深く静かに落ちてきた言葉(ライアス視点)
【ライアス視点】
スラム街に入るのは、今日が初めてだった。
市場の喧騒が遠くなり、路地が細くなり、建物が古くなった。
ベルナード嬢は迷いなく歩いた。
来慣れている足取りだった。
路地の奥に、子供たちがいた。
前回ベルナード嬢が話しかけた子供たちだと、説明を受けていた。
しかし子供たちは、ライアスたちを見た瞬間、一斉に距離を取った。
(警戒している)
「こんにちは」
ベルナード嬢が言った。
「また来ました」
一番年上らしい子が、前に出た。
ライアスを見た。
「その人、誰だ」
「一緒に来た人です」
「前に来たときとは別の人間が増えてる。多すぎる」
「今日は話をしたいだけです。何もしません」
「前もそう言った大人が何かしたんだよ」
子供の声は、低かった。
年齢の割に、低かった。
ライアスは少し前に出た。
「……頼れる大人は、いなかったのか」
子供たちが、一斉にライアスを見た。
その目が。
蔑んでいた。
子供の目が、大人を蔑んでいた。
「何も知らないくせに」
一番年上の子が言った。
「何も知らないくせに、口だけは大人だな」
(……この子に、そういう目をさせたのは、誰だ)
「大人は俺たちを利用する。使えるだけ使って、終わりだ」
子供は続けた。
「俺たちがゴミを拾う。溝をさらう。誰もやりたくない仕事をやる。でも、もらえる金は、パンが買えるかどうかだ。それで十分だろって顔をして渡してくる」
「仕事をもらえているなら、まだ救いがあるんじゃないか」
子供が、少し目を細めた。
「救い、か。じゃあ聞くけど、救いのある仕事をさせてもらってる俺たちが、なんで大人を信用できないと思う」
「……」
「仕事をくれる大人がいる一方で、ある程度大きくなった仲間が、いなくなるんだよ」
子供の声が、一段低くなった。
「ここにいた仲間が。気がついたら、消えてる」
ライアスは少し、止まった。
「いなくなる、とは」
「連れていかれるんだよ」
子供の声が、さらに低くなった。
「白い服を着た連中が、時々来る。子供を連れていこうとする。断っても、また来る。気がついたら、いなくなってる仲間がいる」
後ろで、小さい子が誰かにしがみついた。
「その後どうなっているかは、わからない」
子供は続けた。
「戻ってきた仲間は、一人もいない」
(白い服を着た連中、とは何者だ)
ライアスは、その問いを今は口に出さなかった。
クラウスが、ライアスの隣に近づいてきた。
「閣下」
クラウスが静かに、しかしはっきりと言った。
「俺の育った町でも、同じようなことがありました。子供だけで固まって生きているところが、町外れにあって。いなくなっても、身寄りのない子たちだから、誰も本気で探さない。分からないまま、消えていく子たちがいました」
クラウスは続けた。
「俺はそのとき、何もできなかった。今も、あいつらがどうなったか知らない。だからここに来たとき、他人事に思えなくて」
ライアスはクラウスを見た。
クラウスは子供たちの方を向いたまま、真剣な顔をしていた。
「大人を頼るどころか」
子供が続けた。
「大人が俺たちを食い物にしてる。それが、ここだ」
子供の目は、まだ蔑んでいた。
しかし今は、その目の奥に、別のものも見えた。
怯え、だった。
強がっているが、怯えていた。
(この子は、怖いのに、強がっている)
(何年、そうしてきたのか)
ライアスは、何も言えなかった。
さっき自分が言った「頼れる大人は、いなかったのか」という言葉が、頭の中で、ただ軽く浮いていた。
子供だけのスラムを出た。
路地から通りに戻ったところで、ライアスは足が止まった。
止まった、というより、座り込んだ。
通りの端の石段に、そのまま腰を下ろした。
クラウスが「閣下」と声をかけたが、ライアスは返事をしなかった。
ベルナード嬢が、少し離れたところに立って、同じ方向を見ていた。
しばらく、誰も話さなかった。
やがてベルナード嬢が口を開いた。
独り言のような声だった。
「白い服の連中は、別として」
ライアスは顔を上げなかった。
「街の人たちは、あの子たちにゴミ拾いや溝さらいをさせています。対価は、パンをやっと買えるかどうかの金額で」
「……搾取だ」
「そうとも言えます。でも」
ベルナード嬢は続けた。
「ゴミ拾いも溝さらいも、公爵家でも資金を出して定期的に行っています。本来、街の人が子供にやらせなくてもいい仕事です」
「では、なぜやらせている」
「救えないから、でも見捨てられないから、だと思います」
ライアスは少し、顔を上げた。
「子供がある程度のお金を持つと、別の輩に奪われることがあります。その日のパンが買えるくらいの金しか渡さないのは、現金が手元に貯まらないようにするためだと、私は見ています。子供の安全のために、あえてそうしている人たちもいるのだと思います」
(子供の安全のために、最低限の金しか渡さない)
(それが、精一杯の優しさだということか)
「……知らなかった」
ライアスは、自分の声が少し掠れているのに気づいた。
「補助金があれば足りる。子どもは勝手に育つ。私はそう思っていた」
ベルナード嬢は何も言わなかった。
「三日前に、お前に言われたとき、何がおかしいのかわからなかった。今日来て、少し、わかった気がする」
「少し、で十分です」
ベルナード嬢が静かに言った。
「最初から全部わかる人間はいません」
「しかし私は、領主だ」
「はい」
「領主が、これほど見えていなかった」
「はい」
「……それは、言い訳のできない話だ」
ベルナード嬢が、少しライアスの方を向いた。
「閣下」
「なんだ」
「一つだけ、言ってもいいですか」
「言え」
「今日、閣下が一人で視察に来ていたら、あの女性が税の話をしてくれたかどうか、わかりません」
ベルナード嬢は続けた。
「私が先に話を聞いていたから、あの方は話してくれました。クラウスがいたから、子供だけのスラムで起きていることを説明してもらえました」
ライアスは黙って聞いていた。
「見えなかったのは、一人だったからです。一人では見えないものが、複数の目があれば見えることがあります」
ベルナード嬢は静かに、しかしはっきりと言った。
「閣下は一人ではありません。だから、後悔も一人でしないでください」
(一人ではない)
その言葉が、静かに落ちてきた。
想定していなかった重さで、落ちてきた。
ライアスは少し、ベルナード嬢を見た。
仕事の顔をしていた。
感情的ではなかった。
しかしその言葉は、仕事の言葉ではなかった。
(この娘は、今、何を言ったのか)
一人ではない。
後悔も一人でするな。
(それは、どういう意味の言葉だ)
答えを出す前に、ベルナード嬢が続けた。
「一つ一つ、一緒に解決していきましょう」
仕事の声に戻っていた。
しかし先ほどの言葉は、まだライアスの中に残っていた。
ライアスは石段から立ち上がった。
「……わかった」
それだけ言った。
クラウスが、ライアスの隣に並んだ。
「俺も、一緒にいます」
短く、はっきりと言った。
ライアスはクラウスを見た。
クラウスは真っ直ぐ前を向いていた。
ライアスは何も言わなかった。
しかし、少し、肩の力が抜けた気がした。
三人で、屋敷への道を歩き始めた。
公都の通りは、夕方になっていた。
人の声が、遠くから聞こえた。




