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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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みんなでの食事(ノエル視点)

【ノエル視点】


 翌朝、孤児院に行く前に、ノエルはまず公爵邸の執務室に向かった。


 執務室に入ると、ライアスが書類から顔を上げた。

 グラントも同席していた。


「報告があります」


 ノエルは言った。


「今日、レイが荷物を持って孤児院に来ると伝えてきました」


 ライアスが、少し止まった。


「……ようやくか」


「はい」


 グラントが、静かに息をついた。


「全員が、揃いますね」


「はい」


 ライアスが書類を置いた。


「それで、今日はどうする」


「今夜、ささやかですが皆が揃ったことのパーティをしようと思っています。カルロスさん夫妻とレントさん、孤児院の皆で」


「私も行く」


 ノエルは少し、ライアスを見た。


「よろしいんですか」


「行くと言っている」


(閣下が自分から行くと言ってくださった)


(尊い。今は考えない。後で書く)


「ありがとうございます。では夕方に」


 グラントが少し、前に出た。


「ベルナード嬢」


「はい」


「スラムについては……私も以前から認識はしておりました」


 グラントは静かに言った。


「ただ、具体的に何もできておりませんでした。今回、こうして一つの形になっていることを、素直に喜んでいます」


 ノエルは少し、グラントを見た。


「ありがとうございます。ただ」


「ただ?」


「解決ではないと思っています。ここからがスタートです」


 グラントが少し間を置いた。


「……そうですな」


 その一言が、静かだったが、重かった。

 ライアスも何も言わなかった。

 しかしその顔が、少し、柔らかかった。



 夕方、孤児院に向かった。


 ノエル、クラウス、そしてライアスの三人で歩いた。

 ライアスは帽子をかぶっていた。

 変装というほどではないが、公爵と一目でわかる格好ではない。


 孤児院の前に着くと、中から子供たちの声がした。

 扉を開けると、賑やかな声が一気に広がってきた。


「ノエルさん!」


「クラウス!」


 小さい子たちが駆け寄ってきた。


「今日、レイが来るんだよ!」


「知ってる、楽しみだね」


 クラウスがしゃがんで子供たちの頭を撫でた。


 そのとき、玄関の外から足音がした。

 全員が、振り返った。

 レイが、立っていた。


 布切れに包んだ小さな束を、胸に抱えていた。

 それだけが、レイの持ち物の全てだった。


 入口で少し止まって、中を見た。

 子供たちが、一斉に声を上げた。


「レイ!」


「来た!」


「来てくれた!」


 小さい子たちが、レイに向かって走っていった。

 レイが、少し目を丸くした。

 しかし足は動かなかった。


 ただ、子供たちを受け止めた。


「うるさい」


 レイは言った。


「騒ぐな」


 声はぶっきらぼうだったが、振り払わなかった。


 カルロスが、奥から出てきた。


「来たか」


「……来た」


「上がれ」


 短いやり取りだった。

 しかしカルロスの声が、いつもより少し柔らかかった。


 イルマが台所から顔を出した。


「よく来てくれたわ、レイ。お腹空いてるでしょう。もうすぐできるから」


「……別に」


「別にでも食べていきなさい」


 レントが廊下の椅子から、レイを見た。


「遅かった」


「……俺のペースがある」


「来たならいい」


 それだけだった。


 レイが中に入った。

 ノエルも前に出た。


「よく来てくれました」


「……ああ」


 クラウスが、レイの肩を軽く叩いた。


「来てくれてよかった。本当に」


 レイが少し、クラウスを見た。

 そのとき、レイの視線がライアスで止まった。


「……あんたは」


 レイが少し、眉を寄せた。

 カルロスが慌てた。


「こら、公爵様に向かってあんたとは何だ、失礼だろう!」


「構わない」


 ライアスが言った。


「名乗っていなかった。私がヴァルトハイン公爵だ」


 レイが、固まった。

 しばらく、動かなかった。


「……公爵が、なんでここに」


「来たかったから来た」


「……それだけか」


「それだけだ」


 レイが、ライアスをしばらく見た。

 呆気にとられた顔だった。

 それからそっぽを向いた。


「……まあ、いい」


 カルロスが「お前はもう少し礼儀というものを」と言いかけて、イルマに袖を引かれて止まった。

 イルマが静かに首を横に振った。

 カルロスが、渋々口を閉じた。



 夜になって、パーティが始まった。


 長いテーブルに、イルマが腕を振るった料理が並んだ。

 スープと、パンと、野菜の煮込みと、焼いた肉。

 豪華ではなかった。


 しかし温かくて、いい匂いがして、十分な量があった。

 全員が席についた。

 本当に、全員が揃っていた。


「いただきます!」


 子供たちの声が、部屋に弾けた。

 食事が始まった。


「これ美味しい!」


「俺のパン、一番大きい!」


「ずるい、交換して」


「やだ」


「カルロスさん、お代わりしていい?」


「食ってから聞け」


 カルロスが次々と来る要求を捌きながら、しかしその顔はいつもより柔らかかった。

 怒鳴りそうで、怒鳴らない。

 むしろ忙しそうに動きながら、それを楽しんでいるような顔をしていた。


 イルマが台所と部屋を行き来しながら、子供たちの様子を確認するたびに、目が細くなっていった。


「足りない子いる? 遠慮しなくていいわよ」


「おかわり!」


「はいはい、ちょっと待って」


 イルマが笑いながら動いていた。


 レントは、テーブルの端に座っていた。

 いつものように無口だったが、周りの賑やかさを、静かに受け取っていた。


 隣に座った小さい子が、スープの椀を傾けられずに困っていた。

 レントが、ちらりと見た。


「……手伝うか」


「うん」


 小さい子が頷いた。


「お願い」


 レントが、片手で椀を支えた。

 小さい子が、傾けてもらいながらスープを飲んだ。


「おいしい」


「そうか」


「レントさんも飲んで」


「飲んでいる」


「いっしょに飲もう」


「……飲んでいると言っている」


 それでもレントは椀を置いて、自分のスープを一口飲んだ。

 小さい子が、満足そうに笑った。


 レントが、その顔を見た。

 その目が、いつもより、少し柔らかかった。


 ノエルは少し離れたところから、それを見ていた。


 今夜のレントの目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 しかしレントは何も言わなかった。

 気づかれないようにしているのか、自分でも気づいていないのか、どちらかはわからなかった。


 クラウスが子供たちとパンの大きさで言い争いに巻き込まれていた。


「クラウスのが一番大きい、不公平だ!」


「いや俺のはちゃんと同じだって」


「大きい!」


「同じだって!」


「測ろう!」


「何で測るんだよ」


 ライアスがその様子を、テーブルから少し離れた場所で静かに見ていた。


 子供たちの声が、部屋が満ちていた。


(温かい)


 ノエルはそう思いながら、テーブルを見回した。



 食事が落ち着いてきた頃、ノエルはふとレイを見た。


 レイは、テーブルの端に座って、部屋全体を見ていた。


 騒いでいる子供たちを。


 カルロスに絡んでいる子を。


 イルマの手を引っ張っている小さい子を。


 レントに話しかけている子を。


 クラウスと言い合いをしている子を。


 その全部を、ゆっくりと、一人ひとりを確かめるように見ていた。


 ノエルは、そのまま黙っていた。


 レイの顔が、少しずつ変わっていくのがわかった。

 何かが、緩んでいくような顔だった。


 レイは思い返していたのかもしれない。


 助けてくれた兄ちゃんと姉ちゃんがいなくなった日のことを。


 自分が守らなければと、歯を食いしばって決めた夜のことを。


 身勝手な大人たちから仲間を庇った日のことを。


 お腹が空いて、空腹のまま眠った夜のことを。


 雨風が吹き込む隙間だらけの建物で、小さい子たちを真ん中に集めて、縮こまった夜のことを。


 毎日少しずつ、仲間が消耗していくのを感じながら、それでも何もできなかった日のことを。


 しかし今、目の前に皆がいる。


 笑っている。


 食べている。


 明日も、明後日も、この場所で、こうして生きていけるかもしれない。


 その希望が、今夜ここにある。


 レイの目から、涙が溢れた。


 こらえようとしていた。


 しかしこらえきれなかった。


 慌てて袖で拭った。


 また溢れた。


 また拭った。


 それでも止まらなかった。


「……っぐ」


 声が、漏れた。


 子供たちが気づいた。

 賑やかだった声が、少し静かになった。


 小さい子の一人が、立ち上がった。

 テーブルを回って、レイの前に来た。


「レイ……」


 その子も、目に涙を貯めていた。


 別の子も来た。

 また別の子も来た。

 子供たちが、レイの周りに集まった。


 みんなが泣き出した。


 カルロスは、立ち上がれなかった。

 椅子に座ったまま、目を押さえていた。


 イルマが、エプロンで顔を拭った。


 クラウスが、静かにレイの隣に座った。

 その肩を、そっと抱いた。

 レイがクラウスにしがみついた。

 声を押し殺しながら、泣いた。

 クラウスは何も言わなかった。

 ただ、レイの肩を抱いていた。


 レントは、テーブルの端から、静かに見ていた。

 その目が、今度は、はっきりと潤んでいた。

 そして小さな笑顔を浮かべていた。


 声は出なかった。

 ただ、見ていた。


 ノエルはレイの周りに集まった子供たちを見ながら、笑っていた。

 泣くまいと思っていたが、目の端が熱くなってきた。


(こんなところで泣かない)


 袖で目を押さえた。

 ダメだった。


(泣いてしまった)


 笑いながら泣いていた。

 おかしいとわかっていたが、止められなかった。


 部屋の中に、泣き声と笑い声が混ざっていた。

 それがなんとも言えない音で、ノエルはまた少し、泣いた。


 ライアスが、その光景を静かに見ていた。

 何も言わなかった。

 ただ、見ていた。



 夜も更けて、子供たちが眠った。

 片付けを終えて、ノエルとクラウス、ライアスは公爵邸へ戻ることにした。


 三人で夜の公都の通りを歩いた。

 しばらく、誰も話さなかった。


 クラウスが、ぼそりと言った。


「……レイ、泣きましたね」


「泣きましたね」


 ノエルも言った。


「俺も、ちょっとやばかったです」


「私も泣きました」


「見てました」


 クラウスが少し笑った。


「笑いながら泣いてましたよね」


「笑いながら泣くこともあります」


「それはそれで、なんか良かったです」


 ライアスは何も言わなかった。

 しかし歩きながら、少し前を向いたまま、口元は柔らかく緩んでいた。



 公爵邸に戻ると、グラントが待っていた。


「お帰りなさいませ。今日はいかがでしたか」


「レイが来ました」


 ノエルは言った。


「今夜、全員で食事をしました」


 グラントが、少し止まった。


「……全員が」


「はい」


 グラントはしばらく、何も言わなかった。

 ノエルはグラントの顔を見た。


 いつもと少し、違う顔をしていた。

 五十年の奉公人の顔が、一瞬だけ、ただの嬉しそうな老人の顔になった。


「……そうですか」


 グラントはやっと言った。


「それは、よかった」


 声が、少し、滲んでいた。


「グラントさん」


 クラウスが言った。


「珍しい顔してますよ」


「……そんな顔はしておりません」


「してますよ」


「していません」


 グラントは咳払いをした。


「閣下、お部屋へどうぞ」


 ライアスが少し、グラントを見た。


「お前も、休んでいいぞ。今日くらいは」


 グラントが、少し目を細めた。


「……かしこまりました」


 その声は、いつもの奉公人の声より、少しだけ柔らかかった。



 自室に戻ってから、ノエルは机に向かった。


 眠かった。

 しかし今夜だけは、少し書いてから寝たかった。


 観察日誌を開いた。


「本日、レイが荷物を持って孤児院に来た。全員が揃った。パーティが開かれた。全員で食事をした。」


 一行空けて、続けた。


「レイが泣いた。あの子がずっと一人で抱えてきたものを、今夜少しだけ、手放せた気がした。クラウスが肩を抱いた。子供たちが集まってきた。カルロスさんが目を押さえていた。イルマさんがエプロンで顔を拭っていた。レントさんが小さく笑っていた。その目が潤んでいた。グラントさんが珍しい顔をした。全員が、今夜は少し、柔らかかった。」


 一行空けて、続けた。


「ライアス様について記す。今夜は同席してくださった。子供たちの輪を少し離れたところから静かに見ていた。何も言わなかった。ただ、見ていた。帰り道、口元が少し動いていた。ファイル名:閣下の微笑・夜の路地版(新規)。殿堂入り確定。」


「眠い。しかし書く。これは義務だからだ。」


「最後に。今夜の全員の顔が、今日一番大事なものだった。別紙は今夜は書かない。今夜だけは、今夜見たものをそのまま胸に持ったまま、寝る。」


 羽ペンを置いた。


 ノエルはそのまま、静かに目を閉じた。


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