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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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やらかし(ノエル視点)

【ノエル視点】


 公爵邸の門をくぐったとき、グラントが玄関に立っていた。


 三人の顔を見た瞬間、グラントの表情が変わった。

 五十年の奉公人の顔が、一瞬、ただの心配していた老人の顔になった。


「……ご無事で」


「ただいま戻りました」


 ノエルは言った。


「少女は回復しました。今朝、スラムに戻っています」


「そうですか」


 グラントが少し、息をついた。


「それは……よかった」


 ライアスとノエルの顔を順番に見て、グラントはもう一度息をついた。


「お二人とも、一晩お休みになっていないですね」


「はい」


「本日の業務は昼過ぎからにしてください。それまでお休みを」


「グラントさん」


 ノエルは言った。


「各部署への連絡をクラウスに頼んでいいですか。今日の午前の予定を午後にずらす旨と、昨夜の件でご迷惑をおかけした旨をお伝えしたいので」


「わかりました」


「クラウス、お願いできますか」


「もちろんです」


 クラウスはすでに動き出していた。


「行ってきます」


 ライアスがグラントと何事か話し始めた。

 ノエルはそれを横目に、自室へ向かった。



 廊下を歩きながら、ノエルは何も考えないようにしていた。

 考えると、今すぐここで崩れ落ちそうだったからだ。


 自室の扉を開けた。

 中に入った。

 扉を閉めた。


 五秒、静かに立っていた。


(ぬぅわぁぁぁぁぁぁあああああああっ!!!!!!)


 声は出なかった。

 出なかったが、脳内で叫んだ。


 両手で顔を覆った。

 そのまま床の上で、陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回った。


(昨夜の閣下が)


(少女の寝台のそばにしゃがんで、手を握っていた閣下が)


(苦悩していた閣下が)


(何をどうしたらいいかわからなくてオロオロしていた閣下が)


(全方位から完全に神だった)


 ゲームの全ルートを攻略した。

 課金した。

 十七周した。

 しかしあんなシーンは一度も存在しなかった。


(ゲームにあの場面のスチルがなかったのは、制作者の怠慢だ)


(いや、あのシーンをスチルにしたら、プレイヤーが実際に死者を出していた可能性がある)


(制作者は命を守ったのかもしれない。しかし私は現物を至近距離で見てしまった)


 心配と苦悩が入り混じった閣下の横顔の色気に、鼻血でも涎でも出てしまえと思った。

 実際危うく出るところだった。

 少女のミルク粥が血で赤く染まる惨事になるところだった。


(鼻血で少女の粥を汚染するわけにはいかないという理性だけで、私は今夜を乗り切った)


 帰り道、少女に自然に手を掴まれて、戸惑いながらもそのまま繋いで歩いていた閣下の顔。

 あの可愛さで今度は涎が枯渇するほど垂れ流しになりかけた。


 のたうち回りながら、ふと思った。


(少女が、元気になった)


 朝、医療院を出るときの少女の顔が頭に浮かんだ。

 ミルク粥を食べて、少し頬に色が戻って、医者に「もう大丈夫」と言われて、少し誇らしそうな顔をしていた。


 あの顔が、良かった。

 本当に、良かった。

 悶え死にそうな感情の中に、それだけは、静かに、確かにあった。


(年長の子も)


 スラムに戻るとき、少年が「また来るのか」と聞いてきた。

 最初に会ったとき、この子は「何しに来た」「どっか行け」しか言わなかった。

 それが今日は、自分から声をかけてきた。


(少しだけ、開いてくれた)


 それがどれほど大事なことか、ノエルにはわかっていた。

 一夜で変わったわけではない。

 何度も通って、約束を守って、雨の日も来て、そうして少しずつ積み上げてきたものが、今日の一言になった。


(まだ信用されていない。でも、扉が少しだけ開いた)


 それだけで、十分だった。


 ノエルは床の上で、もう一度、静かに目を閉じた。


 みんな、無事だった。

 少女も、少年も、スラムの子たちも。

 今日は、それだけで十分だった。


(それにしても……)


(おのれ、ライアス……!)


(この私をここまで追い詰めるとは)


(ゲームの中でどれほどの修羅場をくぐってきたと思っているのか)


(前世込み四十年超の経験で培った耐性を、一夜で全部削りきるとは何事か)


(初めてですよ、ここまで私を悶え殺しかけた人は)


(せめてこの世界にカメラがあれば)


(あの病室の閣下を写真に収めて、一生拝み続けることができたのに)


(何故この世界にはカメラがないのか。神に問いたい)


 感涙が、ノエルの目から零れ落ちた。

 嬉し涙だった。

 悶え死にそうな嬉し涙だった。


 満面の笑みで天に向かって拳を突き上げながら、床の上で感動に浸っていた。


 そのとき。


 扉が開いた。


「何があった!」


 ライアスだった。

 グラントも後ろにいた。


 二人が部屋に飛び込んできた。

 視線が、床のノエルに向いた。


 涙と涎を流しながら、満面の笑みで天に向かって拳を突き上げているノエルに。


 沈黙が、部屋に落ちた。

 三者が見つめ合った。


 ライアスの顔が、これまで見たことのない種類の表情になった。

 非常に、気まずそうだった。


「……い、いや……大声が聞こえたから、何かあったかと……」


 ノエルは一秒で仕事モードに切り替えた。

 涙と涎を高速で拭き取った。


「申し訳ありません」


 ノエルは立ち上がった。


「声が少し漏れてしまったようです。ご心配をおかけしました。ご覧の通り、何事もございません」


「いや、あれ……お前……」


 ライアスがもう一度ノエルを見た。

 何かを言おうとして、やめた。

 また言おうとして、やめた。


「ご心配をおかけしました。大丈夫です。お休みをいただきます」


 ノエルは二人に向かって一礼した。


「失礼します」


 そのまま、扉の方向へ二人を誘導した。


「どうぞ、お気をつけて」


 ライアスが呆然としながら廊下へ出た。

 グラントが静かに後に続いた。


 扉を閉めた。


 ノエルは扉を背にして、ずるずると腰が抜けたように崩れ落ちた。

 両手で顔を覆った。


 十秒、静かにしていた。


(にょわぁぁぁぁぁぁああああああああああっ!!!!!!)


 脳内で絶叫した。


 見られた。

 見られてしまった。

 涙と涎で濡れた顔で天に向かって拳を突き上げているところを。

 公爵と家令に。


 廊下の向こうから、二人の気配がした。


「……防音の魔道具を、部屋に設置するか」


 ライアスの声だった。


「御意」


 グラントの声だった。


 足音が遠ざかっていった。


(顔が熱い)


(かつてない速度で熱い)


(別紙に書く。今夜必ず書く。恥ずかしすぎて書けないかもしれないが、書く。これは記録として残す義務がある)


 ノエルはしばらく扉に背をつけたまま、動けなかった。



 昼過ぎから仕事を始めた。


 何もなかった顔をして、仕事をした。

 完璧な仕事モードだった。


 しかし廊下でクラウスとすれ違ったとき、クラウスが少し引いた。


「……ノエルさん、なんか雰囲気が」


「何でもありません」


「いや、なんか……鬼気迫るというか……」


「気のせいです」


「気のせいかなあ……」


「気のせいです」


「……はい」


 クラウスが小走りで離れていった。


(仕事をするしかない。ひたすら仕事をする。仕事の中に感情を全部叩き込む)



 夜、執務室でライアスとグラントと三人で話し合いをした。


 ライアスは微妙に視線が定まっていなかった。

 グラントも、どことなく咳払いが多かった。


 ノエルは完全に前を向いて、真面目なお仕事モードを維持した。


「未亡人の皆さんは、問題なく仕事に入られています」


 グラントが言った。


「預かっている子供たちも、今のところ何も問題はありません」


「ありがとうございます。私も先日現場を見て回りましたが、ミルダさんを中心に、うまく回っていると感じました」


「孤児院の改装の進捗ですが」


 グラントは書類をめくった。


「大工の手配ができました。来週から本格的に入ります」


「なるべく急いでくれ」


 ライアスが言った。


「はい」


 ノエルは続けた。


「改装と並行して、孤児院で働く人間の選定も進めます。まず一名、閣下に面談をしていただきたい候補がいます」


「誰だ」


「視察でお会いした、カルロスという元兵士です。腕を失った方です。字と計算ができて、面談受諾の意志があります。候補の中で一番早く動けそうですので」


「わかった。日程を調整する」


「ありがとうございます」


 三人の間に、少し間があった。


 ライアスが書類を見ながら言った。


「……昼間のことは」


「何でもありません」


 ノエルは即座に言った。


「いや、だから……」


「何でもありません」


 ライアスが、グラントを見た。

 グラントが、天井を見た。


「……わかった」


 それ以上、誰も何も言わなかった。

 非常に賢明な判断だとノエルは思った。



 その夜の観察日誌は、通常の五倍の分量になった。


「本日は多事多難であった。以下、時系列で記録する」


「昨夜。病室に戻ったとき、閣下が少女の手を握っておられた。あの光景を見た瞬間、私の中の何かが静かに完全崩壊した。しかし薬を届けに来た直後であり、医療員を呼びに行く必要があり、笑いを堪えながら退室した。堪えきれていなかった可能性があることは認める」


「その後。少女が目を覚まし、閣下が手を離そうとしたとき、少女が名残惜しそうに声を出した。閣下が慌てて手を握り直した。あの場面を何と呼べばいいのか、この世界の言語には適切な言葉がない。前世の言語を使うなら、尊死案件である」


「続いて。少女が閣下に『おじさんの手、大きい』と言った場面。閣下の表情が一瞬で石になった。私は退室しなければならなかったので退室したが、廊下に出た瞬間に壁に手をついた。笑いを堪えるためである。堪えきれていなかったとしても、私は悪くない」


「帰り道。少女が自然に閣下の手を掴んで歩いた。閣下が戸惑いながらもそのまま繋いで歩いた。あの光景を見て私の涎腺と涙腺が同時に崩壊しかけたことを、ここに記録する。少女の前でそれをしなかった私を褒めたい」


「今朝の件については。声が漏れたことは不覚であった。防音の魔道具を設置すると閣下がおっしゃっていた。今後はその魔道具に全力で依存する予定である。グラントさんにも見られた。今後グラントさんと目を合わせられるかどうか、不明である」


「夜の打ち合わせについては。閣下もグラントさんも、非常に大人な対応をしてくださった。私もノーコメントで応じた。これが正解だったと思う」


「本日の総括。昨夜の閣下は、ゲームの全スチルを合算しても余りある尊さだった。苦悩する横顔、オロオロする姿、少女の手を握り直す手、少女と繋いで歩く姿。これらは全て、ゲームには存在しなかった場面だ。ゲームのライアス様も尊かったが、現実のライアス様はゲームの上位互換どころか、別の何かだ。語彙では足りない。別紙三十枚でも足りない気がするが、書き続ける。なぜならこれは義務だからだ」


「忘れないうちに記録する。少女が回復した。朝、医療院を出るときの少女の顔は、昨夜の苦しそうな顔とは別人のようだった。あの顔を見たとき、胸の奥に温かいものがあった。閣下への萌えとは別の場所にある、静かな温かさだ。あの子が元気でいてくれることが、嬉しかった」


「年長の少年についても記録する。今日、あの子が自分から『また来るのか』と聞いてきた。最初に会った日のことを思うと、あの一言がどれだけ大事か、言葉にならない。信用されたわけではない。でも扉が少しだけ開いた。それだけで、今日来た意味があった。あの子が少しずつ、自分のために声を上げられるようになってほしい。急がなくていい。ただ、いつかそうなれるように、私たちは通い続ける」


「最後に一点。おのれ、ライアス。この私をここまで追い詰めた人間は、前世含め初めてだ。責任を取れ。いや、取らなくていい。このままでいてくれ。頼む」


 別紙は三十二枚になった。


 書き終えたのは、夜が白み始めるころだった。

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