約束の積み重ね(ノエル視点)
【ノエル視点】
孤児院案の設計を始めてから、三日が経った。
机の上に、紙が積まれている。
建物の候補地。
概算の費用。
管理体制の草案。
数字は出てきた。
仕組みの骨格も見えてきた。
しかしノエルは、一番大事なことがまだ足りないとわかっていた。
(子供たちのことが、わかっていない)
何人いるのか、正確には知らない。
どんな子がいるのか、年長の子しか顔を見ていない。
何を怖がっていて、何をされてきたのか、表面しか見えていない。
孤児院を作るのは、制度の話だ。
しかし子供たちと信頼を作るのは、全く別の話だ。
(制度と信頼は、別物だ)
良くできた制度でも、入ってくる人間が信頼できなければ、子供たちには意味がない。
ノエルは紙を横に置いた。
「クラウス」
「はい!」
扉の向こうから、すぐに返事が来た。
「今日の午後、空いていますか」
「空けます」
「スラムに行きます」
少し間があった。
「……また行くんですね」
「はい。何度も行きます」
「わかりました」
クラウスが言った。
「俺も行きます」
「ありがとうございます」
「ノエルさんが行くと言ったら、止めても行くのは知ってるんで」
「賢いですね、クラウス」
「褒められてる気がしないんですけど」
ノエルは少し笑った。
午後、二人でスラムに向かった。
今日は見回りの騎士が一名、少し離れた距離からついてきている。
ライアスが手配してくれた見回り強化の一環だ。
目立たないように、しかし確実にそこにいる形で動いている。
(ありがたい。でも子供たちが警戒するといけないので、今日は距離を取ってもらっている)
路地に入った。
子供たちがいた。
ノエルたちを見た瞬間、やはり距離を取った。
しかし前回と少し違うことがあった。
逃げなかった。
警戒しながら、しかし、その場に留まっていた。
(前回来たとき、何も悪いことは起きなかった。それは覚えていてくれた、ということか)
年長の子が前に出た。
「また来たのか」
「来ました」
「何しに来た」
「この間の続きを話したかったので」
「この間の続き」
年長の子が繰り返した。
「何の続きだ」
「字の話です。読めると、できることが増えると言いましたよね」
「言った」
「今日もそれを言いに来たわけじゃないです」
ノエルは続けた。
「ただ、来ると言ったので来ました」
子供が、少しだけ、何かを測るような目でノエルを見た。
「……それだけか」
「今日はそれだけです」
子供は何も言わなかった。
その沈黙を、ノエルはつぶさなかった。
隣でクラウスが少し、体の向きを変えた。
緊張を解くような、さりげない動きだった。
「あー……俺、前に似たようなとこにいたことあってさ」
クラウスが言った。
ぼそっとした口調だった。
年長の子が、少しクラウスを見た。
「似たようなとこ、って」
「似たような路地。似たような感じの仲間が何人かいた。ガキの頃の話だけど」
「……そうか」
「お前ら、ここで何人いる」
子供が少し警戒した。
「なんで聞く」
「別に、何かするわけじゃない。ただ気になっただけ」
クラウスはあっさり言った。
「答えたくなければ答えなくていい」
子供は少し間を置いた。
「……十一人だ」
「そうか」
それだけだった。
クラウスはそれ以上聞かなかった。
子供も、それ以上話さなかった。
しかしその間は、最初よりは少し、柔らかかった。
(クラウスがいてくれて、よかった)
ノエルは静かにそう思った。
少しの間、その場に立っていた。
子供たちはまだ距離を取っていたが、逃げようとはしなかった。
一番小さい子が、年長の子の後ろから少しだけ顔を出して、ノエルを見た。
ノエルは目が合っても、何もしなかった。
じっと見ている子を、じっと見返した。
子供が少し、引っ込んだ。
(怖がらせたか、と思ったが、少し顔を出したままだった)
まだここにいていい、と判断してくれているのかもしれなかった。
「また来てもいいですか」
ノエルは年長の子に言った。
「……来るのを止める力はない」
「止めたければ言ってください。来ません」
子供が、少し黙った。
「……別に、来るなとは言っていない」
「わかりました」
それだけで、今日はその場を離れた。
路地を出て、通りに戻ってから、クラウスが言った。
「十一人、か」
「はい」
「思ったより、少ないですね」
「でも、全員ではないかもしれません。どこかに散っている子もいるかもしれない」
「そうですね」
クラウスは少し考えた。
「さっきの年長の子、俺たちのこと、ちゃんと見てましたよ。何者か、測ってる感じで」
「わかっていると思います。その子が認めてくれないと、他の子は動かないです」
「あの子、いくつぐらいですかね」
「十三か、十四か。でも、目が大人みたいでした」
「……そうですね」
クラウスは少し、遠くを見た。
「ガキの頃から、ああいう目をしてる子、いましたよ。早く大人みたいな目になっちゃう」
ノエルは何も言わなかった。
クラウスも、それ以上言わなかった。
二人でしばらく、並んで歩いた。
「また明後日来ますか」
クラウスが聞いた。
「来ます」
「じゃあ俺も行きます」
「ありがとうございます」
「来ると言った以上、行くのは当たり前ですよ」
クラウスは少し笑った。
「ノエルさんがいつもそう言ってるじゃないですか」
ノエルは少し、横を見た。
「クラウス、本当に助かっています」
「今日は俺が喋っただけですけどね」
クラウスは照れたように言った。
「あの子たち、俺が昔いた場所の子たちと少し重なって。なんか、他人事じゃなくて」
「それが伝わっていると思います。今日、少し距離が縮まりました」
「そうですかね」
「あの子が十一人と答えてくれたのは、クラウスが聞いたからだと思います」
クラウスが少し黙った。
「……俺でよければ、何回でも来ます」
「よろしくお願いします」
屋敷に戻ってから、ノエルは机に向かった。
今日のことをメモした。
人数:確認分十一名。全員かは不明。
年長の子:十三〜十四歳と思われる。代表格。警戒強いが話せる。
小さい子:五歳前後が数名。年長の子の後ろに隠れている。
今日の変化:逃げなかった。「来るなとは言っていない」の言葉あり。
メモを書き終えてから、少し考えた。
(今日の一番大事なことは、行ったことだ)
何かをしたわけではない。
信頼を勝ち取ったわけでもない。
ただ、来ると言って、来た。
それだけだ。
(でも、それだけでいい。今日は)
孤児院案の紙を引っ張り出した。
一行、書き足した。
「信頼の構築:現在進行中。第一段階。繰り返し通うことが先決。」
それだけ書いて、紙をまとめた。
今夜の観察日誌には、短く書いた。
「本日、クラウスとスラムを訪問。十一名の孤児を確認。年長の子が代表格。今日は来ると言って来ただけだが、それが今日やるべきことだったと思う。クラウスが自分の過去の話をしてくれたことで、少しだけ場の空気が変わった。クラウスは本当に頼りになる。」
一行空けて、書き足した。
「なお本日は閣下との接触がなかった。これは非常に残念だが、来週の孤児院案の提出時に補填できると考えている。今日の閣下の横顔は執務室ですれ違った一瞬だけだったが、それはそれで保存済みである。」




