ヒロインとの出会い(ノエル視点)
扉が閉まった。
アルベルトの足音が、廊下の向こうに消えていく。
部屋には、私とライアスだけが残された。
(二人きりだ)
(推しと二人きりだ)
(なのに、少しも嬉しくない)
「ノエル」
「はい」
「座れ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
怒鳴られた方がまだマシな種類の静けさだった。
私は大人しく椅子に腰を下ろした。
「一応、雇い主として言うが、お前は今、王太子にお茶を吹きかけた。本人の顔にだ」
「……はい」
「普通なら不敬罪だ。衛兵を呼ばれてもおかしくなかった。アルベルトが笑って流す男だったから良かったものの、そうでなければ」
そこで、ライアスの言葉が止まった。
視線が私の手元に落ちて、ゆっくりと窓の外へ逸れる。
銀色の睫毛が、わずかに伏せられた。
沈黙が、ひどく長く感じた。
「……どうなっていたか、分からない」
「申し訳ございません、ライアス様」
深く頭を下げながら、私は気づいていた。
ライアスは怒ると、声が大きくなるのではない。
口数が増える。
説教が始まってから、すでに普段の半日分は喋っている。
(尊い、早口お説教版)
(いや、観察日誌の時間ではない)
ただ、これだけは言わせてほしい。
いきなり聖女かと尋問されたのだ。
その上で、もう一人の聖女候補がいるなどと言われたのだ。
驚いて、口の中のお茶が噴出しただけだ。
(理不尽ではなかろうか)
もちろん口には出せない。
私は神妙な顔のまま、床の模様を数え続けた。
扉が叩かれたのは、その五分後だった。
着替えを終えたアルベルトが、何事もなかったような顔で戻ってきた。
私は椅子から跳ね上がり、そのまま腰を九十度に折った。
「殿下、先ほどは大変なご無礼を」
「顔を上げて」
「お詫びのしようもございません。この上は、どのような処分でも」
「ノエル嬢」
穏やかな声に、恐る恐る顔を上げる。
アルベルトは、いつもの笑顔だった。
「気にしないで。驚かせた僕が悪い」
(神か)
(ありがとう、アルベルト)
借金の次は不敬罪で、ベルナード家の履歴書が真っ黒になるところだった。
胸の内で、深々と手を合わせる。
背中に刺さる視線を感じる。
ライアスが睨んでいる気がする。
気にしないでおこう。
「ところで」
アルベルトが、軽い調子で切り出した。
「この後、もう一人の聖女候補に会うことになっている」
「そうですか」
「よければ、君も一緒に来ない?」
一拍、置いた。
「おい、アル!さすがにそれは!」
背後で、ライアスの声が跳ねた。
私の脳は、ライアスの発した言葉に敏感に反応した。
(アル)
(アル!)
(今、ライアスがアルって言った)
脳内の私が、花畑で転げ回り始めた。
アル!だぁああってよーーーー!!
のほほほほ。
久々の愛称呼びだ。尊い。今夜の日誌は三行では足りない。
「まあまあ」
遠くで、アルベルトの声がする。
「普通の女性たちと違って、思考内容の理解が難しい女性が二人もいるんだよ。別々に対応するより、二人を会わせた方が、何か見えてくるかもしれない。僕が立ち会う。何かあれば、すぐに止められる」
「しかし、聖女のことは未だによく分かっていない。これ以上ノエルを関わらせて、騒ぎが大きくなるのは避けたい」
「何?彼女のことが心配なの?」
「それもあるが、彼女が関わると、また色々と話が難しくなる」
(色々とは)
「だってさ、ノエル嬢」
急に、名前を呼ばれた。
「君、色々な意味でライアスに心配されてるね」
花畑から、一気に引き戻された。
「ひゃ!ひゃい、何でしょうアルしゃま」
……。
……。
部屋の空気が、止まった。
アルベルトは、目を丸くして私を見ている。
ライアスは、眉をわずかに寄せて私を見ている。
私は、背筋を伸ばした。
顎を引く。
目に力を入れる。
「何でしょうか、アルベルト殿下」
「いや、キリッとした顔でこっちを見てるけどね」
「はい」
「ごまかせてないからね」
「アル、しゃま?」
ライアスが、小さく呟いた。
やめてほしい。
繰り返さないでほしい。
「もう一人の聖女候補との面談ですよね!承知いたしました、同席いたします!」
早口で言い切った。
言い切った後で、自分の声が裏返っていたことに気づいた。
アルベルトが、喉の奥で笑う。
「やっぱり、彼女、面白いね」
「面白いで済んで良いな、お前は」
二人が顔を寄せて、小声で何か話し始めた。
聞こえない。
聞こえないふりをする。
私は表情筋に全力を注ぎ、涼しい顔を保った。
(凌いだ)
(完全に凌いだ)
背中は冷や汗でびっしょりだった。
その時、ライアスの低い声だけが、静かな部屋によく通った。
「……俺も同席する。それが条件だ」
「最初からそのつもりだよ」
(同席。条件)
(つまり、私は連れて行かれる側で、ライアスは保護者枠だ)
聞かなかったことにして、天井の隅を見つめた。
◇
王宮の廊下は、長かった。
先を歩くアルベルトの後ろを、私はライアスと並んで歩く。
ライアスの歩幅は、いつもより少し小さい。
私に合わせてくれているのだと思う。
(尊い、歩幅調整版)
すれ違うのは、ローブ姿の魔術師たちだった。
袖口に、インクの染み。
目の下に、薄いクマ。
ふと、角を曲がった先の部屋が目に入った。
扉の隙間から、書類の山を抱えた若い魔術師が見える。
(あの量を、一人で)
事務員の目が、勝手に働いた。
机の数は同じなのに、書類の偏りが大きすぎる。
(業務の分担が偏っている?)
(それとも、誰かが押しつけられているのだろうか)
「ノエル」
「はい」
「余計なことは考えるな」
「考えておりません」
「顔に出ている」
横目で見上げると、ライアスがこちらを見ていた。
目が合って、すぐに逸らされた。
アルベルトが、一つの扉の前で足を止めた。
軽くノックをする。
「はい!」
中から、明るい声が返ってきた。
アルベルトが扉を開ける。
そして、今。
私の目の前には、散々見てきた乙女ゲーム「ヴェールド・クラウン~働く乙女と王国の騎士~」の主人公が立っていた。
リーネ・アルト。
蜂蜜色の長い髪は、毛先がやわらかく波打っている。
透き通ったエメラルドグリーンの瞳。
小さな顔に、優しげな目元。
華奢で、いかにも女性らしい柔らかさがある。
窓から差し込む光を受けて、その髪が金色に輝いていた。
(外見は、完璧にヒロインだ)
間違いない。
このゲームの、正真正銘のヒロインである。
そのリーネは、今。
目を輝かせ、抑えきれない吐息を漏らし、口の端から若干の涎をたらしながら、
アルベルトと、その後ろに立つライアスを見ていた。




