撤退戦(ライアス視点)
【ライアス視点】
迷っている時間はなかった。
「エリナ」
「はい」
「兵を集めろ。直接出る」
エリナが動いた。
素早かった。
副隊長として、迷いなく動いた。
前線に出た瞬間、その惨状が目に飛び込んできた。
倒れた兵が、あちこちに散らばっていた。
立っている兵は、後退しながら必死に剣を振るっていた。
そしてその向こうから、異常な敵兵が押し寄せていた。
腕のない者が走っていた。
足を引きずりながら這い進む者がいた。
それでも止まらなかった。
止まらずに、こちらへ向かってきていた。
ライアスはハルバードを構えた。
踏み込んだ。
一合目。
敵の剣を弾き、柄で顎を砕いた。
倒れた。
しかし起き上がろうとした。
顎が砕けた状態で、起き上がろうとした。
(頭部を潰さなければ止まらない)
素早く判断した。
ハルバードの石突きで頭部を抑えた。
止まった。
次。
また次。
また次。
ライアスには、対処できた。
一体一体、頭部を狙えば止められる。
しかし。
(兵には無理だ)
ちらりと横を見た。
自軍の兵が剣を振るっていた。
腕を斬った。
胴を斬った。
足を斬った。
それでも敵が止まらない光景に、兵の動きが乱れ始めていた。
恐慌状態の兵に、頭部だけを正確に狙え、などという指示は通らない。
通常の訓練で叩き込まれた型は、目の前の状況には通用しなかった。
さらに。
(数が多すぎる)
ライアスが対処できる速度より、押し寄せてくる速度の方が速かった。
一体を仕留める間に、三体が迫ってくる。
ライアスは四属性魔術を組み合わせながら敵を捌いた。
風で一群を押し返した。
十数体がよろめいた。
しかし倒れなかった。
立て直して、また来た。
土で足元を固め、動きを制限した。
数体が膝をついた。
しかし這いずって前進した。
炎で経路を塞いだ。
一時的に流れが変わった。
しかし別の方向から回り込んできた。
水で視界を遮った。
動きが乱れた。
しかし声を頼りに、また向かってきた。
(効いている。しかし追いつかない)
一手打てば、別の方向から来る。
また一手打てば、また別の方向から来る。
無尽蔵だった。
(雷と氷は、まだ使わない)
切り札は、最後まで取っておく。
しかし状況は、刻々と悪化していた。
◇
恐怖が、伝播していた。
目の前で腕を断ち切られた敵兵が起き上がるのを見た兵から、崩れ始めた。
剣を持つ手が震えている兵がいた。
後退の速度が上がっていた。
一人が崩れると、隣の兵に伝わった。
隣から、また隣へ。
訓練では克服できない類の恐怖が、静かに、しかし確実に広がっていた。
「閣下」
エリナが来た。
その顔は冷静だった。
しかし目が、状況を正確に把握していた。
「わかっている」
「このままでは」
「わかっている」
ライアスは判断した。
「全隊、撤退」
エリナが即座に動いた。
「全隊、撤退! 作戦本部まで退け!」
撤退が始まった。
崩れかけていた隊が、ようやく統制を取り戻した。
しかし敵は追ってきた。
止まらなかった。
撤退しながら、ライアスは振り返った。
敵の数は、減っていなかった。
いくら倒しても、後方から押し寄せてくる。
(これは、数で対処できる相手ではない)
◇
作戦本部に戻った。
アルベルトが待っていた。
「状況は見ていた」
アルベルトが言った。
「あれは、どういう状態だ」
「わからない」
ライアスは答えた。
「ただ、通常の方法では止まらない。数で押しても、じきに兵が崩れる」
「では、どうする」
ライアスはアルベルトを見た。
「殿下に、撤退していただきたい」
アルベルトが、少し止まった。
「撤退とは」
「安全圏まで退いてください。私がここで時間を稼ぎます」
「却下だ」
即座だった。
「ライアス、お前一人で何ができる」
「広範囲に及ぶ魔法があります」
ライアスは続けた。
「ただし、周囲に味方がいては使えない。一人でなければ、この手は使えない」
「それは」
「雷と氷を、最大出力で解放します。範囲が広くなりすぎる。味方を巻き込む」
アルベルトが黙った。
ライアスは続けた。
「殿下を失えば、王国が揺らぎます。私の代わりはいる。殿下の代わりはいない」
「お前の代わりがいるなどと、誰が決めた」
「殿下」
「却下だと言っている」
エリナが前に出た。
拳を、強く握りしめていた。
「殿下」
エリナは声を絞り出すように言った。
「ここで迷えば、閣下も殿下も失います。早急な判断が必要です」
アルベルトがエリナを見た。
エリナの目が、真っ直ぐアルベルトを見ていた。
揺れていなかった。
アルベルトが目を閉じた。
数秒だった。
長い数秒だった。
目を開けた。
「……わかった」
その声が、初めて、わずかに揺れていた。
◇
撤退の準備が始まった。
ライアスは兵たちに向かった。
「聞け」
兵たちが振り向いた。
「アルベルト殿下の護衛を頼む」
ライアスは言った。
「私はここに残る。殿下を安全圏まで届けることだけを考えてくれ」
一人の兵が前に出た。
「閣下、私も残ります」
別の兵も続いた。
「私も共に」
「我らも残ります」
次々と声が上がった。
ライアスは、その兵たちを見た。
「お前たちの気持ちは受け取った」
静かに言った。
「しかし私がここで使う魔法は、広範囲に及ぶ。お前たちが近くにいれば、巻き込む可能性がある」
兵たちが、止まった。
「殿下を頼む。それが、今お前たちにしかできないことだ」
兵たちが、唇を噛み締めた。
それでも動かない者がいた。
ライアスはその兵と目を合わせた。
「頼む」
兵が、深く頭を下げた。
「……ご武運を」
それだけ言って、アルベルトの護衛に向かった。
他の兵たちも続いた。
エリナがライアスの前に立った。
いつもの凛とした顔だった。
しかし声が、わずかに固かった。
「閣下」
「頼んだ」
「殿下を安全圏まで届けたら、必ず戻ります」
ライアスはエリナを見た。
「戻るな」
「閣下」
「殿下についていろ。それがお前の役目だ」
エリナが、少し止まった。
何かを言いかけた。
しかし言わなかった。
「……ご武運を」
エリナが踵を返した。
歩き出した。
後ろを振り返りたいのをこらえているのが、その背中から伝わってきた。
アルベルトが、最後にライアスを見た。
一瞬だった。
言葉はなかった。
しかし、それで十分だった。
アルベルトが前を向いた。
隊が動いた。
足音が遠ざかっていった。
やがて、静かになった。
◇
ライアスは一人になった。
遠くから、砂煙が迫っていた。
叫び声とも呻き声ともつかない音が、少しずつ近くなっていた。
風が、砂埃を運んできた。
ライアスは外套の胸に、片手をそっと当てた。
服の上から、小さな膨らみを感じた。
(帰ると、約束した)
ノエルの顔が、浮かんだ。
ライアスは手を下ろした。
ハルバードを構えた。
砂煙が、迫っていた。




