鼓動の正体(ライアス視点)
【ライアス視点】
ノエルから報告を受けたのは、午前中のことだった。
「今日、レイが荷物を持って孤児院に来ると伝えてきました」
ライアスは少し、止まった。
(ようやく、か)
「全員が揃う」
「はい」ノエルが言った。
「今夜、ささやかですがパーティをしようと思っています。カルロスさん夫妻とレントさん、孤児院の皆で」
「私も行く」
ノエルが少し、止まった。
「よろしいんですか」
「行くと言っている」
ノエルが頷くと、そこでグラントが静かに言った。
「ベルナード嬢、スラムについては……私も以前から認識はしておりました。ただ、具体的に何もできておりませんでした。今回、こうして一つの形になっていることを、素直に喜んでいます」
「ありがとうございます」ノエルは続けた。
「ただ、解決ではないと思っています。ここからがスタートです」
グラントが少し間を置いた。
「……そうですな」
ライアスは黙っていた。
(ここからがスタートだ)
ノエルの言葉が、静かに胸に落ちた。
制度を作り、仕組みを整えれば良いという訳ではない。
未亡人たちのことを思った。
障害を負った兵士たちのことを思った。
視察で会った女性の、「税も上がったまま、今も戻っていないので」という言葉を思った。
カルロスの「字も計算も、俺たちの生活の助けにはならなかった」という言葉を思った。
あの言葉たちは、制度だけでは届かない場所にあった。
(整えることと、機能することは、違う)
ライアスは少し、グラントを見た。
「公爵邸で働いている未亡人たちは、今どうしている」
「はい」グラントは静かに言った。
「皆さん、積極的に仕事に取り組んでおられます。元々お持ちの能力もあり、各部署でよく動いていただいています。やる気も十分にあります」
「問題はないか」
「当初は、育児を他の者に任せることへの罪悪感がある方もいらっしゃいました。ただ、今ではだいぶ落ち着いてきているようです。公爵邸で働くことで生活の基盤が安定してきていることも、安心につながっているのだと思います」
ライアスは少し考えた。
報告は聞いていた。しかし直接見に行ったことは、まだなかった。
「今から、見に行く」
◇
最初に向かったのは、縫製の部屋だった。
扉を開けると、三人の女性が作業台に向かっていた。
全員が、手を動かしながら話していた。
ライアスが入ってきたことに気づいて、一斉に立ち上がった。
「閣下」
「続けろ」ライアスは言った。
「見に来ただけだ」
女性たちが、少し緊張しながらも、また作業に戻った。
ライアスは少し離れたところから、その様子を見た。
針を動かす手が、慣れていた。話しながら、しかし手は止まらなかった。
一人が、視察のときに話を聞いた女性だった。
あのときは、疲れていた。目の下に隈があって、髪が乱れていた。
今日は、違った。
表情が、明るかった。笑いながら、隣の女性と話していた。
(同じ人間か)
ライアスは、少し止まった。
その変化が、当然のことのように見えて、しかし当然ではないと気づいた。
食事があって、仕事があって、子供の預け先があって。
それだけで、人の顔はこれほど変わるのか。
◇
次に備品管理の倉庫に向かった。
二人の女性が、棚の前で記録をつけていた。
一人がノエルから教わったという記録の形式で、丁寧に数字を書き込んでいた。
「問題はないか」ライアスが聞いた。
「はい、閣下。最初は数字の書き方に慣れるまで少し時間がかかりましたが、今は大丈夫です」
「ベルナード嬢に教わったのか」
「はい。丁寧に教えていただきました。字が読めなくても、この方式なら私でもできると言っていただいて」
女性が、少し笑った。
その笑い方が、自然だった。
(ベルナード嬢が、ここにもいる)
直接来ていなくても、あの娘の仕事がここに残っていた。
◇
そのまま歩いていると、子供の声が聞こえた。
子供の預かり部屋だった。
ライアスは少し止まった。
(これが、ベルナード嬢が言っていた場所か)
扉の前に立って、中を見た。
日当たりの良い部屋だった。
小さい子が二人、敷物の上で積み木で遊んでいた。
別の子が、クラリスに絵本を読んでもらっていた。
一人が転んで泣き始めた。
モアナがすぐに駆け寄って、抱き上げた。
「痛かったね、大丈夫よ」
子供の泣き声が、少し和らいだ。
ミルダが部屋全体を見ながら、静かに立っていた。
ライアスが入ってきたことに気づいて、近づいてきた。
「閣下、様子を見にいらっしゃいましたか」
「ああ」
「子供たちも、だいぶここに慣れてきました」
ミルダは穏やかに言った。
「最初は、お母さんと離れることで泣いてしまう子もいましたし、預かっている間に熱を出してしまった子もいました。その都度、お母さんたちに連絡をして、相談して、どうしたいかを確認しながらやってきました」
「今は」
「今では、皆さんが信頼して預けてくださっています。子供たちも、ここで友達ができて、一緒に何かを覚えていくのが楽しくなってきたようです」
ライアスは、積み木で遊んでいる子供たちを見た。
夢中になって積んでいた。崩れると、また積んだ。笑いながら、また積んだ。
(こういう時間が、この子たちにあった)
以前には、なかったものが。
「閣下」ミルダが続けた。
「女性が働くことには、色々と制限がありました。ずっとそうでした。しかしこのような場所と仕組みを作っていただいて、本当にありがたく思っています」
「ベルナード嬢がやったことだ。私は」
「閣下が判断し、決断をしてくださいました」ミルダは静かに言った。
「ベルナード嬢が考えてくださった案を、動かせたのは閣下の決断があったからです。私は公爵様の領民であることを、誇りに思っています」
ライアスは少し、黙った。
ミルダの言葉が、静かに落ちてきた。
(決断したのは、自分だ)
認めることが、少し難しかった。
しかし否定することもできなかった。
自分が判断しなければ、動かなかった。
それだけは、事実だった。
「……精が出るな」ライアスはやっと言った。
「はい」ミルダは穏やかに笑った。
「お蔭様で、毎日楽しく仕事をしています」
ライアスは何も言わなかった。
しかし、その言葉が、静かに胸に残った。
◇
夕方、孤児院に向かった。
中に入ると、賑やかな声がした。
子供たちの声。カルロスの声。イルマの声。
それから、少し離れたところで、レントが静かに椅子に座っていた。
(あの男が、ここにいる)
視察の日に会ったレントは、薄暗い部屋で一人で座っていた。
雨戸が閉まっていた。考えが暗くなると言っていた。
今日のレントは、子供たちの声が満ちている部屋にいた。
無口だった。表情も、それほど変わっていなかった。
しかし何かが、違った。
小さい子がレントの隣に来て、何かを話しかけた。
レントが短く答えた。子供が笑った。
レントが、その顔を見た。
(あの男の目が、柔らかい)
視察のときのあの目とは、違った。
それだけで、十分だと思った。
◇
レイが来た。
布切れに包んだ小さな束を胸に抱えて、玄関に立っていた。
それだけが、持ち物の全てだった。
子供たちが、レイに向かって走っていった。
「レイ!」
「来た!」
レイが、少し目を丸くした。
しかし振り払わなかった。ただ、受け止めた。
レイの視線がライアスで止まった。
「……あんたは」
カルロスが慌てた。
「こら、公爵様に向かってあんたとは何だ、失礼だろう」
「構わない」ライアスは言った。
「名乗っていなかった。私がヴァルトハイン公爵だ」
レイが、固まった。
しばらく、動かなかった。
「……公爵が、なんでここに」
「来たかったから来た」
「それだけか」
「それだけだ」
レイが、ライアスを見た。
呆気にとられた顔だった。それからそっぽを向いた。
「……まあ、いい」
(あの子は、まあいい、と言った)
ライアスは少し、その言葉を受け取った。
まあいい、という言葉が、この子にとってどれだけの言葉か。
最初に会ったとき、この子は大人を全員、信用していなかった。
それが今、まあいいと言った。
小さな一言だったが、ライアスには重く聞こえた。
◇
パーティが始まった。
長いテーブルに、イルマの料理が並んだ。
豪華ではなかった。しかし温かくて、いい匂いがした。
「いただきます!」
子供たちの声が弾けた。
食事が始まった。
「これ美味しい!」
「俺のパン一番大きい!」
「ずるい、交換して」
「やだ」
「カルロスさん、お代わりしていい?」
「食ってから聞け」
カルロスが次々と来る要求をさばきながら、しかし顔が険しくなっていなかった。
むしろ忙しそうに動きながら、それを楽しんでいるような顔だった。
イルマが台所と部屋を行き来しながら、子供たちの様子を確認するたびに、目が細くなっていった。
レントがテーブルの端で、小さい子のスープを支えてやっていた。
「おいしい」小さい子が言った。
「そうか」
「いっしょに飲もう」
「飲んでいる」
それでもレントは自分のスープを一口飲んだ。
小さい子が満足そうに笑った。
レントが、その顔を見ていた。
(あの男の目が、また、柔らかい)
ライアスは少し離れたところから、部屋全体を見ていた。
不思議な感覚があった。
ここにいる全員が、血の繋がりはない。
家族ではない。
しかしこの部屋には、何かが満ちていた。
(かつて自分が欲しかったものに、少し似ているかもしれない)
幼い頃、体が弱くて、両親が忙しくて、使用人はいたが孤独だった。
あの頃に欲しかった何かが、この部屋にあった。
名前をうまくつけられないが、確かにあった。
◇
テーブルの端で、レイが部屋全体を見ていた。
賑やかな子供たちを。カルロスに絡んでいる子を。イルマの手を引っ張っている小さい子を。
全部を、ゆっくりと、一人ひとりを確かめるように見ていた。
レイの顔が、少しずつ変わっていくのがライアスにも見えた。
何かが、緩んでいくような顔だった。
そして。
レイの目から、涙が溢れた。
悲しみではなかった。
ライアスには、わかった。
ずっと一人で抱えてきた重さが、今夜少し、降りたのだ。
それが、今夜この温かい部屋の中で、少し解けた。
子供たちが、レイの周りに集まった。
みんな泣いていた。
クラウスがレイの肩を抱いた。
レイがしがみついた。
カルロスが目を押さえていた。
イルマがエプロンで顔を拭っていた。
レントが、テーブルの端から静かに見ていた。
その目が、今夜は、潤んでいた。
ライアスは、その光景を、黙って見ていた。
部屋の中に、泣き声と笑い声が混ざっていた。
ふと、視線がノエルに向かった。
ノエルが、泣きながら笑っていた。
目の端に涙を浮かべたまま、口元が緩んでいた。
おかしな顔だと思った。
しかし目が、離れなかった。
しばらくして、ライアスは視線を戻した。
胸の中が、少し、落ち着かなかった。
心臓が、いつもより少し速く打っていた。
それが何故かを、今夜は考えないでおこうとした。
しかし、できなかった。




