初めての授業(ノエル視点)
【ノエル視点】
カルロスとその妻を、スラムへ同行してもらう日が来た。
孤児院の完成まで、あと三週間ほどある。
その前に顔を合わせておきたかった。
子供たちにとって、知らない大人が突然「ここに住む人間だ」と現れるのと、一度会ったことがある人間が来るのでは、全く違う。
屋敷の玄関でカルロスと、その妻のイルマを出迎えたとき、ノエルは少し、イルマの顔を確認した。
緊張しているが、表情が硬くなっていない。
(落ち着いた方だ)
「よろしくお願いします」
イルマが言った。
「緊張していますが、大丈夫です」
「子供たちは最初、警戒します。無理に話しかけなくても大丈夫です」
「わかりました」
カルロスが少し、腕を折り畳んだ袖を見た。
「子供たちは、これを見てどう反応するか」
「最初は見ると思います」
ノエルは正直に言った。
「ただ、じろじろ見るような子ではないです。目が鋭い子たちなので、一度確認したらそれ以上は見ません」
「そうか」
「変に隠そうとしなくて大丈夫です」
カルロスが少し、頷いた。
クラウスも合流して、四人でスラムに向かった。
◇
路地に入ると、子供たちがいた。
ノエルたちを見て、いつものように距離を取った。
しかし今日は、見慣れないカルロスとイルマがいる。
年長の少年が前に出た。
「誰だ、その二人」
「孤児院で働いてもらう方々です」
ノエルは言った。
「カルロスさんと、奥さんのイルマさんです。今日は顔を見てもらいに来ました」
少年がカルロスを見た。
カルロスの折り畳まれた袖に、一瞬視線が行った。
しかし、すぐにこちらを向いた。
「……何ができるんだ、その人」
「字と計算が教えられます」
「片腕で?」
「片腕でも、字は書けます」
少年が、カルロスを見た。
カルロスが少年を見た。
「やってみせようか」
カルロスが言った。
少年が少し、眉を動かした。
「……どうせ、できないだろ」
「できないかもしれない。ただ、見てから判断してくれ」
少年が少し、黙った。
やがてそっぽを向きながら言った。
「……まあ、見てやってもいいけど」
カルロスが、クラウスから紙と炭筆を受け取った。
地面に膝をついて、紙を置いた。
右腕一本で、文字を書いた。
子供たちが、少しだけ近づいてきた。
(興味を持った)
後ろにいた小さい子たちが、カルロスの手元を見ようと首を伸ばした。
イルマが自然に小さい子たちの隣にしゃがんで、一緒に覗き込んだ。
「見える?」
小さい子が頷いた。
イルマが少し笑った。
小さい子が、イルマをじっと見た。
警戒、とまでは言えなかった。
ただ、見ていた。
カルロスが書き終えた文字を、子供たちに見せた。
「これが、自分の名前の最初の文字だ」
「……カ、って書いてある」
少し年上の子が言った。
「そうだ。これがカだ。お前たちの名前の最初の文字も、こうやって書ける」
「じゃあ俺のは」
年長の少年が、少し前に出て言った。
「俺の名前はレイだ。レイのレって書けるか」
「書ける」
カルロスがまた炭筆を持った。
「レ、だ」
少年がじっと見た。
「……もう一回」
「こうだ」
「もう一回」
「……」
カルロスが三度書いた。
少年が、紙に顔を近づけた。
「俺もやっていいか」
「やってみろ」
少年が炭筆を受け取った。
ぎこちない手つきで、書いた。
それから少し考えるように顔を上げた。
「……ここにいる全員の名前を、書けるようになりたい」
カルロスが少し、目を細めた。
「全員の、か」
「全部俺が書いてやる。あいつらは書けないから」
少年はぶっきらぼうに言った。
「だから全員分、教えてくれ」
(この子は、自分のためではなく、仲間のために覚えようとしている)
ノエルは少し離れたところから、それを静かに見ていた。
そこへ、別の子供が割り込んできた。
「俺も俺も」
「私も」
「先に俺だ」
一斉に声が上がった。
カルロスが少し、固まった。
(一人に対応していたら、一気に全員が来た)
カルロスが、ノエルに視線を向けた。
「ベルナード嬢……」
「頑張ってください」
「いや、何人もいるんだが」
「はい」
「一度に全員に教えるのは」
「できるようになります。最初は大変です」
カルロスが、子供たちの方を向き直した。
「一人ずつだ。順番を作れ」
「えー」
「なんで」
「俺が先だ」
「俺が先」
「二人とも先は無理だ」
カルロスが言った。
「どちらかが先で、どちらかが後だ。話し合って決めろ」
「じゃあじゃんけん」
「じゃんけんでいい」
子供たちがじゃんけんを始めた。
その間に、別の方向から別の子が来た。
「ねえ、これなんて読む」
「それはあとで」
「いまでもいい」
「少し待て」
「まだ?」
「もう少し」
「いつ?」
さらに別の子が反対側から来た。
「ねえねえ、これは?」
「それは……少し待て」
「なんで」
「今は別の子に」
「ずるい」
カルロスの顔が、明らかに険しくなってきた。
(少しイライラしている)
(これは介入した方がいいタイミングだ)
しかしノエルが動くより、イルマが先に動いた。
石を蹴っていた子の隣にすっと座って、石を一つ拾った。
「これ、何個あるか数えてみて」
「え……四個?」
「そう。これを文字で書くと、どう書くかわかる?」
「……わからない」
「教えてもらったら、書けるようになるよ。読めなくても困らないかもしれないけど、書けたら少し格好いいと思わない?」
子供が少し、考えた。
「……格好いいかな」
「格好いいと思う」
「……じゃあ、教えてもらう」
イルマが、カルロスを見た。
笑いを堪えているのが、顔に出ていた。
カルロスが、少し脱力した。
(上手にイルマさんが場を収めた。しかも笑いながら)
ノエルは少し離れたところで、それを見ていた。
胸の中に、温かいものがあった。
一時間ほど、簡易的な授業が続いた。
最初の三十分は、わりとうまくいっていた。
子供たちが興味を持って炭筆を握り、カルロスの言葉を聞いていた。
しかし四十分を過ぎたあたりから、雲行きが変わってきた。
「もういい」
一人が炭筆を置いた。
「難しいから飽きた」
「もう少しだ」
カルロスが言った。
「もう少しって、さっきも言ってた」
「……もう少しだ」
「同じこと言ってる」
別の子が、突然立ち上がって路地の端に走り出した。
「こら、どこへ行く」
カルロスが言った。
「石ころ拾ってくる」
「今は授業中だ」
「すぐ戻る」
戻らなかった。
石ころを三つ拾って、それを並べて何かを始めていた。
カルロスが残りの子に向き直ろうとしたとき、今度は別の子が隣の子に話しかけ始めた。
「なあ、昨日あそこで犬見たぞ」
「犬? どんな犬」
「茶色くて耳が垂れてて」
「それ大きかった?」
「こちらの話を聞け」
カルロスが言った。
「うん聞いてる」
「聞いていない。犬の話をしていた」
「犬の話しながら聞いてた」
「そういうことは……」
そこへ、まだ炭筆を持っていた子が、カルロスの上から声を被せてきた。
「ねえ、これ合ってる?」
「少し待て」
「合ってる?」
「今他の話をしている」
「でもこれ合ってるか確認したい」
「順番がある」
「でも合ってるか気になる」
カルロスの眉間の皺が、どんどん深くなっていった。
(処理が追いつかなくなっている)
どこを見ればいいかわからなくなっている顔だった。
しかしそのとき、石ころを並べていた子が戻ってきて言った。
「カルロス様、これ何個か数えてみて」
「それは……」
「何個?」
「七個だ」
「正解。じゃあ七って書いてみて」
「お前が書け。俺が教える側だ」
「だってカルロス様の方が上手いじゃん」
「お前が練習するために書くんだ」
「じゃあ教えて」
「だから今教えようとしている」
「どうやって書くの」
「だからそれを……」
カルロスが深く息を吸った。
イルマが、その隣にすっと入ってきた。
「はい、みんな、一回集まって」
イルマが言った。
「丸く座って」
「なんで」
「カルロス様に全員の顔が見えるようにするためよ。バラバラだと見えないでしょう」
「……まあ確かに」
子供たちが、なんとなく丸く座り始めた。
全員ではなかったが、半分以上が座った。
「はい、カルロス様どうぞ」
イルマが、カルロスを見た。
にっこり笑っていた。
カルロスが少し、脱力した。
年長の少年は、その間もずっと炭筆を持って、仲間の名前を一つずつ聞いては書いていた。
飽きるそぶりが、全くなかった。
(この子の吸収の速さは、本物だ)
ノエルはそれを確認しながら、メモに書き留めた。
帰り際、カルロスが少年に言った。
「次来るとき、もう少し難しい文字を教える」
少年が少し、カルロスを見た。
「……また来るのか」
「来る。約束する」
少年が少し、そっぽを向いた。
「……勝手にしろ」
その言葉が、今日はいつもより少し、柔らかかった。
小さい子たちが、イルマに手を振った。
イルマが手を振り返した。
◇
路地を出てから、四人で並んで歩き始めた。
しばらく黙って歩いていたカルロスが、口を開いた。
「……正直に言う」
「何がですか」
ノエルが言った。
「子供に教えることくらい、簡単にできると思っていた」
カルロスは少し、眉を寄せた。
「やってみたら、自信がなくなった」
「どのあたりが難しかったですか」
「全部だ」
カルロスは続けた。
「特に、何が分からないのかが、分からない。俺には当たり前に読める文字が、なぜあいつらには読めないのかがわからない。読める人間は、なぜ読めるようになったのかを覚えていない。だからどこまで噛み砕けばいいのか、何を先に教えるべきなのか、全部が手探りだった」
「それは、多くの人が最初に感じることです」
「そうなのか」
「はい。教えるというのは、自分が知っていることを分解する作業です。知っていることを知らない状態に戻して、順番を作り直す。慣れるまでに時間がかかります」
「……途中で飽きた子に、どうすればよかったのか。どこへ行った子を、どう引き戻せばよかったのか。話の上から被せてくる子を、どう捌けばよかったのか。全部、わからなかった」
イルマが少し、カルロスを見た。
「あなたが全部一人で捌こうとするから、無理が出るのよ」
「お前に助けてもらった」
「そのために私がいるんだから」
イルマは静かに言った。
「一人でやろうとしなくていい。私が見られる子を見て、あなたが教えたい子を教えればいい。最初からそう分けて動けば、もう少し楽になる」
「……それを最初に言ってくれればよかった」
「言っても、あなたは最初は一人でやろうとしたと思う」
カルロスが少し黙った。
「……そうかもしれない」
「子どもたちの相手をするのは、親だって多分簡単じゃないのよ」
イルマは穏やかに続けた。
「わかった上で、また来ればいいじゃない」
カルロスが少し、前を向いた。
「……次は、もう少しうまくやる」
「期待しています」
ノエルは言った。
「お世辞は言わなくていい」
「お世辞じゃないです。今日わからなかったことが、次に来るときの課題になります。何が難しかったか、今日わかったことの方が大事です」
「……課題が多すぎる気がするが」
「多いです。でも、年長の子、レイが最後まで炭筆を持っていたのを、カルロスさんは見ましたか」
カルロスが少し、止まった。
「……見た。あの子は仲間全員の名前を書こうとしていた」
「はい。それは、カルロスさんが最後まで続けたからだと思います」
カルロスは少し、黙った。
「……大げさじゃないか」
「大げさじゃないです。見たことを言っています」
カルロスが、少し前を向いた。
イルマが、ノエルに小さく目で頷いた。
ノエルも少し、頷いた。
少しして、クラウスとカルロスが前を歩き、ノエルとイルマが少し後ろになった。
イルマが、小声でノエルに言った。
「少し、よろしいですか」
「はい」
「……ありがとうございます」
ノエルは少し、イルマを見た。
「何がですか」
「この機会を作ってくださって」
イルマは前を向いたまま、静かに言った。
「今日のカルロスを見ていたら、久しぶりに、あんな顔をするんだと思って」
「あんな顔、というのは」
「焦って、悔しそうで、それでも諦めなくて」
イルマは少し、口元を緩めた。
「腕を失ってから、あの人はずっと、どこか遠慮がちで。私の前でも、あまり弱音を吐かなくて。でも今日は、私に助けを求めてくれました。あんなに必死に何かをしようとしているあの人を、久しぶりに見た気がして」
「……それが、嬉しかったです」
イルマは続けた。
「あの人が活き活きと動いている。私はそれを、久しぶりに見た気がします。だから、ありがとうございます」
「……私ではなくて、カルロスさんが来ると決めてくださったからだと思います」
「でも、この場所を作ったのはあなた方です」
イルマは静かに言った。
「場所がなければ、あの人は決められなかったです」
ノエルは何も言えなかった。
言えなかったが、イルマの言葉が、静かに胸の奥に落ちた。
「……ありがとうございます」
ノエルはやっと言った。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
イルマが少し、笑った。
「カルロスをよろしくお願いします。あの人、また落ち込むと思うので」
前を歩くカルロスが、振り返った。
「何を話しているんだ、二人は」
「秘密です」
イルマが言った。
「秘密とは何だ」
「夫には言わないことの一つや二つ、妻にはあるものよ」
「……なんか嫌な感じがするんだが」
「気のせいよ」
クラウスが小さく笑った。
ノエルも笑った。
カルロスは少し、困った顔をした。
◇
屋敷に戻ってから、ノエルは机に向かった。
今日のことをメモした。
「カルロス・イルマ両名の顔合わせ、問題なし。子供たちの反応は想定内。年長の少年が最後まで集中し、仲間全員の名前を書こうとしていた。吸収の速さは本物。次回の授業に期待できる。イルマさんが子供たちの対応に自然に入れていた。これは今後の孤児院運営にとっても良い材料」
次の行に書いた。
「カルロスさんが弱音を吐いた。教えることの難しさを正直に言えた。それ自体が、この人が誠実であることの証拠だと思う。イルマさんのお礼の言葉が、静かに嬉しかった」
そして観察日誌を開いた。
「本日、カルロスさんとイルマさんのスラム訪問を行った。年長の子が仲間全員の名前を書こうとしていたことが、今日一番心に残った。自分のためではなく、仲間のために覚えようとしている。あの子は本当に頭が良い。いつかその頭が、自分のために使える日が来てほしい」
一行空けて、書き足した。
「イルマさんから、カルロスさんが久しぶりに活き活きとしていると言われた。場所を作ることの意味を、改めて感じた。二人が来てくれることが、今日改めて、良かったと思った」
最後に短く書いた。
「なお本日、ライアス様は同行されなかったが、帰宅後に廊下ですれ違った際、今日はどうだったと聞いてくださった。その声音が尊かった。別紙一枚に記録済み。」




