可哀想に。この子はできの悪い魔術を内包した薬で、性別を逆転させられているようですが」
「ならば本来は男だったか?」
だが人間にとっては異常事態であろう。女神の加護は清らかな少女に宿るものだから。
「おそらく。これだけ弱っていると解呪の薬も飲ませられません。そもそも性別を逆転させる薬は、一生に一度覚悟を決めて飲む薬、二度の服用に耐えられるようには出来ていない劇薬と存じておりますでしょう」
「それは生まれ持った性別には戻れないのか」
「そうでしょうねえ」
老婆は現実的であり魔法薬の知識に造詣が深い。とても深いからだろう。この子が何かしらの非道なことをされて生き延びてきたことも、すぐに気付いた様子だった。
「可哀想に。儂らでもこんな目にはふつうあわせない」
「素性は知らん。だがその身なりだ。ろくな扱いを受けてきたわけでもないだろう。一生を買うというと喜ばれる程度には」
「ラシッド様、命の一生の面倒を見るのは覚悟がいりますぞ」
「今更だ」
「そうでしたか」
老婆がすぐさま手伝いの女を呼ぶ。女も魔の国のものだ。老婆に付き従うそれなりに信用のできる女でもある。
ここで男を呼ばないのは、子供の性別が女ということだからだ。
たったそれだけのこと。
「そうだ、額のそれは消せるか」
「そりゃあ何度も薬を塗り続ければ、この程度は簡単でしょうとも」
「目障りなしるしだ。消せ」
「はいはい」
魔の国の王はそう言い、寝台に寝かされた子供を見下ろした。見下ろしてみても、細くて折れそうで脆そうな子供だ。
だが、見る目だけは確かだろう。少なくとも、自分に危害を加えようと考えない相手に声をかけた。
「幸運な子供だ」
魔の国の王はそう言い、部屋を離れた。




