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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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自分が考えていなかったこと(ライアス視点)

【ライアス視点】


 次に向かったのは、市場からさらに外れた、古い通りの端にある家だった。


 ベルナード嬢がノックした。

 しばらくして、扉が開いた。


 出てきたのは、四十代の女性だった。

 疲れていたが、先ほどの女性とは違う種類の疲れ方をしていた。

 目に、何かが積もっているような疲れだった。


「先日お話しいただいた方ですね」


 ベルナード嬢が言った。


「今日も少しお時間をいただけますか。同行している方にも、直接聞かせていただきたくて」


「……どうぞ」


 中に入った。


 部屋の奥に、男が座っていた。

 三十代後半か、四十代か。

 椅子に座って、テーブルに肘をついていた。


 右腕の袖が、肘から先で折り畳まれていた。


 男がライアスを見た。


「……誰だ」


「公爵家の者です。直接お話を聞かせていただきたくて同行しました」


「公爵家」


 男は少し、笑った。


「わざわざ来たのか」


「はい」


 男は少し、ライアスを見てから、視線を外した。


「まあ、座れ」


 女性が椅子を用意しようとした。

 ライアスは手で制した。


「立っていられます」


「そうか」


 ベルナード嬢が、男の正面に座った。


「今の生活について、聞かせてもらえますか」


「何が聞きたい」


「恩給で、生活はどのくらい賄えていますか」


「賄えていない」


 男は短く言った。


「足りない。それだけだ」


「仕事は」


「できる仕事を探しているが、ない。片腕で雇ってくれる仕事は、限られている。農作業は無理だ。荷運びも無理だ。字は読める。計算もできる。だが帳簿をつけられる場所は、もう人が足りているか、片腕の人間には任せられないと言われる」


「断られましたか」


「何度か。面と向かって断るところは少ない。ただ、返事が来なくなる」


(返事が来なくなる)


 ライアスは、その言葉を静かに受け取った。


「奥様が今、働かれているとのことでしたが」


「市場で仕入れの手伝いをしている。朝が早い」


 男は視線をテーブルに落とした。


「俺が家のことをやっている。飯を作る。掃除をする。片腕でできる範囲で」


「それは、ご自身にとってどうですか」


 男が少し、止まった。


「……どうって、聞くのか」


「聞いてもよければ」


 男はしばらく黙っていた。


「戦場では、自分の判断が仲間の命に関わる場面があった。怖かったが、やりがいもあった。帰ってきて、妻が働いて、俺が家にいる。それが悪いとは思わない。ただ」


 男は折り畳まれた袖を見た。


「妻の負担がどれだけかは、わかっている。朝早く出て、疲れて帰ってくる。俺にできることが、もっとあればいいんだが」


 男は少し、間を置いた。


「家で一人でいるとき、自分が役立たずだと思う。妻に負担ばかりかけていると。字が読めるのも、計算ができるのも、軍にいたからだ。軍では役に立った。しかし国のために戦って腕を失って、戻ってきたら……字も計算も、俺たちの生活の助けにはならなかった」


 部屋が静かになった。


「将来については、どう考えていますか」


「考えると、暗くなる」


 男は静かに言った。


「妻が働ける間はいい。だが妻も歳を取る。恩給だけでは、二人が老いていくと足りなくなる。今は何とかなっている。しかし何とかなっているうちに、手を打てないでいる。何をどう動けばいいか、わからないから」


 ライアスは、黙って聞いていた。


 男の目が、一瞬だけライアスを見た。


「公爵家の者が聞きに来るというのは、珍しい。何か変わるのか」


「今日は、話を持ち帰ります」


 ベルナード嬢が静かに言った。


「約束はまだできません。ただ、聞きに来ました。聞いた話は、必ず伝えます」


「約束できないと言えるのは、正直でいいな」


 男は少し、口元を動かした。


「変に期待させるより、いい」


 外に出てから、ライアスはしばらく何も言わなかった。


 次の家に向かいながら、頭の中で先ほどの男の言葉を反芻していた。


(返事が来なくなる)


 働きたいと思っている。

 計算もできる。字も読める。

 しかし、返事が来なくなる。


(それで、終わるのか)


「閣下」


 ベルナード嬢が、歩きながら静かに言った。


「なんだ」


「先ほどの方は、まだ奥様がいます。二人で支え合っています」


「そうだな」


「次の方は、一人です」


 ライアスは少し、ベルナード嬢を見た。


「一人で、どうしているんだ」


「聞いてみてください」


 ベルナード嬢は静かに言った。


「私が説明するより、直接聞いた方がいい話があります」


 ライアスは黙って頷いた。


 ◇


 三軒目は、路地の奥の、ひときわ小さな家だった。


 ベルナード嬢がノックした。

 返事がなかった。

 もう一度ノックした。


 しばらくして、中から「……誰だ」という声がした。


「先日お話しさせていただいた者です。また来てもいいとおっしゃっていたので」


 長い沈黙があった。


 それから、鍵の音がして、扉がゆっくりと開いた。


 出てきたのは、三十代半ばに見える男だった。

 痩せていた。

 顔色が、悪かった。


 そして、片足の膝から下がなかった。

 松葉杖一本で身体を支えていた。


「……中に入るか」


「よろしいですか」


「構わない」


 中に入った。


 部屋は薄暗かった。

 窓の外には午後の光があるが、雨戸が半分閉まっていた。


 男は松葉杖を使いながら、ゆっくりと椅子に戻った。


 ベルナード嬢が静かに座った。

 ライアスは、入口の近くに立った。


「今日は」


 ベルナード嬢が言った。


「直接、話を聞かせていただきたくて」


「何が聞きたい」


「今の生活について」


「生活」


 男は少し、笑った。


「生活、か」


 男は窓の方を見た。


「恩給は、少しある。食えないほどではない。だが」


「だが」


「出かけることが、難しい。買い物一つ、一苦労だ。松葉杖で遠くまで行けない。近所の市場まで行くのに、それだけで半日かかる。転んだら、起き上がるのも大変だ。助けてくれる人間がいれば、いいんだが」


「一人ですか」


「一人だ。家族はいない。戦場の前から、いなかった。戦場に行ったのも、どうせ一人だからという気持ちがあった」


 男が、ライアスを見た。


「あんた、公爵家の者だと言ったか」


「はい」


「騎士団と、繋がりはあるか」


「……ある」


「そうか」


 男は少し、目を細めた。


「俺は騎士団の末端にいた。国のために戦ったつもりだった。戻ってきたら、こうなっていた。恩給は出る。ありがたいと思っている。ただ」


 男は自分の膝のあたりを見た。


「排泄一つ、ままならない日がある。誰かに頼みたいが、頼める人間がいない。ヘルパーのような仕組みも、この辺りにはない。そういう日は、いっそ戦場で死ねていたら、と思う」


 部屋が、静かになった。


「……それほど、辛いですか」


 ベルナード嬢が静かに言った。

 責めるでもなく、驚くでもなく、ただそのまま受け取るような声だった。


「辛い、という言葉では足りない気もするが」


 男は続けた。


「国のためにと思って足を失った。それは後悔していない。ただ、その後のことを、誰も考えてくれていなかったと知ったときは、少し、虚しかった」


(その後のことを、誰も考えていなかった)


 ライアスは、その言葉を受け取ったまま、何も言えなかった。


 何か言おうとした。

 しかし何を言っても、軽くなる気がした。


 謝罪も、慰めも、約束も。

 今この場で自分が出せる言葉が、何一つ適切な重さを持てない気がした。


 ベルナード嬢が、静かに話を続けた。


「今、日常で一番困っていることは何ですか」


「買い物だ。松葉杖で重いものは持てない。誰かに頼めれば助かるが、頼める人間もいないし、金を払える余裕もない」


「他には」


「……体を洗うことも、うまくできない日がある。転ぶのが怖くて。だんだん、出かけることも億劫になってくる。出かけなければ、何もすることがない。そうすると、考えることが暗い方向にしか向かわなくなる」


「話せる人間は、いますか」


「いない。だから、あんたらが来たとき、少し迷ったが、開けた」


 男が、ベルナード嬢を見た。


「あんたは、また来るか」


「来ます」


 ベルナード嬢はすぐに答えた。


「今日聞いた話は、必ず持ち帰ります。約束はまだできないことの方が多いですが、来ます」


「そうか」


 男は少し、目を細めた。


「それだけで、少し違う」


 外に出てから、ライアスはしばらく歩けなかった。

 歩き出したが、足が少し重かった。


(その後のことを、誰も考えていなかった)


 ライアスは、自分がこれまで何を考えていたかを、静かに点検した。


 戦費は出した。

 恩給の制度は作った。

 見舞金の仕組みも整えた。


 それで、十分だと思っていた。


 しかしあの男は、排泄一つままならない日がある、と言った。

 買い物一つで半日かかると言った。

 いっそ死ねていたらと思う、と言った。


(戦費を出して、恩給を作って、それで終わりだと思っていた)


(戦場で死ぬかもしれないことは、考えていた。しかし生きて帰った後のことを、これほど具体的に考えたことが、なかった)


 ベルナード嬢が、隣に並んで歩いていた。

 クラウスは後ろに控えたまま、黙っていた。


「……三日前に」


 ライアスは口を開いた。


「私はお前に、感情的になっていると言った」


「はい」


「そうではなかった」


 ベルナード嬢が、少しだけライアスを見た。


「お前は最初から、これを見せようとしていた」


「はい」


「数字だけでは、私は動かないと思ったか」


「はい。申し訳ありません」


「……謝らなくていい」


 ライアスは少し、止まった。


「正しかった」


 ベルナード嬢は何も言わなかった。

 ライアスも、それ以上言葉を出さなかった。


 路地の向こうから、子供の声がした。


 昼を過ぎた公都の通りを、三人は歩き続けた。

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