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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
動き出す脅威

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馬車に揺られて(ノエル視点)

【ノエル視点】


 出発の朝だった。


 公爵邸の正門前に、馬車が一台止まっていた。立派な馬車だった。公爵家の紋章が入っていた。


 ノエルはその馬車を見ながら、胸の中でひっそりと、ここ数日温めてきた気持ちを確認した。


(王都への旅)

(ライアス様と)

(馬車で半日)

(楽しみ)


 そこまで思ったところで、


「ノエルさん、準備できましたか」


 クラウスの声がした。振り返った。


 クラウスが、馬に乗っていた。馬の上から、こちらを見下ろしていた。その後ろに、騎馬の護衛が十名ほど並んでいた。全員、馬の上にいた。


 ノエルは馬車を見た。護衛を見た。クラウスを見た。


(……あ)


 そうだった。ライアスは公爵だった。公爵が移動するとなれば、護衛がつく。当然だった。当たり前だった。


(二人で旅行、という訳がなかった)

(そりゃそーだ)

(何を浮かれていたんだ私は)


 ノエルは深呼吸を一回した。冷静になった。数日分の浮かれが、すっと引いた。


「準備できています」


「じゃ、行きましょうか」


 クラウスが馬上から軽く言った。


 グラントが前に出た。


「閣下、道中お気をつけて」


「ああ」ライアスが答えた。「頼む、グラント」


「かしこまりました」


 グラントが一礼した。


 それからグラントが、ノエルの方を向いた。


「ベルナード嬢」


「はい」


「道中、お気をつけて」


 グラントはそれだけ言った。しかしその目が、いつもより少しだけ、柔らかかった。


「はい」ノエルは答えた。「行ってまいります」


 グラントが、静かに頷いた。



 馬車に乗り込んだ。


 座席は向かい合いだった。ライアスが進行方向を向いた席に座った。ノエルはその向かい、逆向きの席に座った。


(上座と下座というやつだ)

(公爵家の事務員として、これは当然の配置だ)

(当然だ)

(うん)

(ライアス様と向かい合って座るのは、それはそれで緊張するが)

(当然の配置だ)


 馬車が動き出した。公爵邸の正門を出た。公都の大通りを進んだ。


 ノエルは鞄から書類を取り出した。王都に行くまでの間に片付けておきたい案件がいくつかあった。


「馬車の中で文字を読んでいて大丈夫か」


 ライアスが言った。


「大丈夫です」ノエルは答えた。「少しでも仕事は片付けておきたいので」


「……そうか」


 ライアスが何か言いかけて、止まった。


(何か言おうとしたような気がするが)

(まあ、大丈夫だろう)


 ノエルは書類に目を落とした。



 一時間が経った頃だった。


 最初は大丈夫だった。本当に、最初は大丈夫だった。書類を読み始めた途端に、来た。


(あ)


 胃が、動いた。ゆっくりと、しかし確実に、動いた。


(あ、これ)

(これはまずい)

(まずいやつだ)


 ノエルは書類を伏せた。窓の外を見た。景色が、流れていた。


(現代日本の車とは違う)

(サスペンションがない)

(舗装されていない道を、馬車が揺れながら進んでいる)

(そこに逆向きで座りながら書類を読んでいた)

(完全に、甘く見ていた)


「ベルナード嬢」


 ライアスの声がした。


「……大丈夫です」


「顔色が悪い」


「大丈夫です」


「嘘をついても顔に出ている」


 ノエルは窓の外を見たまま、笑顔を作った。


「大丈夫、です」


 声が、微妙に上擦った。


 ライアスが、ため息をついた。静かな、しかしはっきりとしたため息だった。


 それから、ライアスが動いた。向かいの席から立ち上がった。馬車が揺れる中、安定した動作でノエルの隣に来て座った。


 傍らに置いてあったブランケットを手に取った。丁寧に折った。自分の肩に置いた。


「寄りかかれ」


「え、あ、だだだ大丈夫れふ」


「いいから」


 折れなかった。完全に、折れなかった。


(公爵様の肩を枕にするなど)

(どういう状況だ)

(しかし気持ち悪い)

(気持ち悪いが、心臓が)

(心臓がうるさい)

(どっちの意味でもうるさい)


「横になると揺れがダイレクトに来る。座りながら頭をつけて休め」


 ライアスが静かに言った。


 ノエルは少し、ライアスを見た。無表情だった。しかし馬車の中だったからか、それともノエルの気のせいだったか。いつもより、少しだけ、表情が柔らかかった気がした。


「……お邪魔します」


 ノエルはゆっくりと、ライアスの肩に頭を乗せた。ブランケットが、いい具合にクッションになった。気持ち悪さが、少しだけ、和らいだ。


(少し楽になった)

(なったが)

(心臓が)

(心臓がうるさすぎて休めない)

(ライアス様の肩の高さがちょうど良すぎる)

(というかライアス様の肩の温かさが)

(いや今はそれを考えている場合ではない)

(休まなければ)

(休むんだ私)

(気持ち悪いし休め)

(でも心臓が)

(でも気持ち悪い)

(でも心臓が)

(でも)



 五分後。


 すうすうと、寝息が聞こえた。


 ライアスは動かなかった。肩に頭を乗せて眠っているノエルを、揺らさないように、静かに座っていた。


 窓の外の景色が、流れていた。しばらくそのままでいた。それから、ゆっくりと、ノエルの方を見た。


 完全に、眠っていた。さっきまで気持ち悪そうにしていた顔が、今は少し穏やかだった。


 ライアスは前を向いた。何も言わなかった。ただ、動かなかった。


 馬車が揺れるたびに、少しだけ、肩に力を入れた。ノエルが起きないように。


 それだけのことだった。

 それだけのことのはずだった。



 王都が近づいてきた頃だった。


 馬車の窓から、クラウスが中を確認しようと顔を向けた。そして、固まった。


 ライアスの肩に、ノエルが頭を乗せて眠っていた。


 ライアスが、真っ直ぐ前を向いたまま、クラウスを見た。目が合った。無表情だった。しかし何かを言いたそうだった。


「…………」


「…………」


 クラウスは素早く視線を外した。馬上で前を向いた。


(見なかったことにしよう)


 そう決めた。それが正解だと思った。



 王都到着の夜、観察日誌にこう記録した。


「王都到着直前に目が覚めた。ライアス様の肩で寝ていたことに気づいた。よだれの跡が服についていることも確認した。顔が燃えるかと思った」


 一行空けて、続けた。


「ライアス様は気にするな、と一言だけおっしゃった。その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。それだけは、はっきりと覚えている」


 もう一行空けて、最後にこう締めた。


「本日の尊さ:計測不能。ただし羞恥心も同時に計測不能だった為、相殺されたかどうかは不明である」

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