接触(ノエル視点)
【ノエル視点】
ヴェイル・ナハトが、こちらを見ていた。
眼鏡の奥の目が、静かだった。
感情がなかった。
人間の目をしていたが、その奥にあるものが、人間のそれとは違った。
フェルトンが、穏やかに言った。
「こちらは私の知人でしてね。貴方にぜひお会いしたいと申しておりまして」
ヴェイル・ナハトが、ゆっくりと口を開いた。
「はじめまして」
声は低く、静かだった。
感情の起伏が、ほとんどなかった。
「ベルナード伯爵令嬢」
名前を呼ばれた、というより、標本に名札をつけられたような感覚だった。
「随分と、面白い方のようですね」
面白い、という言葉が、妙に引っかかった。
(面白い)
(この人物の口から出る面白い、という言葉が、どういう意味を持つのか)
(虫眼鏡で虫を観察しながら、面白い、と言っているような)
(そういう種類の面白い、に聞こえる)
ノエルは笑顔を保ちながら、椅子に座った。
ヴェイル・ナハトも、向かいに座った。
フェルトンが、二人の間に立つような形で、ゆっくりと椅子を引いた。
「本日は貴方もいらしていると聞きまして」フェルトンがノエルに向かって言った。「以前の件についても、ゆっくりお話できればと思っておりましたが、思いがけず良い機会になりましたな」
フェルトンの笑顔は、相変わらず穏やかだった。
しかしその目だけが、この部屋の主導権が既に自分にないことを、静かに承知していた。
(フェルトンは、この場の演出者だ)
(しかし今この瞬間、主役はヴェイルに移っている)
(フェルトン自身も、それをわかっている)
「貴方のことは、色々と伺っておりますよ」ヴェイル・ナハトが続けた。「公爵家の財政を立て直し、領民の生活を改善し、孤児院まで設立した。なかなかどうして、普通の事務員にできることではない」
「お恥ずかしい限りです」
ノエルは答えた。
笑顔だった。
内心は、全速力で回転していた。
(この人物は、私のことをかなり詳しく把握している)
(ゲームの中でヴェイル・ナハトは情報収集を得意としていた)
(それと一致する)
(どこまで知っているのか、慎重に見極める必要がある)
「ヴァルトハイン公爵とも、随分と信頼関係を築いておられるようで」
ヴェイル・ナハトが続けた。
「上司と部下の関係ですので」
「そうですか」
ヴェイル・ナハトが、少し首を傾けた。
「それにしては、今夜のエスコートは随分と親密に見えましたが」
「公爵様がお気遣いくださっているだけです」
「なるほど」
ヴェイル・ナハトが、静かに言った。
それ以上は追及しなかった。
しかしその目が、ノエルをじっと見ていた。
推し量るような目だった。
いや、違う。
(推し量っているというより、既に答えを知っていて、こちらが気づいているかどうかを確認している)
(そういう目だ)
(ぞっとする)
「貴方は」ヴェイル・ナハトが言った。「なぜ公爵家に来たのですか。伯爵令嬢が事務員として働くというのは、随分と珍しい選択だ」
「家の事情がありまして」
「家の借財、ですか」
「左様です」
「それにしては」ヴェイル・ナハトが続けた。「随分と楽しそうに働いておられる」
楽しそうに、という言葉が、また引っかかった。
「お仕事は楽しいものですので」
ノエルは笑顔で答えた。
ヴェイル・ナハトが、少し黙った。
その沈黙が、奇妙に長かった。
ヴェイル・ナハトの目が、ノエルを見ていた。
表情は変わらなかった。
しかしその目の奥で、何かが動いた気がした。
「楽しそうに、ではないかもしれませんね」
ヴェイル・ナハトが、ぽつりと言った。
「貴方は、守りたいものがある。だから動いている。そういう顔をしている」
ノエルは、笑顔を保った。
保ちながら、背筋に冷たいものが走った。
(この人物は)
(私の表情から、そこまで読んでいる)
(いや、読んでいるというより)
(見えている)
(見えてしまっている)
「買いかぶりすぎです」
ノエルは答えた。
「そうでしょうか」
ヴェイル・ナハトが、わずかに口元を動かした。
笑った、というより、笑いに似た何かを形作った、という感じだった。
「守りたいものがある人間というのは、興味深い」
淡々と言った。
「失うことへの恐怖が、行動の燃料になる。そういう人間は、強くもあるし」
少し間があった。
「壊しやすくもある」
フェルトンが、その言葉を聞きながら、さりげなく窓の外に視線を向けた。
関与しない、という意思表示だった。
(フェルトンは、この人物が何を言い出すか、完全には把握していない)
(恐れている)
(傀儡でありながら、この人物を恐れている)
その瞬間だった。
廊下の方から、足音が聞こえた。
速い足音だった。
迷いのない、真っ直ぐな足音だった。
扉が、開いた。
ライアスが立っていた。
その目が、一瞬で部屋の中を見渡した。
フェルトンを見た。
ヴェイル・ナハトを見た。
ノエルを見た。
ライアスの視線が、ヴェイル・ナハトの上で、一瞬だけ止まった。
ヴェイル・ナハトも、ライアスを見た。
二人の視線が、交わった。
部屋の空気が、変わった。
ヴェイル・ナハトが、静かに立ち上がった。
「これはこれは」
その声に、初めて、僅かな色がついた。
「ヴァルトハイン公爵。お会いできて光栄です」
一礼した。
丁寧な所作だった。
しかしその目は、ライアスから離れなかった。
「先の戦でのご活躍、この私も聞き及んでおります」
ライアスが、静かに答えた。
「どこかでお会いしたか」
「いいえ」ヴェイル・ナハトが答えた。「しかし、貴方のことはよく存じております。伺う限りかなりの戦場を、お一人で切り開かれた。普通ではない」
普通ではない、という言葉を、ヴェイル・ナハトは平坦な声で言った。
「敬意を表します、公爵閣下。そして」
ヴェイル・ナハトの目が、ライアスとノエルの間を、ゆっくりと行き来した。
「また、いずれどこかでお会いすることもあるかもしれません」
その言葉が、挨拶として発せられながら、挨拶以上の意味を持っていた。
ライアスが、ヴェイル・ナハトを見たまま、ノエルに向かって言った。
「ノエル、こちらへ」
「はい」
ノエルは立ち上がった。
ライアスの隣に移動した。
ヴェイル・ナハトが、立ち上がるノエルを見ていた。
表情は変わらなかった。
しかしその目が、ノエルに向いた瞬間、最初に言った言葉を思い出させるような色を帯びた。
(壊しやすくもある)
ノエルは視線を前に向けた。
ライアスがフェルトンに向かって、静かに言った。
「本日は失礼します。業務上の話であれば、改めて公爵家を通じてご連絡ください」
フェルトンが、笑顔のまま一礼した。
「もちろんです。本日はお時間をいただきありがとうございました」
二人で廊下に出た。
扉が閉まった。
廊下の静寂の中で、ノエルはようやく息をついた。
ライアスが、前を向いたまま言った。
「何があった」
「少し、色々と」
「怪我はないか」
「はい」
ライアスが、少し歩を緩めた。
それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
しかしその歩調が、ノエルに合わせて、ゆっくりになっていた。
(ライアス様が来てくれた)
ノエルはそれだけを、静かに思った。
祝賀会の明かりが、廊下の窓から見えていた。




