やらかし(ノエル視点)
【ノエル視点】
公爵邸の門をくぐったとき、グラントが玄関に立っていた。
三人の顔を見た瞬間、グラントの表情が変わった。
五十年の奉公人の顔が、一瞬、ただの心配していた老人の顔になった。
「……ご無事で」
「ただいま戻りました」
ノエルは言った。
「少女は回復しました。今朝、スラムに戻っています」
「そうですか」
グラントが少し、息をついた。
「それは……よかった」
ライアスとノエルの顔を順番に見て、グラントはもう一度息をついた。
「お二人とも、一晩お休みになっていないですね」
「はい」
「本日の業務は昼過ぎからにしてください。それまでお休みを」
「グラントさん」
ノエルは言った。
「各部署への連絡をクラウスに頼んでいいですか。今日の午前の予定を午後にずらす旨と、昨夜の件でご迷惑をおかけした旨をお伝えしたいので」
「わかりました」
「クラウス、お願いできますか」
「もちろんです」
クラウスはすでに動き出していた。
「行ってきます」
ライアスがグラントと何事か話し始めた。
ノエルはそれを横目に、自室へ向かった。
◇
廊下を歩きながら、ノエルは何も考えないようにしていた。
考えると、今すぐここで崩れ落ちそうだったからだ。
自室の扉を開けた。
中に入った。
扉を閉めた。
五秒、静かに立っていた。
(ぬぅわぁぁぁぁぁぁあああああああっ!!!!!!)
声は出なかった。
出なかったが、脳内で叫んだ。
両手で顔を覆った。
そのまま床の上で、陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回った。
(昨夜の閣下が)
(少女の寝台のそばにしゃがんで、手を握っていた閣下が)
(苦悩していた閣下が)
(何をどうしたらいいかわからなくてオロオロしていた閣下が)
(全方位から完全に神だった)
ゲームの全ルートを攻略した。
課金した。
十七周した。
しかしあんなシーンは一度も存在しなかった。
(ゲームにあの場面のスチルがなかったのは、制作者の怠慢だ)
(いや、あのシーンをスチルにしたら、プレイヤーが実際に死者を出していた可能性がある)
(制作者は命を守ったのかもしれない。しかし私は現物を至近距離で見てしまった)
心配と苦悩が入り混じった閣下の横顔の色気に、鼻血でも涎でも出てしまえと思った。
実際危うく出るところだった。
少女のミルク粥が血で赤く染まる惨事になるところだった。
(鼻血で少女の粥を汚染するわけにはいかないという理性だけで、私は今夜を乗り切った)
帰り道、少女に自然に手を掴まれて、戸惑いながらもそのまま繋いで歩いていた閣下の顔。
あの可愛さで今度は涎が枯渇するほど垂れ流しになりかけた。
のたうち回りながら、ふと思った。
(少女が、元気になった)
朝、医療院を出るときの少女の顔が頭に浮かんだ。
ミルク粥を食べて、少し頬に色が戻って、医者に「もう大丈夫」と言われて、少し誇らしそうな顔をしていた。
あの顔が、良かった。
本当に、良かった。
悶え死にそうな感情の中に、それだけは、静かに、確かにあった。
(年長の子も)
スラムに戻るとき、少年が「また来るのか」と聞いてきた。
最初に会ったとき、この子は「何しに来た」「どっか行け」しか言わなかった。
それが今日は、自分から声をかけてきた。
(少しだけ、開いてくれた)
それがどれほど大事なことか、ノエルにはわかっていた。
一夜で変わったわけではない。
何度も通って、約束を守って、雨の日も来て、そうして少しずつ積み上げてきたものが、今日の一言になった。
(まだ信用されていない。でも、扉が少しだけ開いた)
それだけで、十分だった。
ノエルは床の上で、もう一度、静かに目を閉じた。
みんな、無事だった。
少女も、少年も、スラムの子たちも。
今日は、それだけで十分だった。
(それにしても……)
(おのれ、ライアス……!)
(この私をここまで追い詰めるとは)
(ゲームの中でどれほどの修羅場をくぐってきたと思っているのか)
(前世込み四十年超の経験で培った耐性を、一夜で全部削りきるとは何事か)
(初めてですよ、ここまで私を悶え殺しかけた人は)
(せめてこの世界にカメラがあれば)
(あの病室の閣下を写真に収めて、一生拝み続けることができたのに)
(何故この世界にはカメラがないのか。神に問いたい)
感涙が、ノエルの目から零れ落ちた。
嬉し涙だった。
悶え死にそうな嬉し涙だった。
満面の笑みで天に向かって拳を突き上げながら、床の上で感動に浸っていた。
そのとき。
扉が開いた。
「何があった!」
ライアスだった。
グラントも後ろにいた。
二人が部屋に飛び込んできた。
視線が、床のノエルに向いた。
涙と涎を流しながら、満面の笑みで天に向かって拳を突き上げているノエルに。
沈黙が、部屋に落ちた。
三者が見つめ合った。
ライアスの顔が、これまで見たことのない種類の表情になった。
非常に、気まずそうだった。
「……い、いや……大声が聞こえたから、何かあったかと……」
ノエルは一秒で仕事モードに切り替えた。
涙と涎を高速で拭き取った。
「申し訳ありません」
ノエルは立ち上がった。
「声が少し漏れてしまったようです。ご心配をおかけしました。ご覧の通り、何事もございません」
「いや、あれ……お前……」
ライアスがもう一度ノエルを見た。
何かを言おうとして、やめた。
また言おうとして、やめた。
「ご心配をおかけしました。大丈夫です。お休みをいただきます」
ノエルは二人に向かって一礼した。
「失礼します」
そのまま、扉の方向へ二人を誘導した。
「どうぞ、お気をつけて」
ライアスが呆然としながら廊下へ出た。
グラントが静かに後に続いた。
扉を閉めた。
ノエルは扉を背にして、ずるずると腰が抜けたように崩れ落ちた。
両手で顔を覆った。
十秒、静かにしていた。
(にょわぁぁぁぁぁぁああああああああああっ!!!!!!)
脳内で絶叫した。
見られた。
見られてしまった。
涙と涎で濡れた顔で天に向かって拳を突き上げているところを。
公爵と家令に。
廊下の向こうから、二人の気配がした。
「……防音の魔道具を、部屋に設置するか」
ライアスの声だった。
「御意」
グラントの声だった。
足音が遠ざかっていった。
(顔が熱い)
(かつてない速度で熱い)
(別紙に書く。今夜必ず書く。恥ずかしすぎて書けないかもしれないが、書く。これは記録として残す義務がある)
ノエルはしばらく扉に背をつけたまま、動けなかった。
◇
昼過ぎから仕事を始めた。
何もなかった顔をして、仕事をした。
完璧な仕事モードだった。
しかし廊下でクラウスとすれ違ったとき、クラウスが少し引いた。
「……ノエルさん、なんか雰囲気が」
「何でもありません」
「いや、なんか……鬼気迫るというか……」
「気のせいです」
「気のせいかなあ……」
「気のせいです」
「……はい」
クラウスが小走りで離れていった。
(仕事をするしかない。ひたすら仕事をする。仕事の中に感情を全部叩き込む)
◇
夜、執務室でライアスとグラントと三人で話し合いをした。
ライアスは微妙に視線が定まっていなかった。
グラントも、どことなく咳払いが多かった。
ノエルは完全に前を向いて、真面目なお仕事モードを維持した。
「未亡人の皆さんは、問題なく仕事に入られています」
グラントが言った。
「預かっている子供たちも、今のところ何も問題はありません」
「ありがとうございます。私も先日現場を見て回りましたが、ミルダさんを中心に、うまく回っていると感じました」
「孤児院の改装の進捗ですが」
グラントは書類をめくった。
「大工の手配ができました。来週から本格的に入ります」
「なるべく急いでくれ」
ライアスが言った。
「はい」
ノエルは続けた。
「改装と並行して、孤児院で働く人間の選定も進めます。まず一名、閣下に面談をしていただきたい候補がいます」
「誰だ」
「視察でお会いした、カルロスという元兵士です。腕を失った方です。字と計算ができて、面談受諾の意志があります。候補の中で一番早く動けそうですので」
「わかった。日程を調整する」
「ありがとうございます」
三人の間に、少し間があった。
ライアスが書類を見ながら言った。
「……昼間のことは」
「何でもありません」
ノエルは即座に言った。
「いや、だから……」
「何でもありません」
ライアスが、グラントを見た。
グラントが、天井を見た。
「……わかった」
それ以上、誰も何も言わなかった。
非常に賢明な判断だとノエルは思った。
◇
その夜の観察日誌は、通常の五倍の分量になった。
「本日は多事多難であった。以下、時系列で記録する」
「昨夜。病室に戻ったとき、閣下が少女の手を握っておられた。あの光景を見た瞬間、私の中の何かが静かに完全崩壊した。しかし薬を届けに来た直後であり、医療員を呼びに行く必要があり、笑いを堪えながら退室した。堪えきれていなかった可能性があることは認める」
「その後。少女が目を覚まし、閣下が手を離そうとしたとき、少女が名残惜しそうに声を出した。閣下が慌てて手を握り直した。あの場面を何と呼べばいいのか、この世界の言語には適切な言葉がない。前世の言語を使うなら、尊死案件である」
「続いて。少女が閣下に『おじさんの手、大きい』と言った場面。閣下の表情が一瞬で石になった。私は退室しなければならなかったので退室したが、廊下に出た瞬間に壁に手をついた。笑いを堪えるためである。堪えきれていなかったとしても、私は悪くない」
「帰り道。少女が自然に閣下の手を掴んで歩いた。閣下が戸惑いながらもそのまま繋いで歩いた。あの光景を見て私の涎腺と涙腺が同時に崩壊しかけたことを、ここに記録する。少女の前でそれをしなかった私を褒めたい」
「今朝の件については。声が漏れたことは不覚であった。防音の魔道具を設置すると閣下がおっしゃっていた。今後はその魔道具に全力で依存する予定である。グラントさんにも見られた。今後グラントさんと目を合わせられるかどうか、不明である」
「夜の打ち合わせについては。閣下もグラントさんも、非常に大人な対応をしてくださった。私もノーコメントで応じた。これが正解だったと思う」
「本日の総括。昨夜の閣下は、ゲームの全スチルを合算しても余りある尊さだった。苦悩する横顔、オロオロする姿、少女の手を握り直す手、少女と繋いで歩く姿。これらは全て、ゲームには存在しなかった場面だ。ゲームのライアス様も尊かったが、現実のライアス様はゲームの上位互換どころか、別の何かだ。語彙では足りない。別紙三十枚でも足りない気がするが、書き続ける。なぜならこれは義務だからだ」
「忘れないうちに記録する。少女が回復した。朝、医療院を出るときの少女の顔は、昨夜の苦しそうな顔とは別人のようだった。あの顔を見たとき、胸の奥に温かいものがあった。閣下への萌えとは別の場所にある、静かな温かさだ。あの子が元気でいてくれることが、嬉しかった」
「年長の少年についても記録する。今日、あの子が自分から『また来るのか』と聞いてきた。最初に会った日のことを思うと、あの一言がどれだけ大事か、言葉にならない。信用されたわけではない。でも扉が少しだけ開いた。それだけで、今日来た意味があった。あの子が少しずつ、自分のために声を上げられるようになってほしい。急がなくていい。ただ、いつかそうなれるように、私たちは通い続ける」
「最後に一点。おのれ、ライアス。この私をここまで追い詰めた人間は、前世含め初めてだ。責任を取れ。いや、取らなくていい。このままでいてくれ。頼む」
別紙は三十二枚になった。
書き終えたのは、夜が白み始めるころだった。




