帰ってきたということ(ノエル視点)
【ノエル視点】
カルロスとイルマがスラムへ通い始めてから、五日が経った。
二人は一日おきに来ていた。
毎回、炭筆と紙を持ってくる。
毎回、子供たちに少しずつ文字を教える。
最初は騒がしかった子供たちも、二回目、三回目と重なるうちに、少しずつ授業の形を覚えてきていた。
レイは、毎回一番最後まで炭筆を持っていた。
仲間の名前を書けるようになってきていた。
(カルロスさんとイルマさんが、ちゃんと続けてくれている)
ノエルはその報告をグラントから聞くたびに、少し安堵した。
そして今日は、レントをスラムに連れていく日だ。
朝、ノエルとクラウスは馬車でレントの家へ向かった。
スラムへは普段、視察も兼ねて歩いて向かう。
しかしレントに公爵邸まで来させるのは、無理がある。
「迎えに行くのは、当然のことです」
ノエルはクラウスに言った。
「そうですね」
クラウスが頷いた。
「帰りも送りましょう」
レントの家の前に馬車を止めた。
扉をノックすると、思ったより早く開いた。
「来たか」
「お迎えに上がりました」
レントは松葉杖を一本持って、ゆっくりと外に出てきた。
馬車を見て、少し目を細めた。
「馬車か」
「足元が不安定な場所もあります。馬車の方が楽です」
「……気を遣わせて悪い」
「気を遣っていません。合理的な判断です」
レントが少し、口元を動かした。
「そういう言い方をするのか、あなたは」
「本当のことを言っています」
クラウスが馬車の踏み台を支えながら、レントに手を差し出した。
「どうぞ」
「……頼む」
レントがクラウスの手を借りて、馬車に乗り込んだ。
道中、レントはあまり話さなかった。
窓の外をよく見ていた。
公都の通りを、静かに目で追っていた。
「久しぶりに、外をゆっくり見た」
レントがぽつりと言った。
「普段は外に出ないですか」
「買い物くらいしか出ない。それも疲れるから、必要な時だけだ」
「今日来てみて、どうですか」
「まだ何もしていない」
「それでも、どうですか」
レントが少し間を置いた。
「……悪くない」
◇
スラムの路地の手前で馬車を止めた。
クラウスが先に降りて、レントに手を差し出した。
「ありがとう」
レントが言った。
「いつでも」
クラウスはあっさり言った。
三人で路地に入った。
子供たちがいた。
ノエルたちを見て、いつものように距離を取った。
しかし今日は、見慣れないレントがいる。
年長の少年、レイが前に出た。
「今日は誰だ」
「孤児院で働いてもらう方です。レントさんといいます」
レイがレントを見た。
松葉杖と、膝から下のない右足に、一瞬視線が行った。
すぐに顔に戻った。
「……足がない」
「ない」
レントは短く言った。
「不便じゃないのか」
「不便だ」
「なのに、なんで来た」
「来てみたかったから」
レイが少し、眉を寄せた。
「それだけか」
「それだけだ」
レイがレントをじっと見た。
レントもレイを見た。
少し、沈黙があった。
「……俺たちに世話をさせるつもりか」
レイが言った。
「足がないから、俺たちに運ばせたり、取ってこさせたりするつもりか」
ノエルは口を開こうとした。
しかしレントが先に言った。
「自分のことは、最低限自分でやる」
「最低限って、どこまでだ」
「飯を食うこと、着替えること、用を足すこと。大体は自分でやれる」
「大体は、って、できないこともあるってことか」
「ある」
レントは少し間を置いた。
「転んだ時は、起き上がるのを助けてもらえると助かる。それくらいだ」
レイが少し、黙った。
後ろの方から、小さい子が言った。
「転ぶの?」
「たまにな」
「痛い?」
「痛い」
「……じゃあ、転んだら助ける」
小さい子が、あっさりと言った。
レントが少し、その子を見た。
「ありがとう」
小さい子が、少し照れたように顔を逸らした。
レイが、その様子を見て少し複雑そうな顔をした。
(仲間が先に動いたのが、少し悔しいのかもしれない)
ノエルはそう思いながら、黙っていた。
「一つ聞いていいか」
レントがレイに言った。
「なんだ」
「お前たちの親は、戦争でいなくなったのか」
その一言で、路地の空気が変わった。
子供たちが、じっとレントを見た。
レイの目が、少し険しくなった。
「……なんで聞く」
「俺も戦争に行ったから」
レントは淡々と言った。
「それだけだ」
「……親父が戦争に行って、帰ってこなかった」
レイは低い声で言った。
「他の奴らも、大体そうだ」
「そうか」
レントはそれ以上何も言わなかった。
レイが少し、レントを見た。
「……あんたは、帰ってきた」
「帰ってきた。足を置いてきたが」
「……足を失ったのは、戦場でか」
「そうだ」
「なんで帰ってきた。足を失ったのに」
レントが少し、レイを見た。
「死ななかったから、帰ってきた」
レントは静かに言った。
「生き残れば、帰るしかない」
レイが少し、黙った。
「……親父は、なんで帰ってこなかった」
その言葉は、問いかけというより、ずっと抱えていたものが漏れ出たような声だった。
レントは少し、間を置いた。
「わからない」
レントは正直に言った。
「俺には、お前の親父が何を考えていたかはわからない。ただ」
レントが路地の地面を見た。
「俺が戦場にいたとき、死にたいと思って戦っていた奴はいなかった。みんな、帰りたいと思っていた。帰った先に何があるかを考えながら戦っていた」
「……でも帰ってこなかった」
「帰れなかった奴もいる。帰れなかっただけで、帰ろうとしなかったわけじゃない」
レイが、少し俯いた。
何も言わなかった。
返事をしなかった。
しかしその俯き方が、反発ではなかった。
(何かが、あの子の中に落ちた)
ノエルはそれを見ながら、黙っていた。
レントも、それ以上何も言わなかった。
返事を求めなかった。
ただ、レイのそばに、静かに立っていた。
しばらくして、クラウスが少し年下の子たちに自然に話しかけ始めた。
場の空気が、少しずつ緩んでいった。
◇
帰り際、レントがレイに言った。
「また来る」
レイが、少しレントを見た。
「……来るのか」
「来ると言ったら来る」
「……そうか」
レイは短く答えた。
しかしその「そうか」は、今日一番柔らかい声だった。
小さい子がレントの方に来て、松葉杖をじっと見た。
「これ、何?」
「杖だ。これがないと歩けない」
「重い?」
「少し重い」
「つかれない?」
「慣れた」
小さい子がじっと考えた。
「……持ってみていい?」
「持てないぞ。お前には重すぎる」
「持ってみたい」
「持ってみるか」
レントが松葉杖を渡した。
その瞬間、クラウスがさっとレントの隣に入った。
「支えます」
「……頼む」
クラウスがレントの脇をさりげなく支えた。
レントは少し、クラウスを見た。
何も言わなかったが、目で頷いた。
小さい子が、両手で松葉杖を持った。
すぐに傾いた。
「おもっ……!」
「言っただろう」
「おもい……でもすごい、これで歩いてるの?」
「歩いている」
小さい子がレントを見た。
すごいという顔をしていた。
単純な、純粋なすごいという顔だった。
レントが少し、口元を動かした。
(笑った)
ノエルは少し驚いた。
レントが笑う顔を、初めて見た気がした。
小さい子が松葉杖を返した。
クラウスがそれをレントに渡しながら、引き続き脇を軽く支えた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ。ありがとう」
「また来る?」
小さい子がレントに聞いた。
「来る」
「ほんとに?」
「本当に」
小さい子が少し笑って、他の子のところへ走って行った。
レイが、その様子をじっと見ていた。
何も言わなかった。
しかし今日、最初に見せていた険しさは、少し薄れていた。
◇
路地を出てから、馬車の前に戻った。
クラウスがレントの乗り込みを支えた。
馬車の中で、レントが少し前を向いたまま言った。
「子供の声は、うるさかった」
「そうでしたか」
「ただ」
レントは少し間を置いた。
「一人でいるよりは、ましだと思った」
「それは良かったです」
「良かったと言い切れるのか」
「言い切れます」
ノエルは言った。
「一人でいるよりましだと思えたなら、それで十分です。最初から全部うまくいく必要はないので」
レントが少し、前を向いた。
「あの年長の少年は、何か抱えているな」
「抱えています。ずっと一人でみんなを守ろうとしてきた子です」
「……似ているかもしれない」
「何がですか」
「一人で全部やろうとする感じが」
レントは静かに言った。
「俺も、そういう時期があった」
「今は」
「今も、少しそうかもしれない。ただ、今日助けてもらえると知った」
ノエルは少し、レントを見た。
「小さい子にですか」
「そうだ」
レントは少し、口元を動かした。
「転んだら助けると、あっさり言われた。そういう言葉を、久しぶりに聞いた気がした」
(この人も、少しずつ変わっていける)
ノエルはそう思いながら、黙って馬車に揺られた。
「また来ます」
クラウスが言った。
「俺も、あの子たちのことが気になってきた」
「クラウスは最初から気になっていたでしょう」
「まあそうですけど」
クラウスは少し笑った。
「レントさんは、どうでしたか。正直に」
レントが少し、考えた。
「……悪くなかった」
「それは来てよかった、ということですか」
「そういうことだ」
「よかった」
クラウスが言った。
「俺もそう思います」
◇
レントの家の前で馬車を止めた。
クラウスが先に降りて、レントの降り際を支えた。
「ありがとう」
レントが言った。
「また来るとき、迎えに来てもらえるか」
「もちろんです」
ノエルは言った。
「……頼む」
レントが家に入るのを確認してから、馬車に乗り込んだ。
クラウスが小声で言った。
「迎えに来てもらえるかって、自分から言ってくれましたね」
「はい」
ノエルは言った。
「それだけで、今日来た意味があったと思います」
◇
屋敷に戻ったのは、夕方だった。
グラントから、ライアスが執務室にいると聞いた。
ノエルはクラウスと共に執務室へ向かった。
執務室に入ると、ライアスは書類から顔を上げた。
「レントはどうだった」
「問題なかったです」
ノエルは言った。
「子供たちの反応も、想定の範囲内でした」
「具体的には」
「最初は、世話をさせるつもりかと疑われました」
「レントはどう答えた」
「自分のことは最低限自分でやる、転んだ時だけ助けてもらえればいい、と」
ライアスが少し、眉を動かした。
「それで子供たちは」
「一番小さい子が、転んだら助けると言いました。あっさりと」
「……あっさりと」
「はい。損得を考えた顔ではなく、そう思ったから言っただけ、という感じで」
ライアスが少し、黙った。
「年長の子に、戦争の話をしてくださいました」
「レントが、自分から」
「はい。俺も戦争に行ったから、とだけ言って。帰れなかった奴もいる、帰れなかっただけで帰ろうとしなかったわけじゃない、と」
ライアスは何も言わなかった。
「レイは、返事をしませんでした。でも、俯き方が反発ではなかったです。何かが落ちたと思います」
「……そうか」
少し間があった。
クラウスが言った。
「閣下、一つご報告があります」
「なんだ」
「明日の夜は新月です。月のない夜になります」
執務室が、少し静かになった。
ライアスの表情が、少し引き締まった。
「……白い服の連中が、月のない夜に来ることが多いと言っていたな」
「はい。レイから聞いた話です」
ライアスが少し、前を向いた。
「見回りを増やす。今夜のうちに手配する」
「かしこまりました」
ノエルは言った。
三人の間に、短い沈黙があった。
その沈黙は、明日の夜が静かに終わるとは、誰も思っていない沈黙だった。




