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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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振り払えない光景(ライアス視点)

【ライアス視点】


 執務室に一人でいた。

 書類を処理しようとしていた。


 しかし羽ペンが、動かなかった。


 昨夜の孤児院の光景が、頭から離れなかった。


 レイが泣いた場面。

 子供たちが集まってきた場面。

 カルロスが目を押さえていた場面。

 レントが静かに笑っていた場面。


(あれは、良いものを見た)


 そう思いながら、しかし思考が、別の方向に流れていった。


 ノエルが、泣きながら笑っていた。


(……また、あの顔だ)


 振り払おうとした。

 今やるべきことがある。書類がある。


 羽ペンを動かした。

 三文字書いたところで、また止まった。


 泣きながら笑っていた。


(違う、今は関係ない)


 もう一度振り払った。

 書類の内容に集中しようとした。


 そうしたら今度は、全く別の場面が浮かんできた。


 廊下で壁に張り付いて天を仰いでいた場面。


(なぜそれが出てくる)


 次に、拘束されていた宿坊から出てきたとき、ライアスを見て一瞬固まった顔。


(なぜそれが)


 次に、提案書を持ってきて「数字だけでは動かなかったからです」と静かに言った顔。


(今は関係ない)


 次に、スラムの路地でレイに話しかけていた背中。


(それも関係ない)


 次に、昨夜の、泣きながら笑っていた顔。


(……戻ってきた)


 ライアスは羽ペンを置いた。

 頭を振った。


 ノエルを追い出そうとした。

 振り払おうとすればするほど、別の場面が出てきた。


 ノートに何かを書きながら廊下を歩いていた後ろ姿。

 グラントに「よくやった」と言われてハンカチで何かを抑えていた場面。

 石段に座り込んだライアスの隣で、「一緒に解決していきましょう」と言ったときの声。


(なぜこんなに)


 頭の中が、様々な場面のノエルで埋まっていった。


 廊下のノエル。

 執務室のノエル。

 スラムのノエル。

 宿坊のノエル。

 昨夜の孤児院のノエル。


 全部が、一度に押し寄せてきた。


(出て行け)


 心の中で叫んだ。

 出て行かなかった。


(頼む、出て行ってくれ)


 出て行かなかった。


(なぜこんなことに……!)


 ライアスは勢いよく立ち上がった。

 椅子が後ろに倒れた。


 がたん、と大きな音がした。


 扉が開いた。


「閣下」


 グラントだった。


 ライアスは、荒い息のまま、グラントを見た。


「……何でもない」


「何でもないようには、少し見えないのですが」

 グラントが静かに言った。

「椅子が倒れています」


「……倒れた」


「何かございましたか」


「何でもない」


 グラントが、ライアスを見た。

 何も言わなかった。


 ただ、椅子を静かに起こした。


「お茶をお持ちします」


「……頼む」


 グラントが茶を用意した。

 ライアスは椅子に座り直した。


 深く息を吸った。

 吐いた。

 もう一度吸った。


 少し、落ち着いてきた。


 グラントが茶をテーブルに置いた。

 ライアスが茶碗を取った。


 一口、飲もうとした。


「ベルナード嬢ですが」


 グラントが言った。


 ライアスは、口に含んだ茶を盛大に咳き込んだ。


「閣下」


「……何でもない」


「お背中を」


「いい」

 ライアスは手で制した。

「何でもない」


 グラントは特に気にした様子もなく、続けた。


「本日のベルナード嬢の予定ですが、午前中は孤児院の事務整理、午後は未亡人の皆さんの業務確認を行うとのことです。また、カルロス様の次の授業の日程についても調整中とのことです」


「……そうか」


「孤児院の運営も、徐々に軌道に乗ってきているようです。先日ノエル様が」


「……ん」


「何か」


「……いや、続けろ」


 グラントは何事もなかったように続けた。


「先日ベルナード嬢が提出してくださった今後三ヶ月の運営計画ですが、私が確認したところ、非常によく整理されていました。閣下のご確認もいただければと思います」


「……わかった」


「以上でございます」


 グラントが一礼して、退室しようとした。


「グラント」


「はい」


「……先ほどの件は、見なかったことにしろ」


 グラントが少し止まった。


「先ほどの件、とは」


「椅子が倒れた件だ」


「はあ」

 グラントは静かに言った。

「かしこまりました」


 扉が閉まった。



 廊下を歩きながら、グラントは少し、先ほどのことを思い返した。


 茶を飲もうとした瞬間にベルナード嬢の名前を出したら、盛大に咳き込んだ閣下。

 椅子が倒れるほど唐突に立ち上がっていた閣下。

 執務室に一人でいたはずなのに、荒い息をしていた閣下。


(……ふむ)


 ただ静かに、先ほどの反応を確認した。


 ベルナード嬢の名前を出した瞬間の、あの咳き込み方。

 わざと「ノエル様」と呼んでみたときの、あの「……ん」という反応。


 どちらも、予想通りだった。

 いや、予想以上だったかもしれない。


(閣下がここまで変化されるとは)


 閣下に変化をもたらしている人物が、誰かは、もうわかっていた。


(ベルナード嬢は、公爵家の事務として雇い入れた令嬢だ)


 グラントはそのまま歩きながら、ベルナード家について頭の中で確認した。


 ベルナード伯爵家。

 現在は財政面も多少落ち着き、そして家格としても問題ない。

 令嬢本人も、優秀だ。

 この数ヶ月で、それは十分に証明されている。


(家格として、問題はない)


 グラントは少し、息をついた。


 まだ何も決まっていない。

 閣下が何を感じているかも、言葉にはなっていない。


 ただ、閣下に変化をもたらしている人物が、問題のない立場の方であることは、確かだった。


(まあ、それだけのことだ)


 グラントは廊下を歩き続けた。

 しかし、珍しく、口元が少し緩んでいた。



 翌朝、執務室に向かう廊下で、ライアスはノエルとすれ違った。


 ノエルが書類を抱えて歩いてきた。

 向こうも気づいた。


「閣下、おはようございます」


「……ああ」


(落ち着け。いつも通りに返事をしろ)


「今日は孤児院の事務整理の予定です。午後は未亡人の皆さんの業務確認を」


「わかった」


(普通に返事ができた。問題ない)


「何かあればご報告します」


「……そうしろ」


(いつも通りだ。問題ない)


 ノエルが一礼して、通り過ぎた。

 その背中が、廊下の向こうに消えた。


 ライアスは少し、その場に立っていた。


(問題ない)


 問題は、あった。


 挨拶をされた瞬間に、昨夜の泣きながら笑っていた顔が浮かんだ。

 今もまだ、浮かんでいた。


(やはり、出て行かない)


 ライアスは静かに息をついて、執務室へ向かった。


 今日も、長い一日になりそうだった。


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