自分が考えていなかったこと(ライアス視点)
【ライアス視点】
次に向かったのは、市場からさらに外れた、古い通りの端にある家だった。
ベルナード嬢がノックした。
しばらくして、扉が開いた。
出てきたのは、四十代の女性だった。
疲れていたが、先ほどの女性とは違う種類の疲れ方をしていた。
目に、何かが積もっているような疲れだった。
「先日お話しいただいた方ですね」
ベルナード嬢が言った。
「今日も少しお時間をいただけますか。同行している方にも、直接聞かせていただきたくて」
「……どうぞ」
中に入った。
部屋の奥に、男が座っていた。
三十代後半か、四十代か。
椅子に座って、テーブルに肘をついていた。
右腕の袖が、肘から先で折り畳まれていた。
男がライアスを見た。
「……誰だ」
「公爵家の者です。直接お話を聞かせていただきたくて同行しました」
「公爵家」
男は少し、笑った。
「わざわざ来たのか」
「はい」
男は少し、ライアスを見てから、視線を外した。
「まあ、座れ」
女性が椅子を用意しようとした。
ライアスは手で制した。
「立っていられます」
「そうか」
ベルナード嬢が、男の正面に座った。
「今の生活について、聞かせてもらえますか」
「何が聞きたい」
「恩給で、生活はどのくらい賄えていますか」
「賄えていない」
男は短く言った。
「足りない。それだけだ」
「仕事は」
「できる仕事を探しているが、ない。片腕で雇ってくれる仕事は、限られている。農作業は無理だ。荷運びも無理だ。字は読める。計算もできる。だが帳簿をつけられる場所は、もう人が足りているか、片腕の人間には任せられないと言われる」
「断られましたか」
「何度か。面と向かって断るところは少ない。ただ、返事が来なくなる」
(返事が来なくなる)
ライアスは、その言葉を静かに受け取った。
「奥様が今、働かれているとのことでしたが」
「市場で仕入れの手伝いをしている。朝が早い」
男は視線をテーブルに落とした。
「俺が家のことをやっている。飯を作る。掃除をする。片腕でできる範囲で」
「それは、ご自身にとってどうですか」
男が少し、止まった。
「……どうって、聞くのか」
「聞いてもよければ」
男はしばらく黙っていた。
「戦場では、自分の判断が仲間の命に関わる場面があった。怖かったが、やりがいもあった。帰ってきて、妻が働いて、俺が家にいる。それが悪いとは思わない。ただ」
男は折り畳まれた袖を見た。
「妻の負担がどれだけかは、わかっている。朝早く出て、疲れて帰ってくる。俺にできることが、もっとあればいいんだが」
男は少し、間を置いた。
「家で一人でいるとき、自分が役立たずだと思う。妻に負担ばかりかけていると。字が読めるのも、計算ができるのも、軍にいたからだ。軍では役に立った。しかし国のために戦って腕を失って、戻ってきたら……字も計算も、俺たちの生活の助けにはならなかった」
部屋が静かになった。
「将来については、どう考えていますか」
「考えると、暗くなる」
男は静かに言った。
「妻が働ける間はいい。だが妻も歳を取る。恩給だけでは、二人が老いていくと足りなくなる。今は何とかなっている。しかし何とかなっているうちに、手を打てないでいる。何をどう動けばいいか、わからないから」
ライアスは、黙って聞いていた。
男の目が、一瞬だけライアスを見た。
「公爵家の者が聞きに来るというのは、珍しい。何か変わるのか」
「今日は、話を持ち帰ります」
ベルナード嬢が静かに言った。
「約束はまだできません。ただ、聞きに来ました。聞いた話は、必ず伝えます」
「約束できないと言えるのは、正直でいいな」
男は少し、口元を動かした。
「変に期待させるより、いい」
外に出てから、ライアスはしばらく何も言わなかった。
次の家に向かいながら、頭の中で先ほどの男の言葉を反芻していた。
(返事が来なくなる)
働きたいと思っている。
計算もできる。字も読める。
しかし、返事が来なくなる。
(それで、終わるのか)
「閣下」
ベルナード嬢が、歩きながら静かに言った。
「なんだ」
「先ほどの方は、まだ奥様がいます。二人で支え合っています」
「そうだな」
「次の方は、一人です」
ライアスは少し、ベルナード嬢を見た。
「一人で、どうしているんだ」
「聞いてみてください」
ベルナード嬢は静かに言った。
「私が説明するより、直接聞いた方がいい話があります」
ライアスは黙って頷いた。
◇
三軒目は、路地の奥の、ひときわ小さな家だった。
ベルナード嬢がノックした。
返事がなかった。
もう一度ノックした。
しばらくして、中から「……誰だ」という声がした。
「先日お話しさせていただいた者です。また来てもいいとおっしゃっていたので」
長い沈黙があった。
それから、鍵の音がして、扉がゆっくりと開いた。
出てきたのは、三十代半ばに見える男だった。
痩せていた。
顔色が、悪かった。
そして、片足の膝から下がなかった。
松葉杖一本で身体を支えていた。
「……中に入るか」
「よろしいですか」
「構わない」
中に入った。
部屋は薄暗かった。
窓の外には午後の光があるが、雨戸が半分閉まっていた。
男は松葉杖を使いながら、ゆっくりと椅子に戻った。
ベルナード嬢が静かに座った。
ライアスは、入口の近くに立った。
「今日は」
ベルナード嬢が言った。
「直接、話を聞かせていただきたくて」
「何が聞きたい」
「今の生活について」
「生活」
男は少し、笑った。
「生活、か」
男は窓の方を見た。
「恩給は、少しある。食えないほどではない。だが」
「だが」
「出かけることが、難しい。買い物一つ、一苦労だ。松葉杖で遠くまで行けない。近所の市場まで行くのに、それだけで半日かかる。転んだら、起き上がるのも大変だ。助けてくれる人間がいれば、いいんだが」
「一人ですか」
「一人だ。家族はいない。戦場の前から、いなかった。戦場に行ったのも、どうせ一人だからという気持ちがあった」
男が、ライアスを見た。
「あんた、公爵家の者だと言ったか」
「はい」
「騎士団と、繋がりはあるか」
「……ある」
「そうか」
男は少し、目を細めた。
「俺は騎士団の末端にいた。国のために戦ったつもりだった。戻ってきたら、こうなっていた。恩給は出る。ありがたいと思っている。ただ」
男は自分の膝のあたりを見た。
「排泄一つ、ままならない日がある。誰かに頼みたいが、頼める人間がいない。ヘルパーのような仕組みも、この辺りにはない。そういう日は、いっそ戦場で死ねていたら、と思う」
部屋が、静かになった。
「……それほど、辛いですか」
ベルナード嬢が静かに言った。
責めるでもなく、驚くでもなく、ただそのまま受け取るような声だった。
「辛い、という言葉では足りない気もするが」
男は続けた。
「国のためにと思って足を失った。それは後悔していない。ただ、その後のことを、誰も考えてくれていなかったと知ったときは、少し、虚しかった」
(その後のことを、誰も考えていなかった)
ライアスは、その言葉を受け取ったまま、何も言えなかった。
何か言おうとした。
しかし何を言っても、軽くなる気がした。
謝罪も、慰めも、約束も。
今この場で自分が出せる言葉が、何一つ適切な重さを持てない気がした。
ベルナード嬢が、静かに話を続けた。
「今、日常で一番困っていることは何ですか」
「買い物だ。松葉杖で重いものは持てない。誰かに頼めれば助かるが、頼める人間もいないし、金を払える余裕もない」
「他には」
「……体を洗うことも、うまくできない日がある。転ぶのが怖くて。だんだん、出かけることも億劫になってくる。出かけなければ、何もすることがない。そうすると、考えることが暗い方向にしか向かわなくなる」
「話せる人間は、いますか」
「いない。だから、あんたらが来たとき、少し迷ったが、開けた」
男が、ベルナード嬢を見た。
「あんたは、また来るか」
「来ます」
ベルナード嬢はすぐに答えた。
「今日聞いた話は、必ず持ち帰ります。約束はまだできないことの方が多いですが、来ます」
「そうか」
男は少し、目を細めた。
「それだけで、少し違う」
外に出てから、ライアスはしばらく歩けなかった。
歩き出したが、足が少し重かった。
(その後のことを、誰も考えていなかった)
ライアスは、自分がこれまで何を考えていたかを、静かに点検した。
戦費は出した。
恩給の制度は作った。
見舞金の仕組みも整えた。
それで、十分だと思っていた。
しかしあの男は、排泄一つままならない日がある、と言った。
買い物一つで半日かかると言った。
いっそ死ねていたらと思う、と言った。
(戦費を出して、恩給を作って、それで終わりだと思っていた)
(戦場で死ぬかもしれないことは、考えていた。しかし生きて帰った後のことを、これほど具体的に考えたことが、なかった)
ベルナード嬢が、隣に並んで歩いていた。
クラウスは後ろに控えたまま、黙っていた。
「……三日前に」
ライアスは口を開いた。
「私はお前に、感情的になっていると言った」
「はい」
「そうではなかった」
ベルナード嬢が、少しだけライアスを見た。
「お前は最初から、これを見せようとしていた」
「はい」
「数字だけでは、私は動かないと思ったか」
「はい。申し訳ありません」
「……謝らなくていい」
ライアスは少し、止まった。
「正しかった」
ベルナード嬢は何も言わなかった。
ライアスも、それ以上言葉を出さなかった。
路地の向こうから、子供の声がした。
昼を過ぎた公都の通りを、三人は歩き続けた。




