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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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深く静かに落ちてきた言葉(ライアス視点)

【ライアス視点】


 スラム街に入るのは、今日が初めてだった。


 市場の喧騒が遠くなり、路地が細くなり、建物が古くなった。


 ベルナード嬢は迷いなく歩いた。

 来慣れている足取りだった。


 路地の奥に、子供たちがいた。

 前回ベルナード嬢が話しかけた子供たちだと、説明を受けていた。


 しかし子供たちは、ライアスたちを見た瞬間、一斉に距離を取った。


(警戒している)


「こんにちは」


 ベルナード嬢が言った。


「また来ました」


 一番年上らしい子が、前に出た。

 ライアスを見た。


「その人、誰だ」


「一緒に来た人です」


「前に来たときとは別の人間が増えてる。多すぎる」


「今日は話をしたいだけです。何もしません」


「前もそう言った大人が何かしたんだよ」


 子供の声は、低かった。

 年齢の割に、低かった。


 ライアスは少し前に出た。


「……頼れる大人は、いなかったのか」


 子供たちが、一斉にライアスを見た。

 その目が。

 蔑んでいた。


 子供の目が、大人を蔑んでいた。


「何も知らないくせに」


 一番年上の子が言った。


「何も知らないくせに、口だけは大人だな」


(……この子に、そういう目をさせたのは、誰だ)


「大人は俺たちを利用する。使えるだけ使って、終わりだ」


 子供は続けた。


「俺たちがゴミを拾う。溝をさらう。誰もやりたくない仕事をやる。でも、もらえる金は、パンが買えるかどうかだ。それで十分だろって顔をして渡してくる」


「仕事をもらえているなら、まだ救いがあるんじゃないか」


 子供が、少し目を細めた。


「救い、か。じゃあ聞くけど、救いのある仕事をさせてもらってる俺たちが、なんで大人を信用できないと思う」


「……」


「仕事をくれる大人がいる一方で、ある程度大きくなった仲間が、いなくなるんだよ」


 子供の声が、一段低くなった。


「ここにいた仲間が。気がついたら、消えてる」


 ライアスは少し、止まった。


「いなくなる、とは」


「連れていかれるんだよ」


 子供の声が、さらに低くなった。


「白い服を着た連中が、時々来る。子供を連れていこうとする。断っても、また来る。気がついたら、いなくなってる仲間がいる」


 後ろで、小さい子が誰かにしがみついた。


「その後どうなっているかは、わからない」


 子供は続けた。


「戻ってきた仲間は、一人もいない」


(白い服を着た連中、とは何者だ)


 ライアスは、その問いを今は口に出さなかった。


 クラウスが、ライアスの隣に近づいてきた。


「閣下」


 クラウスが静かに、しかしはっきりと言った。


「俺の育った町でも、同じようなことがありました。子供だけで固まって生きているところが、町外れにあって。いなくなっても、身寄りのない子たちだから、誰も本気で探さない。分からないまま、消えていく子たちがいました」


 クラウスは続けた。


「俺はそのとき、何もできなかった。今も、あいつらがどうなったか知らない。だからここに来たとき、他人事に思えなくて」


 ライアスはクラウスを見た。

 クラウスは子供たちの方を向いたまま、真剣な顔をしていた。


「大人を頼るどころか」


 子供が続けた。


「大人が俺たちを食い物にしてる。それが、ここだ」


 子供の目は、まだ蔑んでいた。

 しかし今は、その目の奥に、別のものも見えた。


 怯え、だった。


 強がっているが、怯えていた。


(この子は、怖いのに、強がっている)


(何年、そうしてきたのか)


 ライアスは、何も言えなかった。


 さっき自分が言った「頼れる大人は、いなかったのか」という言葉が、頭の中で、ただ軽く浮いていた。


 子供だけのスラムを出た。


 路地から通りに戻ったところで、ライアスは足が止まった。


 止まった、というより、座り込んだ。


 通りの端の石段に、そのまま腰を下ろした。


 クラウスが「閣下」と声をかけたが、ライアスは返事をしなかった。


 ベルナード嬢が、少し離れたところに立って、同じ方向を見ていた。


 しばらく、誰も話さなかった。


 やがてベルナード嬢が口を開いた。

 独り言のような声だった。


「白い服の連中は、別として」


 ライアスは顔を上げなかった。


「街の人たちは、あの子たちにゴミ拾いや溝さらいをさせています。対価は、パンをやっと買えるかどうかの金額で」


「……搾取だ」


「そうとも言えます。でも」


 ベルナード嬢は続けた。


「ゴミ拾いも溝さらいも、公爵家でも資金を出して定期的に行っています。本来、街の人が子供にやらせなくてもいい仕事です」


「では、なぜやらせている」


「救えないから、でも見捨てられないから、だと思います」


 ライアスは少し、顔を上げた。


「子供がある程度のお金を持つと、別の輩に奪われることがあります。その日のパンが買えるくらいの金しか渡さないのは、現金が手元に貯まらないようにするためだと、私は見ています。子供の安全のために、あえてそうしている人たちもいるのだと思います」


(子供の安全のために、最低限の金しか渡さない)


(それが、精一杯の優しさだということか)


「……知らなかった」


 ライアスは、自分の声が少し掠れているのに気づいた。


「補助金があれば足りる。子どもは勝手に育つ。私はそう思っていた」


 ベルナード嬢は何も言わなかった。


「三日前に、お前に言われたとき、何がおかしいのかわからなかった。今日来て、少し、わかった気がする」


「少し、で十分です」


 ベルナード嬢が静かに言った。


「最初から全部わかる人間はいません」


「しかし私は、領主だ」


「はい」


「領主が、これほど見えていなかった」


「はい」


「……それは、言い訳のできない話だ」


 ベルナード嬢が、少しライアスの方を向いた。


「閣下」


「なんだ」


「一つだけ、言ってもいいですか」


「言え」


「今日、閣下が一人で視察に来ていたら、あの女性が税の話をしてくれたかどうか、わかりません」


 ベルナード嬢は続けた。


「私が先に話を聞いていたから、あの方は話してくれました。クラウスがいたから、子供だけのスラムで起きていることを説明してもらえました」


 ライアスは黙って聞いていた。


「見えなかったのは、一人だったからです。一人では見えないものが、複数の目があれば見えることがあります」


 ベルナード嬢は静かに、しかしはっきりと言った。


「閣下は一人ではありません。だから、後悔も一人でしないでください」


(一人ではない)


 その言葉が、静かに落ちてきた。

 想定していなかった重さで、落ちてきた。


 ライアスは少し、ベルナード嬢を見た。


 仕事の顔をしていた。

 感情的ではなかった。

 しかしその言葉は、仕事の言葉ではなかった。


(この娘は、今、何を言ったのか)


 一人ではない。

 後悔も一人でするな。


(それは、どういう意味の言葉だ)


 答えを出す前に、ベルナード嬢が続けた。


「一つ一つ、一緒に解決していきましょう」


 仕事の声に戻っていた。

 しかし先ほどの言葉は、まだライアスの中に残っていた。


 ライアスは石段から立ち上がった。


「……わかった」


 それだけ言った。


 クラウスが、ライアスの隣に並んだ。


「俺も、一緒にいます」


 短く、はっきりと言った。


 ライアスはクラウスを見た。

 クラウスは真っ直ぐ前を向いていた。


 ライアスは何も言わなかった。

 しかし、少し、肩の力が抜けた気がした。


 三人で、屋敷への道を歩き始めた。


 公都の通りは、夕方になっていた。

 人の声が、遠くから聞こえた。

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