表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/82

初めての授業(ノエル視点)

【ノエル視点】


 カルロスとその妻を、スラムへ同行してもらう日が来た。


 孤児院の完成まで、あと三週間ほどある。

 その前に顔を合わせておきたかった。


 子供たちにとって、知らない大人が突然「ここに住む人間だ」と現れるのと、一度会ったことがある人間が来るのでは、全く違う。


 屋敷の玄関でカルロスと、その妻のイルマを出迎えたとき、ノエルは少し、イルマの顔を確認した。

 緊張しているが、表情が硬くなっていない。


(落ち着いた方だ)


「よろしくお願いします」


 イルマが言った。


「緊張していますが、大丈夫です」


「子供たちは最初、警戒します。無理に話しかけなくても大丈夫です」


「わかりました」


 カルロスが少し、腕を折り畳んだ袖を見た。


「子供たちは、これを見てどう反応するか」


「最初は見ると思います」


 ノエルは正直に言った。


「ただ、じろじろ見るような子ではないです。目が鋭い子たちなので、一度確認したらそれ以上は見ません」


「そうか」


「変に隠そうとしなくて大丈夫です」


 カルロスが少し、頷いた。


 クラウスも合流して、四人でスラムに向かった。



 路地に入ると、子供たちがいた。

 ノエルたちを見て、いつものように距離を取った。


 しかし今日は、見慣れないカルロスとイルマがいる。

 年長の少年が前に出た。


「誰だ、その二人」


「孤児院で働いてもらう方々です」


 ノエルは言った。


「カルロスさんと、奥さんのイルマさんです。今日は顔を見てもらいに来ました」


 少年がカルロスを見た。

 カルロスの折り畳まれた袖に、一瞬視線が行った。

 しかし、すぐにこちらを向いた。


「……何ができるんだ、その人」


「字と計算が教えられます」


「片腕で?」


「片腕でも、字は書けます」


 少年が、カルロスを見た。

 カルロスが少年を見た。


「やってみせようか」


 カルロスが言った。


 少年が少し、眉を動かした。


「……どうせ、できないだろ」


「できないかもしれない。ただ、見てから判断してくれ」


 少年が少し、黙った。

 やがてそっぽを向きながら言った。


「……まあ、見てやってもいいけど」


 カルロスが、クラウスから紙と炭筆を受け取った。

 地面に膝をついて、紙を置いた。

 右腕一本で、文字を書いた。


 子供たちが、少しだけ近づいてきた。


(興味を持った)


 後ろにいた小さい子たちが、カルロスの手元を見ようと首を伸ばした。

 イルマが自然に小さい子たちの隣にしゃがんで、一緒に覗き込んだ。


「見える?」


 小さい子が頷いた。

 イルマが少し笑った。


 小さい子が、イルマをじっと見た。

 警戒、とまでは言えなかった。

 ただ、見ていた。


 カルロスが書き終えた文字を、子供たちに見せた。


「これが、自分の名前の最初の文字だ」


「……カ、って書いてある」


 少し年上の子が言った。


「そうだ。これがカだ。お前たちの名前の最初の文字も、こうやって書ける」


「じゃあ俺のは」


 年長の少年が、少し前に出て言った。


「俺の名前はレイだ。レイのレって書けるか」


「書ける」


 カルロスがまた炭筆を持った。


「レ、だ」


 少年がじっと見た。


「……もう一回」


「こうだ」


「もう一回」


「……」


 カルロスが三度書いた。

 少年が、紙に顔を近づけた。


「俺もやっていいか」


「やってみろ」


 少年が炭筆を受け取った。

 ぎこちない手つきで、書いた。

 それから少し考えるように顔を上げた。


「……ここにいる全員の名前を、書けるようになりたい」


 カルロスが少し、目を細めた。


「全員の、か」


「全部俺が書いてやる。あいつらは書けないから」


 少年はぶっきらぼうに言った。


「だから全員分、教えてくれ」


(この子は、自分のためではなく、仲間のために覚えようとしている)


 ノエルは少し離れたところから、それを静かに見ていた。


 そこへ、別の子供が割り込んできた。


「俺も俺も」


「私も」


「先に俺だ」


 一斉に声が上がった。


 カルロスが少し、固まった。


(一人に対応していたら、一気に全員が来た)


 カルロスが、ノエルに視線を向けた。


「ベルナード嬢……」


「頑張ってください」


「いや、何人もいるんだが」


「はい」


「一度に全員に教えるのは」


「できるようになります。最初は大変です」


 カルロスが、子供たちの方を向き直した。


「一人ずつだ。順番を作れ」


「えー」


「なんで」


「俺が先だ」


「俺が先」


「二人とも先は無理だ」


 カルロスが言った。


「どちらかが先で、どちらかが後だ。話し合って決めろ」


「じゃあじゃんけん」


「じゃんけんでいい」


 子供たちがじゃんけんを始めた。


 その間に、別の方向から別の子が来た。


「ねえ、これなんて読む」


「それはあとで」


「いまでもいい」


「少し待て」


「まだ?」


「もう少し」


「いつ?」


 さらに別の子が反対側から来た。


「ねえねえ、これは?」


「それは……少し待て」


「なんで」


「今は別の子に」


「ずるい」


 カルロスの顔が、明らかに険しくなってきた。


(少しイライラしている)


(これは介入した方がいいタイミングだ)


 しかしノエルが動くより、イルマが先に動いた。


 石を蹴っていた子の隣にすっと座って、石を一つ拾った。


「これ、何個あるか数えてみて」


「え……四個?」


「そう。これを文字で書くと、どう書くかわかる?」


「……わからない」


「教えてもらったら、書けるようになるよ。読めなくても困らないかもしれないけど、書けたら少し格好いいと思わない?」


 子供が少し、考えた。


「……格好いいかな」


「格好いいと思う」


「……じゃあ、教えてもらう」


 イルマが、カルロスを見た。

 笑いを堪えているのが、顔に出ていた。

 カルロスが、少し脱力した。


(上手にイルマさんが場を収めた。しかも笑いながら)


 ノエルは少し離れたところで、それを見ていた。

 胸の中に、温かいものがあった。


 一時間ほど、簡易的な授業が続いた。


 最初の三十分は、わりとうまくいっていた。

 子供たちが興味を持って炭筆を握り、カルロスの言葉を聞いていた。


 しかし四十分を過ぎたあたりから、雲行きが変わってきた。


「もういい」


 一人が炭筆を置いた。


「難しいから飽きた」


「もう少しだ」


 カルロスが言った。


「もう少しって、さっきも言ってた」


「……もう少しだ」


「同じこと言ってる」


 別の子が、突然立ち上がって路地の端に走り出した。


「こら、どこへ行く」


 カルロスが言った。


「石ころ拾ってくる」


「今は授業中だ」


「すぐ戻る」


 戻らなかった。

 石ころを三つ拾って、それを並べて何かを始めていた。


 カルロスが残りの子に向き直ろうとしたとき、今度は別の子が隣の子に話しかけ始めた。


「なあ、昨日あそこで犬見たぞ」


「犬? どんな犬」


「茶色くて耳が垂れてて」


「それ大きかった?」


「こちらの話を聞け」


 カルロスが言った。


「うん聞いてる」


「聞いていない。犬の話をしていた」


「犬の話しながら聞いてた」


「そういうことは……」


 そこへ、まだ炭筆を持っていた子が、カルロスの上から声を被せてきた。


「ねえ、これ合ってる?」


「少し待て」


「合ってる?」


「今他の話をしている」


「でもこれ合ってるか確認したい」


「順番がある」


「でも合ってるか気になる」


 カルロスの眉間の皺が、どんどん深くなっていった。


(処理が追いつかなくなっている)


 どこを見ればいいかわからなくなっている顔だった。


 しかしそのとき、石ころを並べていた子が戻ってきて言った。


「カルロス様、これ何個か数えてみて」


「それは……」


「何個?」


「七個だ」


「正解。じゃあ七って書いてみて」


「お前が書け。俺が教える側だ」


「だってカルロス様の方が上手いじゃん」


「お前が練習するために書くんだ」


「じゃあ教えて」


「だから今教えようとしている」


「どうやって書くの」


「だからそれを……」


 カルロスが深く息を吸った。


 イルマが、その隣にすっと入ってきた。


「はい、みんな、一回集まって」


 イルマが言った。


「丸く座って」


「なんで」


「カルロス様に全員の顔が見えるようにするためよ。バラバラだと見えないでしょう」


「……まあ確かに」


 子供たちが、なんとなく丸く座り始めた。

 全員ではなかったが、半分以上が座った。


「はい、カルロス様どうぞ」


 イルマが、カルロスを見た。

 にっこり笑っていた。

 カルロスが少し、脱力した。


 年長の少年は、その間もずっと炭筆を持って、仲間の名前を一つずつ聞いては書いていた。

 飽きるそぶりが、全くなかった。


(この子の吸収の速さは、本物だ)


 ノエルはそれを確認しながら、メモに書き留めた。


 帰り際、カルロスが少年に言った。


「次来るとき、もう少し難しい文字を教える」


 少年が少し、カルロスを見た。


「……また来るのか」


「来る。約束する」


 少年が少し、そっぽを向いた。


「……勝手にしろ」


 その言葉が、今日はいつもより少し、柔らかかった。


 小さい子たちが、イルマに手を振った。

 イルマが手を振り返した。



 路地を出てから、四人で並んで歩き始めた。


 しばらく黙って歩いていたカルロスが、口を開いた。


「……正直に言う」


「何がですか」


 ノエルが言った。


「子供に教えることくらい、簡単にできると思っていた」


 カルロスは少し、眉を寄せた。


「やってみたら、自信がなくなった」


「どのあたりが難しかったですか」


「全部だ」


 カルロスは続けた。


「特に、何が分からないのかが、分からない。俺には当たり前に読める文字が、なぜあいつらには読めないのかがわからない。読める人間は、なぜ読めるようになったのかを覚えていない。だからどこまで噛み砕けばいいのか、何を先に教えるべきなのか、全部が手探りだった」


「それは、多くの人が最初に感じることです」


「そうなのか」


「はい。教えるというのは、自分が知っていることを分解する作業です。知っていることを知らない状態に戻して、順番を作り直す。慣れるまでに時間がかかります」


「……途中で飽きた子に、どうすればよかったのか。どこへ行った子を、どう引き戻せばよかったのか。話の上から被せてくる子を、どう捌けばよかったのか。全部、わからなかった」


 イルマが少し、カルロスを見た。


「あなたが全部一人で捌こうとするから、無理が出るのよ」


「お前に助けてもらった」


「そのために私がいるんだから」


 イルマは静かに言った。


「一人でやろうとしなくていい。私が見られる子を見て、あなたが教えたい子を教えればいい。最初からそう分けて動けば、もう少し楽になる」


「……それを最初に言ってくれればよかった」


「言っても、あなたは最初は一人でやろうとしたと思う」


 カルロスが少し黙った。


「……そうかもしれない」


「子どもたちの相手をするのは、親だって多分簡単じゃないのよ」


 イルマは穏やかに続けた。


「わかった上で、また来ればいいじゃない」


 カルロスが少し、前を向いた。


「……次は、もう少しうまくやる」


「期待しています」


 ノエルは言った。


「お世辞は言わなくていい」


「お世辞じゃないです。今日わからなかったことが、次に来るときの課題になります。何が難しかったか、今日わかったことの方が大事です」


「……課題が多すぎる気がするが」


「多いです。でも、年長の子、レイが最後まで炭筆を持っていたのを、カルロスさんは見ましたか」


 カルロスが少し、止まった。


「……見た。あの子は仲間全員の名前を書こうとしていた」


「はい。それは、カルロスさんが最後まで続けたからだと思います」


 カルロスは少し、黙った。


「……大げさじゃないか」


「大げさじゃないです。見たことを言っています」


 カルロスが、少し前を向いた。

 イルマが、ノエルに小さく目で頷いた。

 ノエルも少し、頷いた。


 少しして、クラウスとカルロスが前を歩き、ノエルとイルマが少し後ろになった。


 イルマが、小声でノエルに言った。


「少し、よろしいですか」


「はい」


「……ありがとうございます」


 ノエルは少し、イルマを見た。


「何がですか」


「この機会を作ってくださって」


 イルマは前を向いたまま、静かに言った。


「今日のカルロスを見ていたら、久しぶりに、あんな顔をするんだと思って」


「あんな顔、というのは」


「焦って、悔しそうで、それでも諦めなくて」


 イルマは少し、口元を緩めた。


「腕を失ってから、あの人はずっと、どこか遠慮がちで。私の前でも、あまり弱音を吐かなくて。でも今日は、私に助けを求めてくれました。あんなに必死に何かをしようとしているあの人を、久しぶりに見た気がして」


「……それが、嬉しかったです」


 イルマは続けた。


「あの人が活き活きと動いている。私はそれを、久しぶりに見た気がします。だから、ありがとうございます」


「……私ではなくて、カルロスさんが来ると決めてくださったからだと思います」


「でも、この場所を作ったのはあなた方です」


 イルマは静かに言った。


「場所がなければ、あの人は決められなかったです」


 ノエルは何も言えなかった。

 言えなかったが、イルマの言葉が、静かに胸の奥に落ちた。


「……ありがとうございます」


 ノエルはやっと言った。


「これからも、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 イルマが少し、笑った。


「カルロスをよろしくお願いします。あの人、また落ち込むと思うので」


 前を歩くカルロスが、振り返った。


「何を話しているんだ、二人は」


「秘密です」


 イルマが言った。


「秘密とは何だ」


「夫には言わないことの一つや二つ、妻にはあるものよ」


「……なんか嫌な感じがするんだが」


「気のせいよ」


 クラウスが小さく笑った。

 ノエルも笑った。

 カルロスは少し、困った顔をした。



 屋敷に戻ってから、ノエルは机に向かった。

 今日のことをメモした。


「カルロス・イルマ両名の顔合わせ、問題なし。子供たちの反応は想定内。年長の少年が最後まで集中し、仲間全員の名前を書こうとしていた。吸収の速さは本物。次回の授業に期待できる。イルマさんが子供たちの対応に自然に入れていた。これは今後の孤児院運営にとっても良い材料」


 次の行に書いた。


「カルロスさんが弱音を吐いた。教えることの難しさを正直に言えた。それ自体が、この人が誠実であることの証拠だと思う。イルマさんのお礼の言葉が、静かに嬉しかった」


 そして観察日誌を開いた。


「本日、カルロスさんとイルマさんのスラム訪問を行った。年長の子が仲間全員の名前を書こうとしていたことが、今日一番心に残った。自分のためではなく、仲間のために覚えようとしている。あの子は本当に頭が良い。いつかその頭が、自分のために使える日が来てほしい」


 一行空けて、書き足した。


「イルマさんから、カルロスさんが久しぶりに活き活きとしていると言われた。場所を作ることの意味を、改めて感じた。二人が来てくれることが、今日改めて、良かったと思った」


 最後に短く書いた。


「なお本日、ライアス様は同行されなかったが、帰宅後に廊下ですれ違った際、今日はどうだったと聞いてくださった。その声音が尊かった。別紙一枚に記録済み。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ