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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第二章 隣国との戦争

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撤退戦(ライアス視点)

【ライアス視点】


 迷っている時間はなかった。


「エリナ」


「はい」


「兵を集めろ。直接出る」


 エリナが動いた。

 素早かった。

 副隊長として、迷いなく動いた。


 前線に出た瞬間、その惨状が目に飛び込んできた。


 倒れた兵が、あちこちに散らばっていた。

 立っている兵は、後退しながら必死に剣を振るっていた。

 そしてその向こうから、異常な敵兵が押し寄せていた。


 腕のない者が走っていた。

 足を引きずりながら這い進む者がいた。

 それでも止まらなかった。

 止まらずに、こちらへ向かってきていた。


 ライアスはハルバードを構えた。

 踏み込んだ。


 一合目。

 敵の剣を弾き、柄で顎を砕いた。

 倒れた。

 しかし起き上がろうとした。

 顎が砕けた状態で、起き上がろうとした。


(頭部を潰さなければ止まらない)


 素早く判断した。

 ハルバードの石突きで頭部を抑えた。

 止まった。


 次。

 また次。

 また次。


 ライアスには、対処できた。

 一体一体、頭部を狙えば止められる。


 しかし。


(兵には無理だ)


 ちらりと横を見た。

 自軍の兵が剣を振るっていた。

 腕を斬った。

 胴を斬った。

 足を斬った。


 それでも敵が止まらない光景に、兵の動きが乱れ始めていた。

 恐慌状態の兵に、頭部だけを正確に狙え、などという指示は通らない。

 通常の訓練で叩き込まれた型は、目の前の状況には通用しなかった。


 さらに。


(数が多すぎる)


 ライアスが対処できる速度より、押し寄せてくる速度の方が速かった。

 一体を仕留める間に、三体が迫ってくる。


 ライアスは四属性魔術を組み合わせながら敵を捌いた。


 風で一群を押し返した。

 十数体がよろめいた。

 しかし倒れなかった。

 立て直して、また来た。


 土で足元を固め、動きを制限した。

 数体が膝をついた。

 しかし這いずって前進した。


 炎で経路を塞いだ。

 一時的に流れが変わった。

 しかし別の方向から回り込んできた。


 水で視界を遮った。

 動きが乱れた。

 しかし声を頼りに、また向かってきた。


(効いている。しかし追いつかない)


 一手打てば、別の方向から来る。

 また一手打てば、また別の方向から来る。

 無尽蔵だった。


(雷と氷は、まだ使わない)


 切り札は、最後まで取っておく。

 しかし状況は、刻々と悪化していた。



 恐怖が、伝播していた。


 目の前で腕を断ち切られた敵兵が起き上がるのを見た兵から、崩れ始めた。

 剣を持つ手が震えている兵がいた。

 後退の速度が上がっていた。


 一人が崩れると、隣の兵に伝わった。

 隣から、また隣へ。

 訓練では克服できない類の恐怖が、静かに、しかし確実に広がっていた。


「閣下」


 エリナが来た。

 その顔は冷静だった。

 しかし目が、状況を正確に把握していた。


「わかっている」


「このままでは」


「わかっている」


 ライアスは判断した。


「全隊、撤退」


 エリナが即座に動いた。


「全隊、撤退! 作戦本部まで退け!」


 撤退が始まった。

 崩れかけていた隊が、ようやく統制を取り戻した。

 しかし敵は追ってきた。

 止まらなかった。


 撤退しながら、ライアスは振り返った。

 敵の数は、減っていなかった。

 いくら倒しても、後方から押し寄せてくる。


(これは、数で対処できる相手ではない)



 作戦本部に戻った。

 アルベルトが待っていた。


「状況は見ていた」

 アルベルトが言った。

「あれは、どういう状態だ」


「わからない」

 ライアスは答えた。

「ただ、通常の方法では止まらない。数で押しても、じきに兵が崩れる」


「では、どうする」


 ライアスはアルベルトを見た。


「殿下に、撤退していただきたい」


 アルベルトが、少し止まった。


「撤退とは」


「安全圏まで退いてください。私がここで時間を稼ぎます」


「却下だ」


 即座だった。


「ライアス、お前一人で何ができる」


「広範囲に及ぶ魔法があります」

 ライアスは続けた。

「ただし、周囲に味方がいては使えない。一人でなければ、この手は使えない」


「それは」


「雷と氷を、最大出力で解放します。範囲が広くなりすぎる。味方を巻き込む」


 アルベルトが黙った。

 ライアスは続けた。


「殿下を失えば、王国が揺らぎます。私の代わりはいる。殿下の代わりはいない」


「お前の代わりがいるなどと、誰が決めた」


「殿下」


「却下だと言っている」


 エリナが前に出た。

 拳を、強く握りしめていた。


「殿下」

 エリナは声を絞り出すように言った。

「ここで迷えば、閣下も殿下も失います。早急な判断が必要です」


 アルベルトがエリナを見た。

 エリナの目が、真っ直ぐアルベルトを見ていた。

 揺れていなかった。


 アルベルトが目を閉じた。

 数秒だった。

 長い数秒だった。

 目を開けた。


「……わかった」


 その声が、初めて、わずかに揺れていた。



 撤退の準備が始まった。


 ライアスは兵たちに向かった。


「聞け」


 兵たちが振り向いた。


「アルベルト殿下の護衛を頼む」

 ライアスは言った。

「私はここに残る。殿下を安全圏まで届けることだけを考えてくれ」


 一人の兵が前に出た。


「閣下、私も残ります」


 別の兵も続いた。


「私も共に」


「我らも残ります」


 次々と声が上がった。

 ライアスは、その兵たちを見た。


「お前たちの気持ちは受け取った」


 静かに言った。


「しかし私がここで使う魔法は、広範囲に及ぶ。お前たちが近くにいれば、巻き込む可能性がある」


 兵たちが、止まった。


「殿下を頼む。それが、今お前たちにしかできないことだ」


 兵たちが、唇を噛み締めた。

 それでも動かない者がいた。

 ライアスはその兵と目を合わせた。


「頼む」


 兵が、深く頭を下げた。


「……ご武運を」


 それだけ言って、アルベルトの護衛に向かった。

 他の兵たちも続いた。


 エリナがライアスの前に立った。

 いつもの凛とした顔だった。

 しかし声が、わずかに固かった。


「閣下」


「頼んだ」


「殿下を安全圏まで届けたら、必ず戻ります」


 ライアスはエリナを見た。


「戻るな」


「閣下」


「殿下についていろ。それがお前の役目だ」


 エリナが、少し止まった。

 何かを言いかけた。

 しかし言わなかった。


「……ご武運を」


 エリナが踵を返した。

 歩き出した。

 後ろを振り返りたいのをこらえているのが、その背中から伝わってきた。


 アルベルトが、最後にライアスを見た。

 一瞬だった。

 言葉はなかった。

 しかし、それで十分だった。


 アルベルトが前を向いた。

 隊が動いた。

 足音が遠ざかっていった。

 やがて、静かになった。



 ライアスは一人になった。


 遠くから、砂煙が迫っていた。

 叫び声とも呻き声ともつかない音が、少しずつ近くなっていた。

 風が、砂埃を運んできた。


 ライアスは外套の胸に、片手をそっと当てた。

 服の上から、小さな膨らみを感じた。


(帰ると、約束した)


 ノエルの顔が、浮かんだ。


 ライアスは手を下ろした。

 ハルバードを構えた。

 砂煙が、迫っていた。

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