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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第三章 動き出す脅威

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接触(ノエル視点)

【ノエル視点】


 ヴェイル・ナハトが、こちらを見ていた。


 眼鏡の奥の目が、静かだった。

 感情がなかった。

 人間の目をしていたが、その奥にあるものが、人間のそれとは違った。


 フェルトンが、穏やかに言った。


「こちらは私の知人でしてね。貴方にぜひお会いしたいと申しておりまして」


 ヴェイル・ナハトが、ゆっくりと口を開いた。


「はじめまして」


 声は低く、静かだった。

 感情の起伏が、ほとんどなかった。


「ベルナード伯爵令嬢」


 名前を呼ばれた、というより、標本に名札をつけられたような感覚だった。


「随分と、面白い方のようですね」


 面白い、という言葉が、妙に引っかかった。


(面白い)

(この人物の口から出る面白い、という言葉が、どういう意味を持つのか)

(虫眼鏡で虫を観察しながら、面白い、と言っているような)

(そういう種類の面白い、に聞こえる)


 ノエルは笑顔を保ちながら、椅子に座った。

 ヴェイル・ナハトも、向かいに座った。

 フェルトンが、二人の間に立つような形で、ゆっくりと椅子を引いた。


「本日は貴方もいらしていると聞きまして」フェルトンがノエルに向かって言った。「以前の件についても、ゆっくりお話できればと思っておりましたが、思いがけず良い機会になりましたな」


 フェルトンの笑顔は、相変わらず穏やかだった。

 しかしその目だけが、この部屋の主導権が既に自分にないことを、静かに承知していた。


(フェルトンは、この場の演出者だ)

(しかし今この瞬間、主役はヴェイルに移っている)

(フェルトン自身も、それをわかっている)


「貴方のことは、色々と伺っておりますよ」ヴェイル・ナハトが続けた。「公爵家の財政を立て直し、領民の生活を改善し、孤児院まで設立した。なかなかどうして、普通の事務員にできることではない」


「お恥ずかしい限りです」


 ノエルは答えた。

 笑顔だった。

 内心は、全速力で回転していた。


(この人物は、私のことをかなり詳しく把握している)

(ゲームの中でヴェイル・ナハトは情報収集を得意としていた)

(それと一致する)

(どこまで知っているのか、慎重に見極める必要がある)


「ヴァルトハイン公爵とも、随分と信頼関係を築いておられるようで」


 ヴェイル・ナハトが続けた。


「上司と部下の関係ですので」


「そうですか」


 ヴェイル・ナハトが、少し首を傾けた。


「それにしては、今夜のエスコートは随分と親密に見えましたが」


「公爵様がお気遣いくださっているだけです」


「なるほど」


 ヴェイル・ナハトが、静かに言った。


 それ以上は追及しなかった。

 しかしその目が、ノエルをじっと見ていた。

 推し量るような目だった。


 いや、違う。


(推し量っているというより、既に答えを知っていて、こちらが気づいているかどうかを確認している)

(そういう目だ)

(ぞっとする)


「貴方は」ヴェイル・ナハトが言った。「なぜ公爵家に来たのですか。伯爵令嬢が事務員として働くというのは、随分と珍しい選択だ」


「家の事情がありまして」


「家の借財、ですか」


「左様です」


「それにしては」ヴェイル・ナハトが続けた。「随分と楽しそうに働いておられる」


 楽しそうに、という言葉が、また引っかかった。


「お仕事は楽しいものですので」


 ノエルは笑顔で答えた。


 ヴェイル・ナハトが、少し黙った。

 その沈黙が、奇妙に長かった。


 ヴェイル・ナハトの目が、ノエルを見ていた。

 表情は変わらなかった。

 しかしその目の奥で、何かが動いた気がした。


「楽しそうに、ではないかもしれませんね」


 ヴェイル・ナハトが、ぽつりと言った。


「貴方は、守りたいものがある。だから動いている。そういう顔をしている」


 ノエルは、笑顔を保った。

 保ちながら、背筋に冷たいものが走った。


(この人物は)

(私の表情から、そこまで読んでいる)

(いや、読んでいるというより)

(見えている)

(見えてしまっている)


「買いかぶりすぎです」


 ノエルは答えた。


「そうでしょうか」


 ヴェイル・ナハトが、わずかに口元を動かした。

 笑った、というより、笑いに似た何かを形作った、という感じだった。


「守りたいものがある人間というのは、興味深い」


 淡々と言った。


「失うことへの恐怖が、行動の燃料になる。そういう人間は、強くもあるし」


 少し間があった。


「壊しやすくもある」


 フェルトンが、その言葉を聞きながら、さりげなく窓の外に視線を向けた。

 関与しない、という意思表示だった。


(フェルトンは、この人物が何を言い出すか、完全には把握していない)

(恐れている)

(傀儡でありながら、この人物を恐れている)


 その瞬間だった。


 廊下の方から、足音が聞こえた。

 速い足音だった。

 迷いのない、真っ直ぐな足音だった。


 扉が、開いた。


 ライアスが立っていた。


 その目が、一瞬で部屋の中を見渡した。

 フェルトンを見た。

 ヴェイル・ナハトを見た。

 ノエルを見た。


 ライアスの視線が、ヴェイル・ナハトの上で、一瞬だけ止まった。

 ヴェイル・ナハトも、ライアスを見た。

 二人の視線が、交わった。


 部屋の空気が、変わった。


 ヴェイル・ナハトが、静かに立ち上がった。


「これはこれは」


 その声に、初めて、僅かな色がついた。


「ヴァルトハイン公爵。お会いできて光栄です」


 一礼した。

 丁寧な所作だった。

 しかしその目は、ライアスから離れなかった。


「先の戦でのご活躍、この私も聞き及んでおります」


 ライアスが、静かに答えた。


「どこかでお会いしたか」


「いいえ」ヴェイル・ナハトが答えた。「しかし、貴方のことはよく存じております。伺う限りかなりの戦場を、お一人で切り開かれた。普通ではない」


 普通ではない、という言葉を、ヴェイル・ナハトは平坦な声で言った。


「敬意を表します、公爵閣下。そして」


 ヴェイル・ナハトの目が、ライアスとノエルの間を、ゆっくりと行き来した。


「また、いずれどこかでお会いすることもあるかもしれません」


 その言葉が、挨拶として発せられながら、挨拶以上の意味を持っていた。


 ライアスが、ヴェイル・ナハトを見たまま、ノエルに向かって言った。


「ノエル、こちらへ」


「はい」


 ノエルは立ち上がった。

 ライアスの隣に移動した。


 ヴェイル・ナハトが、立ち上がるノエルを見ていた。

 表情は変わらなかった。

 しかしその目が、ノエルに向いた瞬間、最初に言った言葉を思い出させるような色を帯びた。


(壊しやすくもある)


 ノエルは視線を前に向けた。


 ライアスがフェルトンに向かって、静かに言った。


「本日は失礼します。業務上の話であれば、改めて公爵家を通じてご連絡ください」


 フェルトンが、笑顔のまま一礼した。


「もちろんです。本日はお時間をいただきありがとうございました」


 二人で廊下に出た。

 扉が閉まった。


 廊下の静寂の中で、ノエルはようやく息をついた。


 ライアスが、前を向いたまま言った。


「何があった」


「少し、色々と」


「怪我はないか」


「はい」


 ライアスが、少し歩を緩めた。

 それだけだった。

 それ以上は聞かなかった。

 しかしその歩調が、ノエルに合わせて、ゆっくりになっていた。


(ライアス様が来てくれた)


 ノエルはそれだけを、静かに思った。


 祝賀会の明かりが、廊下の窓から見えていた。

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