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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領 改革編

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増え続けていく観察日記(ノエル視点)

【ノエル視点】


 自室の扉を閉めた。

 鍵をかけた。

 深呼吸を、三回した。


 そして。


(ぬわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!)


 声は出なかった。

 出なかったが。


 ノエルは両手を顔に当てたまま、床の上をごろごろと転がった。

 転がった。

 転がった。

 転がり続けた。


(ノエル!!!!!!)

(ノエルって呼んだ!!!!!!!!!!)

(閣下が!!!!!!!!)

(私を!!!!!!!!!!!!!!!!)

(ノエルって!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)


 床をばたばたした。

 天井を見上げた。

 また転がった。


(落ち着け。落ち着くんだ。分析しろ。感情より先に分析しろ。前世の経理魂を使え)


 ノエルは深呼吸をした。

 もう一度した。

 立ち上がった。

 机に向かった。

 羽ペンを手に取った。


(書く。書かないと死ぬ。いや書いても死ぬかもしれないが、書かずに死ぬよりは書いて死ぬ方がマシだ)


 観察日誌を開いた。


 しかし書き始める前に、ノエルは少し止まった。

 窓の外を見た。


 夜の公都に、灯りが点在していた。

 高台から見た夕焼けが、まだ目の奥に残っていた。


(ライアス様)


 思い出した。

 初めて会った日のことを。


 玄関ホールの階段の上に立っていた、銀髪の人。


「思ったより幼いな」


 そう言われた。


(あのセリフ知ってた。ゲームで見た。でも生で聞けるとは思わなかった。あの日の私、正気だった。偉かった)


 次に思い出したのは、鼻血の話だ。

 心配そうな顔で近づいてきた閣下を至近距離で見て、鼻血が出た。


(あの日の観察日誌に書いた。「尊い(心配顔・至近距離・破壊力・特大)。本日、推しの心配顔で鼻血が出た。これは記念すべき日である」。今でも殿堂入りの記録だ)


 屋敷改革があった。

 マーガさんが後進育成役になった。

 ヘルガが退職した。

 ダンカンが横領をしていて、後で私を襲撃しようとした。


(あの時、閣下が助けに来てくれた)


 宿坊での一件もあった。

 ルーベンの件が発覚して、ノエルは拉致された。

 あの時も、閣下が来た。


(いつも、来てくれた)


 来てくれるたびに、観察日誌が増えた。

 ページが増えた。

 別紙が増えた。


 スラムにも通った。

 レイに何度も「どっか行け」と言われた。

 それでも行き続けた。

 約束したから、という理由で。


 しかし本当は。


(本当は)


 この場所で、この仕事で、できることをやり続けたかった。

 ライアス様の隣で。

 推しのために、ではなく。


 この人のそばで、この人が守りたいものを一緒に守りたかった。


(いつからそう思うようになったんだろう)


 孤児院が完成した夜のことを思い出した。

 レイが泣いていた。

 子供たちが集まっていた。

 カルロスさんが目を押さえていた。

 イルマさんがエプロンで顔を拭っていた。

 レントさんが静かに笑っていた。


 あの光景が、今も胸の中にある。


(全部、閣下が決断してくれたから始まった)


 未亡人の雇用も。

 子供の預かり部屋も。

 障害を負った兵士たちの再雇用も。

 孤児院も。


 全部、ライアス様が「進めろ」と言ってくれたから、動き出した。

 私が提案しただけで、動かしたのはライアス様だ。


(でも今夜、閣下はこう言った)


「全部、君のおかげだ」


(ありがとう、ノエル)


 脳内再生が、また始まった。

 何度目かもわからない。

 再生するたびに、体温が一度上がる気がした。

 このままでは蒸発する。


(落ち着け)


 落ち着けない。


(落ち着くんだ)


 落ち着けない。


(前世込み四十年超の社会人経験はどこへ行った)


 高台に置いてきた。

 高台から夕焼けの空に向かって盛大に飛んでいった。


(私はずっと、推しとして見ていた)


 ゲームのライアス様が好きだった。

 ゲームの中の、完璧なスペックの、完璧な横顔の、完璧な公爵様が好きだった。


 でも今、目の前にいるライアス様は。


 体調を心配して近づいてきて、部下に鼻血を出された経験のある人だ。

 物置小屋の陰で天に向かって両手を掲げている部下を窓から目撃したことのある人だ。

 スラムに何度もついてきて、子供たちと向き合った人だ。

 少女を背負って雨の中を走った人だ。

 病室で小さな手を握って、オロオロしていた人だ。

 孤児院のパーティで、少し離れたところから全部を静かに見ていた人だ。


(ゲームには、そんな場面、一つもなかった)


 ゲームのスチルには描かれていなかった場面が、現実には山ほどあった。

 そのどれもが、観察日誌の別紙に刻まれていた。


(私はいつの間に)


 ノエルは羽ペンを置いた。

 両手で、顔を覆った。


(いつの間に、推しとしての崇拝では説明のつかないものが、こんなに積み上がっていたんだ)


 胸の中が、静かに騒いでいた。

 うるさかった。

 しかし不快ではなかった。

 むしろ、温かかった。


(これは何だ)


 答えは、出しかけて、止めた。

 今夜は出さなくていい気がした。


 答えを出すより先に、書かなければならないことがある。


 ノエルは羽ペンを取り直した。

 観察日誌を開いた。


 そして、書いた。


「本日。閣下に高台に連れていっていただいた。夕焼けが、綺麗だった。閣下が感謝を伝えてくださった。そして、名前で呼んでくださった。」


 一行空けて、続けた。


「ノエル、と。」


 また一行空けた。


「閣下は気づいていないようだった。それがまた、尊かった。尊いという言葉が、今日ほど足りないと思った日はない。別紙を用意する。今夜中に書ききれるかわからないが、書く。これは義務だからだ。」


 さらに続けた。


「ただ、今日気づいたことがある。私はいつから、推しとしての崇拝では説明のつかない何かを感じていたのだろう。病室で手を握っていた閣下を見た夜から? スラムで子供たちと向き合う閣下を見た日から? それとも、もっと前から?」


「わからない。今夜は答えを出さない。ただ記録しておく。」


「閣下は、必ず帰ってくると言った。その言葉を、私は信じる。信じると決めた。だから私は、閣下が帰ってくる場所を、グラントさんと一緒に守る。それだけだ。」


 最後に一行、書いた。


「本日の尊さ:計測不能。殿堂どころか、新たな次元に突入した。別紙は夜明けまでかかる見込みである。」


 羽ペンを置いた。

 ノエルは少し、窓の外を見た。


 夜の公都は静かだった。

 どこかで、小さな灯りが揺れていた。


(ライアス様)


 心の中で、ただそれだけを思った。

 返事はなかった。

 当たり前だ。


 しかしノエルは少し、笑った。


 この笑い方が、推し活の笑い方とは少し違うことに、本人はまだ気づいていなかった。

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