支える手(ライアス視点)
【ライアス視点】
医療院に着いたとき、クラウスがすでに医療員を呼んでいた。
ライアスは背中から少女を下ろした。
医療員が少女を診察室に連れていった。
ライアスとノエル、年長の少年、クラウスの四人が、廊下で待った。
少年は壁に背をつけて、腕を組んでいた。
ライアスたちを見ていなかった。
しかし逃げなかった。
それだけは、わかった。
しばらくして、医療員が出てきた。
「風邪ですね」
その一言で、廊下の空気が少し、緩んだ。
「暖かくして安静にしていれば、大丈夫です。今は眠っています」
「他に問題はないか」
ライアスが聞いた。
「熱はありますが、今夜しっかり休めれば、明日には落ち着くと思います。ただ、あのくらいの年齢の子が雨に濡れたまま放置されていると、こじらせることもありますので」
「わかった」
ノエルが小さく息をついた。
クラウスも、肩の力が少し抜けた様子だった。
少年は、壁に背をつけたまま、何も言わなかった。
しかし腕を組んでいた力が、少しだけ、緩んでいた。
ライアスはそれを見ていた。
医療員が診察費の話を始めようとしたとき、少年が口を開いた。
「金は、ない」
硬い声だった。
「今すぐに払えないから、待ってもらえないか。いつかは払う」
医療員が少し困った顔をした。
「お待ちください」
ノエルが言った。
「今回の費用は、私たちが出します」
少年が、ノエルを見た。
「……なんで」
「連れてきたのは私たちですので」
「恩を売って、俺たちをどうするつもりだ」
ライアスは少し、息が止まった。
(恩を売る、という言葉が出た)
怒りが動いた。
動いたが、先にノエルが一歩前に出た。
ライアスの正面に入ってきた。
(止めた。私を止めた)
ノエルは少年の正面に立った。
静かに、しかしはっきりと言った。
「ただの風邪でも、雨風にさらされていれば悪化する可能性があります。あのまま苦しませておくことは、できませんでした」
少年は黙っていた。
「苦しんでいるあの子を見ていることが、辛かったです」
「……それが何だ」
「あなたは、その辛さと恐怖を、ずっと一人で抱えてきた。あそこにいる子たちを、ずっと一人で守ってきた」
少年が、少し目を細めた。
「大人の判断で勝手に連れてきたことは、申し訳なかったと思っています」
ノエルは続けた。
「あなたに話を通すべきでした」
「……今さら言っても遅い」
「そうですね。だから謝っています」
少年が少し、黙った。
「ただ」
ノエルは続けた。
「あなたがどれだけ頑張っても、限界はあります。私にも、あります」
「何が言いたい」
「今すぐでなくていいです。いつか、あなたと一緒に、みんなを支えていけるようになりたい」
ノエルは静かに言った。
「今回は私たちが独断で連れてきてしまった。だから、医療院の負担は私たちにさせてもらえませんか」
少年は、ノエルをしばらく見ていた。
それから、そっぽを向いた。
「……勝手にしろ」
低い声だった。
しかしそれだけでは終わらなかった。
「大人はいつも勝手だ」
少年は続けた。
「親父は戦争に行って、帰ってこなかった。おふくろは、だんだん帰ってこなくなって、いなくなった」
誰も何も言わなかった。
「家を追い出されて、雨風で凍えていたとき、誰も助けなかった。見ていた大人たちがいたのに。助けてくれたのは、スラムにいた兄ちゃんや姉ちゃんだけだった」
少年の声は、怒っていた。
しかし震えていた。
「その兄ちゃんや姉ちゃんも、白い服の連中が連れていった。誰も……誰も、守ってくれなかった。だから、俺はあんたたちのことも信用しない。どうせ、いつかいなくなる」
静かな怒りだった。
静かな悲しみだった。
ライアスは何も言えなかった。
言葉が、出なかった。
そのとき、クラウスが少年の肩に手を置いた。
「そうだ」
クラウスが言った。
「俺たちはずっとお前たちのそばにはいられない」
少年が、クラウスを見た。
「だけど、そばにいることと、支えることは別の問題だ」
クラウスは続けた。
「あそこにいる子達も、お前もよくやっている。でも、よくやっているだけでは、何も解決しない。お前が悪いわけじゃないのに、お前は人よりも早く大人にならなきゃいけなかった」
少年は黙っていた。
「大人だって、一人では何もできないことの方が多い。今すぐ信用しろとか、安心しろとかは言えない。だけど今、俺たちがここにいるのも事実だ」
クラウスは少年の顔を見た。
「だから、俺たちを利用してくれ。お前も、大人を頼って、甘えていい。俺たちも、できることとできないことはちゃんと伝える。何かを言われたからって、いなくなることはない」
少年は何も言わなかった。
うつむいた。
返事はなかった。
クラウスも返事を求めなかった。
ただ、少年のそばに立っていた。
◇
ノエルがライアスに視線を向けた。
目で、こちらに来てほしいと言っていた。
ライアスはクラウスと少年を残して、廊下を移動した。
そこへ医療員が来た。
「少女が眠っています。よろしければ、中に」
「ありがとうございます」
ノエルが言った。
「薬は出ますか」
「出します。処方してきます」
「受け取りに行きます。私が行ってきます」
医療員とノエルが廊下を歩いていった。
病室に入った。
小さな部屋だった。
寝台が一つあって、少女がそこに寝ていた。
白い布が、小さな体を覆っていた。
息が、少し荒かった。
苦しそうに、眉間に皺が寄っていた。
ライアスは、どうすればいいかわからなかった。
立っているしかなかった。
近づいていいのか、黙っていた方がいいのか、何も判断できなかった。
(この娘は、何歳なんだ。五歳か。六歳か)
こんなに小さかったのか、と思った。
背負ってきたときは、それほど重さを感じなかった。
しかし寝ている姿を見ると、信じられないくらい小さかった。
荒い息が続いていた。
眉間の皺が、深くなった。
少女の唇が、かすかに動いた。
「……ママ」
小さな声だった。
夢の中で、誰かを呼んでいた。
ライアスは、気がついたら少女の寝台のそばにしゃがんでいた。
どうすればいいかわからなかった。
しかし、何もしないままでいられなかった。
少女の小さな手を、そっと握った。
少女が少し、動いた。
眉間の皺が、少し、和らいだ。
荒かった息が、少しだけ、落ち着いた。
ライアスは動けなかった。
そのまま、手を握っていた。
記憶が、浮かんだ。
自分が、小さかったころのことだ。
ライアスは幼い頃から、魔力量が多すぎた。
体がそれに耐えられず、よく体調を崩した。
使用人はいた。
周りに大人はいた。
しかしベッドの中で苦しんでいるとき、どうしようもない孤独があった。
誰かがいても、孤独だった。
ある夜、扉が開いた。
母だった。
いつも忙しくて、滅多に顔を見せない母が、ライアスの部屋に来た。
何も言わなかった。
ただ、寝台のそばに座って、ライアスの額に手を当てた。
少し冷たい手だった。
その冷たさが、苦しい熱の中で、心地よかった。
それから母は、ライアスの手を握った。
それだけだった。
翌朝、目が覚めたとき、母はいなかった。
しかし夜に手を握られていたことは、今でも覚えていた。
(子供は勝手に育つ)
自分はそう言っていた。
先日ベルナード嬢に言われるまで、そう思っていた。
(何も考えていなかった)
母の手の冷たさを、今でも覚えている。
母に手を握られたことを、今でも覚えている。
それがあったから、孤独な夜を越えてこられたのかもしれない。
孤独に震えていたあの夜の自分には、母がいた。
この少女には、誰がいるのか。
親父は戦争に行って帰ってこなかった。
おふくろはいつの間にかいなくなった。
助けてくれた兄ちゃんや姉ちゃんも、連れていかれた。
(誰も守ってくれなかった、と、あの少年は言った)
ライアスは、少女の手を握ったまま、少し俯いた。
(まだ、間に合うだろうか)
自問した。
答えは出なかった。
しかし問いは、静かに、深く、胸の中に残った。
少女の息が、少し、穏やかになっていた。




