異変の始まり(ライアス視点)
【ライアス視点】
戦場は、最初は想定通りに動いていた。
作戦本部に地図を広げ、アルベルトと向かい合った。
「東の隊を前進させて側面を取る」
アルベルトが言った。
「中央はあえて抑える程度にとどめ、相手に突破の幻想を見せる」
「リスクは」
「中央が薄くなる。ただし東が機能すれば、相手は側面への対処に追われて中央どころではなくなる」
ライアスは地図を見た。
「東に増援を一隊回す。機動力のある部隊を選べ」
「それで行こう」
指示が飛んだ。
各隊が動いた。
東の隊が側面を取った。
隣国の陣形が崩れ始めた。
中央への圧力が増した。
報告が定期的に入った。
東、前進継続。
南、押さえ込み成功。
中央、安定。
アルベルトが地図に視線を走らせながら言った。
「予定より早い。このまま押せる」
「隣国の練度が低い」
ライアスは答えた。
「ただし、油断はするな」
「言われなくてもわかっている」
アルベルトが小さく笑った。
ライアスは何も言わなかった。
戦況は順調だった。
午前中は、ずっと順調だった。
◇
異変の報告が入ったのは、午後に差し掛かった頃だった。
伝令兵が駆け込んできた。
ライアスはその男を知っていた。
古参の、物静かな男だった。
どんな戦況でも、感情を乱さずに報告を届けてきた男だった。
その男の顔が、蒼白だった。
「報告します」
声が震えていた。
「話せ」
「東の前線から報告です」
男は続けた。
「敵兵に、異常な動きが出ております」
「異常とは」
「斬りつけても、倒れません」
作戦本部が静まった。
男は続けた。
「腕を切っても攻撃を止めません。足を切っても這いずり回って噛み付いてきます。痛みを感じていないようで、通常の傷では止まらない。それが大量に、前線に押し寄せてきております」
アルベルトが静かに口を開いた。
「負傷した兵が、興奮状態で動いているということはないか」
「はい」
男は答えた。
「腕を完全に断ち切られた状態で、なお這いずって噛み付いてくる者を、複数の兵が目撃しております。興奮状態では説明がつきません」
ライアスは地図を見た。
東の前線の位置を確認した。
(これは、通常の戦ではない)
アルベルトとライアスの目が合った。
言葉はなかった。
しかし同じものを見ていた。
◇
その後、報告が続いた。
最初は定期的だった。
それが次第に変わった。
東から。南から。中央から。
間隔が短くなった。
内容が断片的になった。
「矢を何本刺しても倒れない」
「兵が恐慌状態に陥っています」
「前線が持ちません」
「東の隊、後退を始めました」
アルベルトが地図に駒を動かしながら言った。
「ライアス、東が崩れると南が孤立する」
「わかっている」
「東に増援を送るか」
「送っても同じだ」
ライアスは答えた。
「あの状態の敵に数で対応しても、恐慌が広がるだけだ」
アルベルトが少し止まった。
「では」
「兵の恐怖が伝播している。前線が崩れるのは時間の問題だ」
またしばらく、沈黙があった。
次の伝令が飛び込んできた。
「南の前線から報告です。異常な敵兵が側面から浸透しています。前線を維持できません、撤退の許可を」
その次も来た。
「中央の兵が動揺しています。異常な敵兵を目撃した兵から、恐慌が広がっています」
その次も来た。
「東に向かった増援部隊、異常な敵兵を目撃し崩れました。東の隊、完全に崩壊しました」
アルベルトが地図を見た。
「東と南が抜けた。中央が持つかどうか」
「持たない」
ライアスは言った。
「中央の兵もすでに動揺している。前線全体が崩れる」
「ライアス」
「わかっている」
ライアスは外に出た。
アルベルトが続いた。
◇
外に出た瞬間、空気が変わった。
遠くで、砂煙が上がっていた。
東から。南から。
複数の方向から、砂煙が上がっていた。
そしてその砂煙の中から、声が聞こえた。
叫び声とも呻き声ともつかない、奇妙な声だった。
人の声のはずだった。
しかしどこか、人ではないものを感じさせた。
その声が、こちらへ向かって大きくなっていた。
次の伝令が駆け込んできた。
「報告します」
男の声が裏返っていた。
「東と南の前線が完全に崩壊しました。異常な敵兵が前線を突破し、そのまま後方へ向かって進んでいます。作戦本部の方向に、大量の敵兵が迫っております」
アルベルトが地図を見た。
少し、止まった。
(撤退した味方を追わない)
(側面を取りに動かない)
(ただ、前に進んでいる)
「……まさか」
アルベルトが静かに言った。
「命令を受けていないのか、あれは」
ライアスは砂煙を見た。
じわじわと近づいていた。
砂煙の中の声が、少しずつ大きくなっていた。
エリナが本部から出てきた。
砂煙を見た。
一瞬だけ、その目が揺れた。
しかしすぐに、前を向いた。
「閣下」
「わかっている」
ライアスはアルベルトを見た。
アルベルトも砂煙を見ていた。
策士の目が、静かに状況を計算していた。
しかしその目の奥に、初めて見るものがあった。
(アルベルトも、この状況は想定していなかった)
ライアスは前を向いた。
砂煙が、迫っていた。
声が、大きくなっていた。
遠くから見える光景は、ライアスがこれまで戦場で見てきたどの光景とも、違っていた。




