増える悩み(ライアス視点)
【フェルトン侯爵視点】
ヴェイルが椅子に座っていた。
フェルトンは跪いていた。
部屋は静かだった。
外の廊下から、遠く、人の気配がした。
しかしこの部屋の中だけは、切り離されたように静かだった。
「あのノエルという娘は」
ヴェイルが言った。
フェルトンに話しかけているというより、独り言のようだった。
「よく分からないですね」
眼鏡の奥の目が、虚空を見ていた。
「ただの優秀な事務員なのか。それとも、ライアスに何か作用する愛乙女なのか」
愛乙女、という言葉が、静かな部屋に落ちた。
フェルトンは顔を上げられなかった。
ヴェイルは続けた。
フェルトンに語りかけているのではなく、自分の思考を整理しているようだった。
かつて、人類を恐怖で支配し、世界を掌握しようとした魔王様がいた。
しかしその魔王様は、愛乙女と英雄の手により封印された。
その屈辱を、ヴェイルは忘れていない。
女神が人類に与えた切り札、愛乙女。
二度とそのような事態を許すわけにはいかなかった。
もしノエルが愛乙女であるなら、ライアスよりも先に始末するつもりだった。
「しかし」
ヴェイルが続けた。
「あの娘からは、愛乙女が持つような特殊な何かは感じなかった」
愛乙女と英雄が揃った時、それだけで魔人に不快感を与えるはずだ。
しかし祝賀会でライアスが部屋に入ってきた時、ライアスからもノエルからも、そのような何かは感じなかった。
「ただ」
ヴェイルの目が、わずかに細くなった。
「得体の知れない何か、は感じた」
独り言が続いた。
「あの娘は私を見て、恐れは抱いたようだった。しかし恐怖ではなかった。恐れを隠して気丈に振る舞っていた。まるで私のことを知っているような」
少し、間があった。
「しかし、そんなはずはない。今回私がこの姿で人類の前に現れるのも、初めてだ」
ライアスが戦場で見せた異常な能力にノエルが関わっているかどうか、断定できない。
答えは出なかった。
ヴェイルはそこで思考を止めた。
そして。
「お前には、愛している者はいるか」
フェルトンに向かって、静かに言った。
フェルトンの身体が、ビクリと揺れた。
「は、はい。妻と、息子がおります」
「愛しているのか」
「はい」
フェルトンは跪いたまま、顔を上げられなかった。
声が震えていた。
この問いが何を意味するのか、フェルトンには分からなかった。
分からないことが、さらに恐ろしかった。
妻と息子の顔が、頭の中に浮かんだ。
この存在に従ったのは、家のためだった。
しかし今この瞬間、その選択が正しかったのかどうか、フェルトンには分からなかった。
ヴェイルが、鼻で笑った。
(愛か)
その笑いの奥に、感情はなかった。
愛という概念を理解しようとする気配もなかった。
(女神が人類に与えた、くだらない感情が)
(我々の脅威になるやもしれぬとは)
ヴェイルは目を閉じた。
もう少し、観察する価値はある。
そう判断した。
部屋が、また静かになった。
◇
【ライアス視点】
祝賀会から、数日が経っていた。
ノエルの元に、通知が届き始めていた。
会談の要請。
お茶会の招待。
それが一つ二つではなかった。
王家の覚えもめでたく、公爵家でも重用されているノエルを、貴族たちが放っておくはずがなかった。
祝賀会でノエルは目立ちすぎた。
ある程度は予想していた。
しかし、これほどとは思っていなかった。
(お茶会の招待については、どうするか)
ライアスは書類を置いた。
令嬢たちからの招待が多かった。
夜会に慣れていないノエルが、貴族令嬢たちの集まりに一人で対応するのは負担が大きいだろう。
社交界の令嬢というのは、時に言葉で人を追い詰める。
祝賀会でのあの侯爵令嬢の一件を思い出した。
ノエルはうまく対処していたが、あれが連続して続くような状況に置かれるのは別の話だ。
(厄介だ)
それとは別に、もう一つ懸念があった。
フェルトンなど家格の高い侯爵家が、ベルナード伯爵に圧力をかける可能性だった。
最悪、婚約話を捩じ込んでくるかもしれなかった。
既にライアスは、ノエルの父が泊まるホテルへの警護を公爵家から手配していた。
グラントにも別途連絡を入れ、伯爵が領地に戻るまでの警護と、戻った後の体制を整えるよう指示を出していた。
フェルトンからも、自分とノエルへの会談要請が届いていた。
断っても問題はない。
しかしフェルトンはやり手の貴族だ。
社交界にどのような影響を及ぼすか、断った場合のリスクも考えておく必要があった。
(悩ましい)
ライアスは頭を押さえた。
珍しいことだった。
自分がこういう形で頭を抱えるのは、あまりない。
以前ならグラントに丸投げしていた類の問題だった。
そこへ、扉がノックされた。
「入れ」
執事長が入ってきた。
「王家よりお使いが参っております。アルベルト殿下が、内密に会談の場を設けたいとのことです」
内密に、という言葉が引っかかった。
アルベルトがその言葉を使うとき、それだけ重要な話がある、ということだ。
長年の親友として、それくらいはわかっていた。
「わかった」ライアスは答えた。「ノエルを呼んでくれ」
執事長が一礼して、出ていった。
ライアスは窓の外を見た。
王都の屋並みが、眼下に広がっていた。
その向こうに、王宮の尖塔が見えた。
アルベルトが何を話したいのか、今の段階ではわからなかった。
しかし、のんびりと構えていられる話ではないだろう、という感覚があった。
ライアスは立ち上がり、王家への準備を始めた。




