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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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帰ってきたということ(ノエル視点)

【ノエル視点】


 カルロスとイルマがスラムへ通い始めてから、五日が経った。


 二人は一日おきに来ていた。

 毎回、炭筆と紙を持ってくる。

 毎回、子供たちに少しずつ文字を教える。


 最初は騒がしかった子供たちも、二回目、三回目と重なるうちに、少しずつ授業の形を覚えてきていた。


 レイは、毎回一番最後まで炭筆を持っていた。

 仲間の名前を書けるようになってきていた。


(カルロスさんとイルマさんが、ちゃんと続けてくれている)


 ノエルはその報告をグラントから聞くたびに、少し安堵した。


 そして今日は、レントをスラムに連れていく日だ。


 朝、ノエルとクラウスは馬車でレントの家へ向かった。


 スラムへは普段、視察も兼ねて歩いて向かう。

 しかしレントに公爵邸まで来させるのは、無理がある。


「迎えに行くのは、当然のことです」


 ノエルはクラウスに言った。


「そうですね」


 クラウスが頷いた。


「帰りも送りましょう」


 レントの家の前に馬車を止めた。

 扉をノックすると、思ったより早く開いた。


「来たか」


「お迎えに上がりました」


 レントは松葉杖を一本持って、ゆっくりと外に出てきた。

 馬車を見て、少し目を細めた。


「馬車か」


「足元が不安定な場所もあります。馬車の方が楽です」


「……気を遣わせて悪い」


「気を遣っていません。合理的な判断です」


 レントが少し、口元を動かした。


「そういう言い方をするのか、あなたは」


「本当のことを言っています」


 クラウスが馬車の踏み台を支えながら、レントに手を差し出した。


「どうぞ」


「……頼む」


 レントがクラウスの手を借りて、馬車に乗り込んだ。


 道中、レントはあまり話さなかった。

 窓の外をよく見ていた。

 公都の通りを、静かに目で追っていた。


「久しぶりに、外をゆっくり見た」


 レントがぽつりと言った。


「普段は外に出ないですか」


「買い物くらいしか出ない。それも疲れるから、必要な時だけだ」


「今日来てみて、どうですか」


「まだ何もしていない」


「それでも、どうですか」


 レントが少し間を置いた。


「……悪くない」



 スラムの路地の手前で馬車を止めた。

 クラウスが先に降りて、レントに手を差し出した。


「ありがとう」


 レントが言った。


「いつでも」


 クラウスはあっさり言った。


 三人で路地に入った。


 子供たちがいた。

 ノエルたちを見て、いつものように距離を取った。


 しかし今日は、見慣れないレントがいる。

 年長の少年、レイが前に出た。


「今日は誰だ」


「孤児院で働いてもらう方です。レントさんといいます」


 レイがレントを見た。

 松葉杖と、膝から下のない右足に、一瞬視線が行った。

 すぐに顔に戻った。


「……足がない」


「ない」


 レントは短く言った。


「不便じゃないのか」


「不便だ」


「なのに、なんで来た」


「来てみたかったから」


 レイが少し、眉を寄せた。


「それだけか」


「それだけだ」


 レイがレントをじっと見た。

 レントもレイを見た。


 少し、沈黙があった。


「……俺たちに世話をさせるつもりか」


 レイが言った。


「足がないから、俺たちに運ばせたり、取ってこさせたりするつもりか」


 ノエルは口を開こうとした。

 しかしレントが先に言った。


「自分のことは、最低限自分でやる」


「最低限って、どこまでだ」


「飯を食うこと、着替えること、用を足すこと。大体は自分でやれる」


「大体は、って、できないこともあるってことか」


「ある」


 レントは少し間を置いた。


「転んだ時は、起き上がるのを助けてもらえると助かる。それくらいだ」


 レイが少し、黙った。


 後ろの方から、小さい子が言った。


「転ぶの?」


「たまにな」


「痛い?」


「痛い」


「……じゃあ、転んだら助ける」


 小さい子が、あっさりと言った。


 レントが少し、その子を見た。


「ありがとう」


 小さい子が、少し照れたように顔を逸らした。


 レイが、その様子を見て少し複雑そうな顔をした。


(仲間が先に動いたのが、少し悔しいのかもしれない)


 ノエルはそう思いながら、黙っていた。


「一つ聞いていいか」


 レントがレイに言った。


「なんだ」


「お前たちの親は、戦争でいなくなったのか」


 その一言で、路地の空気が変わった。

 子供たちが、じっとレントを見た。

 レイの目が、少し険しくなった。


「……なんで聞く」


「俺も戦争に行ったから」


 レントは淡々と言った。


「それだけだ」


「……親父が戦争に行って、帰ってこなかった」


 レイは低い声で言った。


「他の奴らも、大体そうだ」


「そうか」


 レントはそれ以上何も言わなかった。


 レイが少し、レントを見た。


「……あんたは、帰ってきた」


「帰ってきた。足を置いてきたが」


「……足を失ったのは、戦場でか」


「そうだ」


「なんで帰ってきた。足を失ったのに」


 レントが少し、レイを見た。


「死ななかったから、帰ってきた」


 レントは静かに言った。


「生き残れば、帰るしかない」


 レイが少し、黙った。


「……親父は、なんで帰ってこなかった」


 その言葉は、問いかけというより、ずっと抱えていたものが漏れ出たような声だった。


 レントは少し、間を置いた。


「わからない」


 レントは正直に言った。


「俺には、お前の親父が何を考えていたかはわからない。ただ」


 レントが路地の地面を見た。


「俺が戦場にいたとき、死にたいと思って戦っていた奴はいなかった。みんな、帰りたいと思っていた。帰った先に何があるかを考えながら戦っていた」


「……でも帰ってこなかった」


「帰れなかった奴もいる。帰れなかっただけで、帰ろうとしなかったわけじゃない」


 レイが、少し俯いた。

 何も言わなかった。

 返事をしなかった。


 しかしその俯き方が、反発ではなかった。


(何かが、あの子の中に落ちた)


 ノエルはそれを見ながら、黙っていた。


 レントも、それ以上何も言わなかった。

 返事を求めなかった。

 ただ、レイのそばに、静かに立っていた。


 しばらくして、クラウスが少し年下の子たちに自然に話しかけ始めた。

 場の空気が、少しずつ緩んでいった。



 帰り際、レントがレイに言った。


「また来る」


 レイが、少しレントを見た。


「……来るのか」


「来ると言ったら来る」


「……そうか」


 レイは短く答えた。

 しかしその「そうか」は、今日一番柔らかい声だった。


 小さい子がレントの方に来て、松葉杖をじっと見た。


「これ、何?」


「杖だ。これがないと歩けない」


「重い?」


「少し重い」


「つかれない?」


「慣れた」


 小さい子がじっと考えた。


「……持ってみていい?」


「持てないぞ。お前には重すぎる」


「持ってみたい」


「持ってみるか」


 レントが松葉杖を渡した。


 その瞬間、クラウスがさっとレントの隣に入った。


「支えます」


「……頼む」


 クラウスがレントの脇をさりげなく支えた。

 レントは少し、クラウスを見た。

 何も言わなかったが、目で頷いた。


 小さい子が、両手で松葉杖を持った。

 すぐに傾いた。


「おもっ……!」


「言っただろう」


「おもい……でもすごい、これで歩いてるの?」


「歩いている」


 小さい子がレントを見た。

 すごいという顔をしていた。

 単純な、純粋なすごいという顔だった。


 レントが少し、口元を動かした。


(笑った)


 ノエルは少し驚いた。

 レントが笑う顔を、初めて見た気がした。


 小さい子が松葉杖を返した。

 クラウスがそれをレントに渡しながら、引き続き脇を軽く支えた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫だ。ありがとう」


「また来る?」


 小さい子がレントに聞いた。


「来る」


「ほんとに?」


「本当に」


 小さい子が少し笑って、他の子のところへ走って行った。


 レイが、その様子をじっと見ていた。

 何も言わなかった。

 しかし今日、最初に見せていた険しさは、少し薄れていた。



 路地を出てから、馬車の前に戻った。

 クラウスがレントの乗り込みを支えた。


 馬車の中で、レントが少し前を向いたまま言った。


「子供の声は、うるさかった」


「そうでしたか」


「ただ」


 レントは少し間を置いた。


「一人でいるよりは、ましだと思った」


「それは良かったです」


「良かったと言い切れるのか」


「言い切れます」


 ノエルは言った。


「一人でいるよりましだと思えたなら、それで十分です。最初から全部うまくいく必要はないので」


 レントが少し、前を向いた。


「あの年長の少年は、何か抱えているな」


「抱えています。ずっと一人でみんなを守ろうとしてきた子です」


「……似ているかもしれない」


「何がですか」


「一人で全部やろうとする感じが」


 レントは静かに言った。


「俺も、そういう時期があった」


「今は」


「今も、少しそうかもしれない。ただ、今日助けてもらえると知った」


 ノエルは少し、レントを見た。


「小さい子にですか」


「そうだ」


 レントは少し、口元を動かした。


「転んだら助けると、あっさり言われた。そういう言葉を、久しぶりに聞いた気がした」


(この人も、少しずつ変わっていける)


 ノエルはそう思いながら、黙って馬車に揺られた。


「また来ます」


 クラウスが言った。


「俺も、あの子たちのことが気になってきた」


「クラウスは最初から気になっていたでしょう」


「まあそうですけど」


 クラウスは少し笑った。


「レントさんは、どうでしたか。正直に」


 レントが少し、考えた。


「……悪くなかった」


「それは来てよかった、ということですか」


「そういうことだ」


「よかった」


 クラウスが言った。


「俺もそう思います」



 レントの家の前で馬車を止めた。

 クラウスが先に降りて、レントの降り際を支えた。


「ありがとう」


 レントが言った。


「また来るとき、迎えに来てもらえるか」


「もちろんです」


 ノエルは言った。


「……頼む」


 レントが家に入るのを確認してから、馬車に乗り込んだ。


 クラウスが小声で言った。


「迎えに来てもらえるかって、自分から言ってくれましたね」


「はい」


 ノエルは言った。


「それだけで、今日来た意味があったと思います」



 屋敷に戻ったのは、夕方だった。

 グラントから、ライアスが執務室にいると聞いた。

 ノエルはクラウスと共に執務室へ向かった。


 執務室に入ると、ライアスは書類から顔を上げた。


「レントはどうだった」


「問題なかったです」


 ノエルは言った。


「子供たちの反応も、想定の範囲内でした」


「具体的には」


「最初は、世話をさせるつもりかと疑われました」


「レントはどう答えた」


「自分のことは最低限自分でやる、転んだ時だけ助けてもらえればいい、と」


 ライアスが少し、眉を動かした。


「それで子供たちは」


「一番小さい子が、転んだら助けると言いました。あっさりと」


「……あっさりと」


「はい。損得を考えた顔ではなく、そう思ったから言っただけ、という感じで」


 ライアスが少し、黙った。


「年長の子に、戦争の話をしてくださいました」


「レントが、自分から」


「はい。俺も戦争に行ったから、とだけ言って。帰れなかった奴もいる、帰れなかっただけで帰ろうとしなかったわけじゃない、と」


 ライアスは何も言わなかった。


「レイは、返事をしませんでした。でも、俯き方が反発ではなかったです。何かが落ちたと思います」


「……そうか」


 少し間があった。


 クラウスが言った。


「閣下、一つご報告があります」


「なんだ」


「明日の夜は新月です。月のない夜になります」


 執務室が、少し静かになった。

 ライアスの表情が、少し引き締まった。


「……白い服の連中が、月のない夜に来ることが多いと言っていたな」


「はい。レイから聞いた話です」


 ライアスが少し、前を向いた。


「見回りを増やす。今夜のうちに手配する」


「かしこまりました」


 ノエルは言った。


 三人の間に、短い沈黙があった。


 その沈黙は、明日の夜が静かに終わるとは、誰も思っていない沈黙だった。

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