夕焼けの空の下で(ライアス視点)
【ライアス視点】
ノエルが後ろからついてきた。
廊下を歩きながら、足音が聞こえた。
いつも通りの、小気味よい足音だった。
ライアスは前を向いたまま歩いた。
どこへ向かっているか、ノエルには言っていなかった。
聞いてこなかった。
(この娘は、いつもそうだ)
余計なことを聞かない。
ついてこいと言えば、ついてくる。
信頼しているのか、それとも単に好奇心が勝っているのか、どちらかはわからなかった。
屋敷の裏手に向かった。
使用人もあまり通らない、静かな通路だった。
突き当たりに、古い木の扉があった。
ライアスは扉を開けた。
石段があった。
緩やかな坂が続いていた。
二人で上った。
ノエルは何も言わなかった。
石段を上りきったところで、視界が開けた。
◇
高台だった。
公都全体が、眼下に広がっていた。
夕暮れの光が、街並みを橙色に染めていた。
遠くに川が見えた。
その向こうに、山の稜線が続いていた。
空は広かった。
雲が、夕日を受けてゆっくりと色を変えていた。
「……っ」
ノエルが、小さく声を上げた。
声にならない声だった。
ライアスはノエルを見た。
ノエルは眼下の景色を見ていた。
目が、大きく開いていた。
口が、少し開いていた。
圧倒されている顔だった。
景色に、完全に飲み込まれている顔だった。
ライアスは前を向いた。
自分にとっては、いつもの景色だった。
子供の頃から、何度も見てきた景色だった。
(父が、ここへ連れてきてくれた)
滅多に姿を見せない父が、珍しく時間を作って、ここへ連れて来た。
何も言わなかった。
ただ並んで、この景色を見ていた。
それだけだった。
父が逝ってからも、ライアスは時々ここへ来た。
自分の立場を、言い聞かせるために。
公爵とは何か。
この街を守るとはどういうことか。
それを、この景色を見ながら、一人で考えてきた。
誰かをここへ連れてきたのは、今日が初めてだった。
(なぜ、ここへ連れてきたのか)
自分でも、うまく答えられなかった。
ただ、ここで話したかった。
それだけだった。
「……綺麗ですね」
ノエルが、静かに言った。
「ずっと見ていられます」
ライアスは少し、ノエルを見た。
「そうか」
「閣下はよくここへ来るんですか」
「……たまに来る」
「一人で?」
「そうだ」
「素敵な場所ですね」
それだけ言って、ノエルが、また景色を見た。
◇
「一つ、話がある」
「はい」
「まもなく、戦争が始まる可能性がある」
ノエルが、少し止まった。
景色を見ていた目が、こちらを向いた。
「……東の国境付近で、動きがある。早ければ三ヶ月以内だ」
「そうですか」
ノエルの声は、静かだった。
取り乱してはいなかった。
「私も出兵することになる」
「……はい」
「その間の領地を、グラントと二人で頼みたい」
ノエルが、少し頷いた。
「かしこまりました」
短い返事だった。
しかし揺れていなかった。
(やはりこの娘は、こういうときに崩れない)
ライアスはそれを確認してから、ノエルの目を見て続けた。
「君に来てもらってから、公爵家は変わった」
ノエルが、少し目を動かした。
「働く者たちの顔が明るくなった。屋敷の空気が変わった」
思い出すのは、以前の公爵家だった。
使用人たちが、淡々と仕事をこなしていた。
不満があっても言えない。
改善を求めることもできない。
ただ毎日が、粛々と過ぎていくだけだった。
今は違う。
昔から働く使用人や未亡人たちが、笑顔で働いていた。
子供たちが、声を上げて遊んでいた。
「書類の処理も、領地管理の把握も、以前より格段に見えるようになった」
以前は、自分が何をしているのかが、ぼんやりとしていた。
書類をこなす。指示を出す。
しかし何がどう動いて、誰に届いているのかが、見えていなかった。
今は違う。
何が問題で、どこが改善されて、誰の生活がどう変わったか。
それが、はっきりと見えた。
「グラントも、今まで見たことのない顔をするようになった」
あの老家令が、口元を緩める場面を、ライアスは何度か目にしていた。
五十年の奉公人が、珍しい表情を見せるようになった。
それだけで、何かが変わったことがわかった。
「公爵家の外も、変わった」
孤児院の光景が浮かんだ。
レイが泣いていた夜が浮かんだ。
「あの夜、孤児院で、全員が揃った」
ライアスは静かに続けた。
「あそこにいた全員が、それぞれに何かを抱えていた。それが少し、解けた夜だった」
ノエルは黙って聞いていた。
「全部、君のおかげだ」
ライアスは、夕焼けの空を見ながら言った。
「ありがとう、ノエル」
言葉が、出た。
そのまま、続けた。
「今まで私は、戦場へ行くことを、領地管理から逃げる口実にしていた」
ノエルが、少し止まった気配があった。
「しかし今は違う。領地のことを考えて、王国を守り、領民を守るために、戦場へ行く。そして帰ってきたとき、グラントと君でさらに良くなった領地を見るのが楽しみだ」
夕日が、少し傾いた。
橙色の光が、公都の街並みをさらに深く染めていた。
「必ず帰ってくる。それまで、よろしく頼む、ノエル」
少し間があった。
「は」
ノエルの声がした。
「は、はひ」
呂律が、回っていなかった。
ライアスは少し、ノエルを見た。
ノエルは、夕焼けの空へ顔を向けたまま、固まっていた。
耳まで赤かった。
口が、微妙に開いたまま止まっていた。
(また、あの顔だ)
しかし今日のそれは、これまで見たどの顔とも少し違った。
何かが、溢れそうになっているような顔だった。
ライアスは前を向いた。
胸の中で、何かが静かに動いていた。
心臓が、いつもより少し速く打っていた。
それが何故かを、今夜は考えないでおこうとした。
しかし、できなかった。




