馬車に揺られて(ノエル視点)
【ノエル視点】
出発の朝だった。
公爵邸の正門前に、馬車が一台止まっていた。立派な馬車だった。公爵家の紋章が入っていた。
ノエルはその馬車を見ながら、胸の中でひっそりと、ここ数日温めてきた気持ちを確認した。
(王都への旅)
(ライアス様と)
(馬車で半日)
(楽しみ)
そこまで思ったところで、
「ノエルさん、準備できましたか」
クラウスの声がした。振り返った。
クラウスが、馬に乗っていた。馬の上から、こちらを見下ろしていた。その後ろに、騎馬の護衛が十名ほど並んでいた。全員、馬の上にいた。
ノエルは馬車を見た。護衛を見た。クラウスを見た。
(……あ)
そうだった。ライアスは公爵だった。公爵が移動するとなれば、護衛がつく。当然だった。当たり前だった。
(二人で旅行、という訳がなかった)
(そりゃそーだ)
(何を浮かれていたんだ私は)
ノエルは深呼吸を一回した。冷静になった。数日分の浮かれが、すっと引いた。
「準備できています」
「じゃ、行きましょうか」
クラウスが馬上から軽く言った。
グラントが前に出た。
「閣下、道中お気をつけて」
「ああ」ライアスが答えた。「頼む、グラント」
「かしこまりました」
グラントが一礼した。
それからグラントが、ノエルの方を向いた。
「ベルナード嬢」
「はい」
「道中、お気をつけて」
グラントはそれだけ言った。しかしその目が、いつもより少しだけ、柔らかかった。
「はい」ノエルは答えた。「行ってまいります」
グラントが、静かに頷いた。
◇
馬車に乗り込んだ。
座席は向かい合いだった。ライアスが進行方向を向いた席に座った。ノエルはその向かい、逆向きの席に座った。
(上座と下座というやつだ)
(公爵家の事務員として、これは当然の配置だ)
(当然だ)
(うん)
(ライアス様と向かい合って座るのは、それはそれで緊張するが)
(当然の配置だ)
馬車が動き出した。公爵邸の正門を出た。公都の大通りを進んだ。
ノエルは鞄から書類を取り出した。王都に行くまでの間に片付けておきたい案件がいくつかあった。
「馬車の中で文字を読んでいて大丈夫か」
ライアスが言った。
「大丈夫です」ノエルは答えた。「少しでも仕事は片付けておきたいので」
「……そうか」
ライアスが何か言いかけて、止まった。
(何か言おうとしたような気がするが)
(まあ、大丈夫だろう)
ノエルは書類に目を落とした。
◇
一時間が経った頃だった。
最初は大丈夫だった。本当に、最初は大丈夫だった。書類を読み始めた途端に、来た。
(あ)
胃が、動いた。ゆっくりと、しかし確実に、動いた。
(あ、これ)
(これはまずい)
(まずいやつだ)
ノエルは書類を伏せた。窓の外を見た。景色が、流れていた。
(現代日本の車とは違う)
(サスペンションがない)
(舗装されていない道を、馬車が揺れながら進んでいる)
(そこに逆向きで座りながら書類を読んでいた)
(完全に、甘く見ていた)
「ベルナード嬢」
ライアスの声がした。
「……大丈夫です」
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「嘘をついても顔に出ている」
ノエルは窓の外を見たまま、笑顔を作った。
「大丈夫、です」
声が、微妙に上擦った。
ライアスが、ため息をついた。静かな、しかしはっきりとしたため息だった。
それから、ライアスが動いた。向かいの席から立ち上がった。馬車が揺れる中、安定した動作でノエルの隣に来て座った。
傍らに置いてあったブランケットを手に取った。丁寧に折った。自分の肩に置いた。
「寄りかかれ」
「え、あ、だだだ大丈夫れふ」
「いいから」
折れなかった。完全に、折れなかった。
(公爵様の肩を枕にするなど)
(どういう状況だ)
(しかし気持ち悪い)
(気持ち悪いが、心臓が)
(心臓がうるさい)
(どっちの意味でもうるさい)
「横になると揺れがダイレクトに来る。座りながら頭をつけて休め」
ライアスが静かに言った。
ノエルは少し、ライアスを見た。無表情だった。しかし馬車の中だったからか、それともノエルの気のせいだったか。いつもより、少しだけ、表情が柔らかかった気がした。
「……お邪魔します」
ノエルはゆっくりと、ライアスの肩に頭を乗せた。ブランケットが、いい具合にクッションになった。気持ち悪さが、少しだけ、和らいだ。
(少し楽になった)
(なったが)
(心臓が)
(心臓がうるさすぎて休めない)
(ライアス様の肩の高さがちょうど良すぎる)
(というかライアス様の肩の温かさが)
(いや今はそれを考えている場合ではない)
(休まなければ)
(休むんだ私)
(気持ち悪いし休め)
(でも心臓が)
(でも気持ち悪い)
(でも心臓が)
(でも)
◇
五分後。
すうすうと、寝息が聞こえた。
ライアスは動かなかった。肩に頭を乗せて眠っているノエルを、揺らさないように、静かに座っていた。
窓の外の景色が、流れていた。しばらくそのままでいた。それから、ゆっくりと、ノエルの方を見た。
完全に、眠っていた。さっきまで気持ち悪そうにしていた顔が、今は少し穏やかだった。
ライアスは前を向いた。何も言わなかった。ただ、動かなかった。
馬車が揺れるたびに、少しだけ、肩に力を入れた。ノエルが起きないように。
それだけのことだった。
それだけのことのはずだった。
◇
王都が近づいてきた頃だった。
馬車の窓から、クラウスが中を確認しようと顔を向けた。そして、固まった。
ライアスの肩に、ノエルが頭を乗せて眠っていた。
ライアスが、真っ直ぐ前を向いたまま、クラウスを見た。目が合った。無表情だった。しかし何かを言いたそうだった。
「…………」
「…………」
クラウスは素早く視線を外した。馬上で前を向いた。
(見なかったことにしよう)
そう決めた。それが正解だと思った。
◇
王都到着の夜、観察日誌にこう記録した。
「王都到着直前に目が覚めた。ライアス様の肩で寝ていたことに気づいた。よだれの跡が服についていることも確認した。顔が燃えるかと思った」
一行空けて、続けた。
「ライアス様は気にするな、と一言だけおっしゃった。その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。それだけは、はっきりと覚えている」
もう一行空けて、最後にこう締めた。
「本日の尊さ:計測不能。ただし羞恥心も同時に計測不能だった為、相殺されたかどうかは不明である」




