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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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夜が明けて(ノエル視点)

【ノエル視点】


 夜が明けた。


 ゆっくりと、空が白んでいった。


 路地に差し込む朝の光は、夜の間に起きたことをなかったことにするように、静かに、均等に、すべてを照らした。


 ノエルは、建物の壁に背をつけたまま、少し目を閉じた。


 一睡もしていなかった。


 体が、鉛のように重かった。


 隣でライアスが静かに立っていた。


 クラウスも、壁際で目を覚ましたままだった。


 三人とも、無言だった。


 騎士たちが後処理をしていた。


 しかし後処理といっても、灰すら残っていない。


 形として残るものが、何もなかった。


 それだけが、妙に静かな朝の路地に、重くのしかかっていた。


 奥の部屋の扉が開いた。


 子供たちが、おそるおそる出てきた。


 みんな、目が赤かった。


 眠れなかった子もいただろう。


 泣いた子もいるかもしれなかった。


 それでも、出てきた。


 小さい子の一人が、ノエルを見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、小さな声で言った。


「……ありがとう」


 他の子たちも、ぽつりぽつりと声を上げた。


「ありがとう」


「助かった」


「もう来ないのかな、あいつら」


 ノエルは子供たちを見ながら、頷いた。


 上手い言葉が、すぐには出なかった。


 疲れていたからかもしれない。


 それとも、言葉より先に、ただ目の前のこの子たちが無事でいることへの安堵が来たからかもしれなかった。


「引き続き、見回りを続けます」


 ノエルはやっと言った。


「すぐには安心できないかもしれないけれど、今夜よりは安全になったと思います」


 子供たちのお礼が一通り終わった頃、少し離れたところに立っていたレイが、ゆっくりとノエルたちの方に近づいてきた。


 渋い顔をしていた。


 目の下が、少し赤かった。


 泣いていたのか、眠れなかったのか、どちらかはわからなかった。


 しかしレイは、その顔のまま、真っ直ぐ近づいてきた。


 何かを言おうとして、言えなくて、また言おうとしているような顔だった。


 ノエルの前まで来て、止まった。


 一拍、沈黙があった。


 それからレイはそっぽを向いた。


「……頼んだわけじゃない」


 そっけない声だった。


 しかしその声は、昨日よりも確実に、何かが違った。


(ありがとうって、言えない子なんだ)


(でも、言いたいとは思っている)


 ノエルはそれで、十分だと思った。


 見回りの騎士の巡回を引き続き厳重にすることを確認して、三人はスラムを後にした。



 帰り道、朝の公都の通りを歩いた。


 市場が開き始める時間だった。


 荷運びの男たちが行き交い、パンを焼く匂いが漂ってきた。


 普通の朝だった。


 昨夜のことが、もう遠い話のような気がした。


 しかし体の重さが、そうではないと言っていた。


 しばらく歩いてから、ノエルはクラウスに言った。


「そういえば、クラウスって、剣使えたんですね」


「……ああ、はい」


 クラウスは少し、頭をかいた。


「驚きましたか」


「驚きました。すごく」


「すみません、言う機会がなくて」


「いえ、謝らなくていいんですが」


 ノエルは続けた。


「あの速さは、普通の訓練じゃないですよね」


 クラウスが少し、前を向いた。


「……俺、公爵家に来る前は傭兵をやっていたんです」


「傭兵、ですか」


「はい。色々あって、今はここにいます。ライアス様に拾っていただいた感じで」


 ノエルは少し、ライアスを見た。


 ライアスは前を向いて歩いていた。


(いざというとき戦える人間を、最初から私のそばに置いてくれていた)


(……尊い)


(今は考えない。帰ってから別紙に書く)


「公爵家に来る前は、戦場にもいたんですか」


「はい。何度か」


 クラウスは少し間を置いた。


「その時に、ライアス様に助けていただいて。それで今ここにいます」


 ノエルはクラウスを見た。


 クラウスは前を向いていた。


 その横顔が、少し、遠くを見ていた。


「クラウスが今日戦ってくれて、助かりました」


「俺の仕事ですから」


 クラウスは少し照れたように言った。


「ノエルさんのそばにいると言いましたし」


 三人とも、それ以上は話さなかった。


 足音だけが、朝の石畳に響いた。



 屋敷に戻ったのは、朝の光が完全に高くなった頃だった。


 グラントが玄関で待っていた。


 三人の顔を見て、目を細めた。


「……ご無事で」


 その一言だけで、グラントがどれだけ心配していたかが、ノエルにはわかった。


「ただいま戻りました」


 ノエルは言った。


「連中は全員捕捉できましたが……」


 少し、言葉が止まった。


「捕捉した後、一人残らず自然発火しました。あとには何も残りませんでした」


 グラントが、静かに目を閉じた。


「……そうですか」


「はい。詳しい話は、後ほど改めて」


「わかりました」


 グラントは少し間を置いてから言った。


「今日はお休みください。報告は起きてからで十分です」


「ありがとうございます」


 ライアスがグラントに何事か短く指示を出した。


 グラントが頷いた。


 ノエルはそれを横目に、自室へ向かった。



 廊下を歩きながら、足が少し重かった。


 ここまで疲れを感じていなかったのに、屋敷に入った途端に、一気に体に来た気がした。


(終わった)


 そう思ったら、急に眠くなった。


 しかし、まず書かなければならないことがある。


 自室の扉を閉めた。


 机に向かった。


 まず目を閉じた。


(ルクスヴェイル教団について、整理する)


 ゲームで知っていること。


 ルクスヴェイル教団は、表向きは各地で慈善活動と信仰活動を行う善良な宗教団体として知られている。


 孤児の支援、病者の世話、貧困層への食糧配布。


 どれも、外から見れば美しい活動だ。


 しかしその裏側に、魔王復活を目論む組織の核がある。


 組織の頂点に立つのは、魔人と呼ばれる人外の存在だ。


 魔人は七名。


 普通の人間とは根本的に異なる、人の形をした化け物だ。


 ゲームではその七名が、物語の中盤から終盤にかけて立ちはだかった。


 中ボスクラスが五名。


 終盤のラスボス直前に立ちはだかる強ボスが一名。


 そして。


 最後の一名は、課金ルートのアルベルトルートにだけ現れる裏ボスだ。


 魔王に匹敵する力を持つと言われていた。


 前世の給与三ヶ月分を費やして、十七周して、ようやく辿り着いたあのルートの、あの存在だ。


(ゲームに出てきた段階では、こいつが一番強かった)


 今夜来た白い服の男は、その七名ではない。


 顔が違う。雰囲気が違う。纏っている力の質が違った。


 魔人ではなく、普通の人間だった。


 しかし死に方が違った。


 内側から燃えた。


 灰すら残らなかった。


 ゲームの中に、似た場面があった。


 魔人の一人が管理する街で、ある夜、教団の構成員が全員燃えて消えるというシーンだ。


 口封じだった。


 自分たちが捕まったとき、あるいは情報が漏れると判断されたとき、魔人の誰かが仕込んだ何かが発動する。


 今夜の自然発火は、おそらくそれだ。


(つまり、今夜の連中は最初から使い捨てだった)


 ノエルは少し、手を止めた。


 あの白い男が「いやだ、死にたくない」と叫んでいた。


 本当に、知らなかったのかもしれない。


 自分が使い捨てにされることを。


(ゲームはまだ始まっていない)


 ゲームの開始は、この先まだ先だ。


 つまり今の時点で、教団がこれだけ動いているということは、ゲームで描かれていなかった水面下の動きが、ずっと前から続いていたということになる。


(孤児を連れ去ろうとしていた理由も、ゲームには詳しく描かれていなかった)


 何のために子供たちを集めていたのか。


 魔王復活のための何かに使うのか。


 それとも、別の目的があるのか。


(わからない)


 ノエルはそれを、わからないまま、メモに書き留めた。


 知らないことは、知らないと記録しておく。


 それが前世の経験で学んだことだった。


 机の上にメモを置いて、観察日誌を開いた。


 眠い目をこすりながら、羽ペンを走らせた。


「本日の報告を記す。新月の夜、ルクスヴェイル教団の構成員十名超がスラムに現れた。騎士たちと連携して全員の身柄を押さえたが、その後全員が自然発火により消滅。謎を残す形で決着。以下、業務報告終了。」


 一行空けて、続けた。


「以下、個人的記録。今夜のライアス様の雷魔法について記す。眠いが書く。これは義務だからだ。」


「まず、速かった。予備動作が最小限だった。指先に光が走った瞬間にはもう飛んでいた。ゲームの戦闘スペックは数値で表示されていたが、現実のライアス様はその数値で語れるものではなかった。あの速さは。あの鋭さは。あの一瞬の静けさは。一体どうすれば到達できるのか。」


「次に、格好良かった。夜の路地で、青白い雷が一直線に走った瞬間の閣下の姿が、完全に脳内に焼き付いた。永久保存確定。殿堂入り確定。額縁に入れて飾りたいが入れられるのは記憶だけなので、代わりに別紙二十枚に書き残す。眠いが書く。」


「さらに。あの一瞬の前の、閣下の右腕が伸びる動作について。大げさな構えは一切なかった。ただ腕が伸びただけだった。その最小限の動作で、あの雷が出た。この無駄のなさは何なのか。この洗練は何なのか。ゲームのスチルにも描かれていなかった動作だ。現実限定の尊さだ。この目で見た私だけが知っている。記録する義務がある。眠いが書く。」


「また。閣下が今夜の出動を許可した際の言葉についても記録する。感謝するな、呆れているだけだ、とおっしゃった。呆れながらも連れていってくださった。その矛盾が尊い。呆れた顔で許可を出す閣下が尊い。何をしても尊いのはなぜなのか。推しとはそういうものなので、問いに意味はないと結論する。」


「クラウスが元傭兵だったことが判明した。驚いた。ライアス様に助けていただいて今ここにいるとのこと。閣下が最初からクラウスを私のそばに配置していた理由がここで判明した。いざというとき戦える人間を、最初から私の護衛として置いてくださっていた。その事実が、今夜の雷と同じくらい、静かに尊かった。静かに、というのが重要だ。派手に尊いのとは別の種類の尊さだ。この作品には二種類の尊さが存在する。発見だ。別紙に追記する。眠いが追記する。」


「ルクスヴェイル教団については別紙に詳細を記録した。まだわからないことの方が多い。ゲーム開始前にここまで動いていたとは思っていなかった。状況が、ゲームより複雑になっている可能性がある。引き続き観察と記録を続ける。」


「最後に。今夜のレイが『頼んだわけじゃない』と言いながらそっぽを向いた声が、今日で一番柔らかかった。目の下が赤かった。泣いていたのかもしれない。それでも、ちゃんと来た。あの子がいつか、ありがとうと言える日が来てほしい。急がなくていい。ただ、いつかそうなれるように、私たちは通い続ける。」


 別紙を書き終えたのは、昼を過ぎた頃だった。


 合計二十三枚になった。


 羽ペンを置いたとき、ノエルはそのまま机に突っ伏した。


 次の瞬間には、眠っていた。

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