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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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支える手(ライアス視点)

【ライアス視点】


 医療院に着いたとき、クラウスがすでに医療員を呼んでいた。


 ライアスは背中から少女を下ろした。

 医療員が少女を診察室に連れていった。


 ライアスとノエル、年長の少年、クラウスの四人が、廊下で待った。


 少年は壁に背をつけて、腕を組んでいた。

 ライアスたちを見ていなかった。

 しかし逃げなかった。


 それだけは、わかった。


 しばらくして、医療員が出てきた。


「風邪ですね」


 その一言で、廊下の空気が少し、緩んだ。


「暖かくして安静にしていれば、大丈夫です。今は眠っています」


「他に問題はないか」


 ライアスが聞いた。


「熱はありますが、今夜しっかり休めれば、明日には落ち着くと思います。ただ、あのくらいの年齢の子が雨に濡れたまま放置されていると、こじらせることもありますので」


「わかった」


 ノエルが小さく息をついた。

 クラウスも、肩の力が少し抜けた様子だった。


 少年は、壁に背をつけたまま、何も言わなかった。

 しかし腕を組んでいた力が、少しだけ、緩んでいた。


 ライアスはそれを見ていた。


 医療員が診察費の話を始めようとしたとき、少年が口を開いた。


「金は、ない」


 硬い声だった。


「今すぐに払えないから、待ってもらえないか。いつかは払う」


 医療員が少し困った顔をした。


「お待ちください」


 ノエルが言った。


「今回の費用は、私たちが出します」


 少年が、ノエルを見た。


「……なんで」


「連れてきたのは私たちですので」


「恩を売って、俺たちをどうするつもりだ」


 ライアスは少し、息が止まった。


(恩を売る、という言葉が出た)


 怒りが動いた。

 動いたが、先にノエルが一歩前に出た。


 ライアスの正面に入ってきた。


(止めた。私を止めた)


 ノエルは少年の正面に立った。

 静かに、しかしはっきりと言った。


「ただの風邪でも、雨風にさらされていれば悪化する可能性があります。あのまま苦しませておくことは、できませんでした」


 少年は黙っていた。


「苦しんでいるあの子を見ていることが、辛かったです」


「……それが何だ」


「あなたは、その辛さと恐怖を、ずっと一人で抱えてきた。あそこにいる子たちを、ずっと一人で守ってきた」


 少年が、少し目を細めた。


「大人の判断で勝手に連れてきたことは、申し訳なかったと思っています」


 ノエルは続けた。


「あなたに話を通すべきでした」


「……今さら言っても遅い」


「そうですね。だから謝っています」


 少年が少し、黙った。


「ただ」


 ノエルは続けた。


「あなたがどれだけ頑張っても、限界はあります。私にも、あります」


「何が言いたい」


「今すぐでなくていいです。いつか、あなたと一緒に、みんなを支えていけるようになりたい」


 ノエルは静かに言った。


「今回は私たちが独断で連れてきてしまった。だから、医療院の負担は私たちにさせてもらえませんか」


 少年は、ノエルをしばらく見ていた。

 それから、そっぽを向いた。


「……勝手にしろ」


 低い声だった。


 しかしそれだけでは終わらなかった。


「大人はいつも勝手だ」


 少年は続けた。


「親父は戦争に行って、帰ってこなかった。おふくろは、だんだん帰ってこなくなって、いなくなった」


 誰も何も言わなかった。


「家を追い出されて、雨風で凍えていたとき、誰も助けなかった。見ていた大人たちがいたのに。助けてくれたのは、スラムにいた兄ちゃんや姉ちゃんだけだった」


 少年の声は、怒っていた。

 しかし震えていた。


「その兄ちゃんや姉ちゃんも、白い服の連中が連れていった。誰も……誰も、守ってくれなかった。だから、俺はあんたたちのことも信用しない。どうせ、いつかいなくなる」


 静かな怒りだった。

 静かな悲しみだった。


 ライアスは何も言えなかった。

 言葉が、出なかった。


 そのとき、クラウスが少年の肩に手を置いた。


「そうだ」


 クラウスが言った。


「俺たちはずっとお前たちのそばにはいられない」


 少年が、クラウスを見た。


「だけど、そばにいることと、支えることは別の問題だ」


 クラウスは続けた。


「あそこにいる子達も、お前もよくやっている。でも、よくやっているだけでは、何も解決しない。お前が悪いわけじゃないのに、お前は人よりも早く大人にならなきゃいけなかった」


 少年は黙っていた。


「大人だって、一人では何もできないことの方が多い。今すぐ信用しろとか、安心しろとかは言えない。だけど今、俺たちがここにいるのも事実だ」


 クラウスは少年の顔を見た。


「だから、俺たちを利用してくれ。お前も、大人を頼って、甘えていい。俺たちも、できることとできないことはちゃんと伝える。何かを言われたからって、いなくなることはない」


 少年は何も言わなかった。

 うつむいた。

 返事はなかった。


 クラウスも返事を求めなかった。

 ただ、少年のそばに立っていた。


 ◇


 ノエルがライアスに視線を向けた。

 目で、こちらに来てほしいと言っていた。


 ライアスはクラウスと少年を残して、廊下を移動した。

 そこへ医療員が来た。


「少女が眠っています。よろしければ、中に」


「ありがとうございます」


 ノエルが言った。


「薬は出ますか」


「出します。処方してきます」


「受け取りに行きます。私が行ってきます」


 医療員とノエルが廊下を歩いていった。


 病室に入った。


 小さな部屋だった。

 寝台が一つあって、少女がそこに寝ていた。

 白い布が、小さな体を覆っていた。


 息が、少し荒かった。

 苦しそうに、眉間に皺が寄っていた。


 ライアスは、どうすればいいかわからなかった。

 立っているしかなかった。


 近づいていいのか、黙っていた方がいいのか、何も判断できなかった。


(この娘は、何歳なんだ。五歳か。六歳か)


 こんなに小さかったのか、と思った。

 背負ってきたときは、それほど重さを感じなかった。

 しかし寝ている姿を見ると、信じられないくらい小さかった。


 荒い息が続いていた。

 眉間の皺が、深くなった。


 少女の唇が、かすかに動いた。


「……ママ」


 小さな声だった。

 夢の中で、誰かを呼んでいた。


 ライアスは、気がついたら少女の寝台のそばにしゃがんでいた。


 どうすればいいかわからなかった。

 しかし、何もしないままでいられなかった。


 少女の小さな手を、そっと握った。


 少女が少し、動いた。

 眉間の皺が、少し、和らいだ。

 荒かった息が、少しだけ、落ち着いた。


 ライアスは動けなかった。

 そのまま、手を握っていた。


 記憶が、浮かんだ。


 自分が、小さかったころのことだ。


 ライアスは幼い頃から、魔力量が多すぎた。

 体がそれに耐えられず、よく体調を崩した。


 使用人はいた。

 周りに大人はいた。


 しかしベッドの中で苦しんでいるとき、どうしようもない孤独があった。

 誰かがいても、孤独だった。


 ある夜、扉が開いた。

 母だった。


 いつも忙しくて、滅多に顔を見せない母が、ライアスの部屋に来た。


 何も言わなかった。

 ただ、寝台のそばに座って、ライアスの額に手を当てた。


 少し冷たい手だった。

 その冷たさが、苦しい熱の中で、心地よかった。


 それから母は、ライアスの手を握った。

 それだけだった。


 翌朝、目が覚めたとき、母はいなかった。

 しかし夜に手を握られていたことは、今でも覚えていた。


(子供は勝手に育つ)


 自分はそう言っていた。

 先日ベルナード嬢に言われるまで、そう思っていた。


(何も考えていなかった)


 母の手の冷たさを、今でも覚えている。

 母に手を握られたことを、今でも覚えている。

 それがあったから、孤独な夜を越えてこられたのかもしれない。


 孤独に震えていたあの夜の自分には、母がいた。


 この少女には、誰がいるのか。


 親父は戦争に行って帰ってこなかった。

 おふくろはいつの間にかいなくなった。

 助けてくれた兄ちゃんや姉ちゃんも、連れていかれた。


(誰も守ってくれなかった、と、あの少年は言った)


 ライアスは、少女の手を握ったまま、少し俯いた。


(まだ、間に合うだろうか)


 自問した。

 答えは出なかった。

 しかし問いは、静かに、深く、胸の中に残った。


 少女の息が、少し、穏やかになっていた。


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