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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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誰も知らない現実(ライアス視点)

【ライアス視点】


 あの言い合いから、三日が経った。


 執務室で書類を処理しながら、ライアスは断片的に三日前のことを反芻していた。


(何が、いけなかったのか)


 自分の発言を順番に並べてみた。


 補助金がある。

 それは事実だ。


 働く意欲があれば仕事は見つかる。

 それも事実だ。


 子どもは育つ。

 それも……事実のはずだ。


 どれも間違っていないと思う。

 しかしベルナード嬢は、一つ一つに「そうではない」と返してきた。


(感情的になっていた、と言ったら、なっていないと言われた)


 あの目が、引っかかっている。


 感情的になっていない目だった。

 むしろ、完全に冷静に、整理して言葉を選んでいる目だった。


 感情的になっているのは、あの場でどちらかといえば自分だったかもしれない。


 ライアスはその考えを、静かに脇に置いた。


(なぜあの娘はあそこまで言い切れたのか)


「確保する方法を知っている人間の言葉です」


 あの言葉が、妙に頭の中で残っている。


 自分は確保する方法を知っているから、そう言える。

 それは、正しいか。


(……正しいかもしれない)


 ライアスは羽ペンを置いた。


 生まれたときから、公爵家だった。

 食事に困ったことはない。

 文字を教えてもらえなかったことはない。

 仕事の選択肢がなかったことはない。


 それが当然だと思っていた。


(しかし当然でない人間が、いる)


 頭では理解できる。

 理解できるが、実感がない。

 実感がないから、補助金があれば足りると思っていた。


(補助金があれば、本当に足りるのか)


 ライアスはその問いを、答えを出せないまま宙に浮かせた。


 ノックがあった。


「グラントです」


「入れ」


 グラントが入ってきた。

 書類を手に持っていた。


「閣下、一点ご連絡がございます」


「なんだ」


「ベルナード嬢から、ご相談を受けまして」


「内容は」


「閣下を、街に連れ出したいと」


「……え?」


 グラントが、ライアスを見た。


 五十年の奉公人が、初めてライアスから引き出した種類の反応に、かすかに目を細めた。


「……未亡人の方や、障害を負った方の生活を、閣下に直接ご覧いただきたいとのことです。百の数字より、一度見た方が早いということかと」


 ライアスは少し黙った。


(視察か)


 視察、だ。

 それ以外の何かを一瞬だけ想像した自分を、ライアスは静かに切り捨てた。


 何も考えていない。

 何も想像していない。

 視察だ。


「……わかった。日程を調整しろ」


「かしこまりました」


 グラントが退室した。


(視察だ)


 ライアスは書類に向き直った。

 羽ペンを走らせた。


 文字が、少し乱れた。


     ◇


 視察の日は、晴れていた。


 ライアスは帯刀せず、目深に帽子をかぶった。

 銀髪は目立つ。

 しかし帽子をかぶれば、顔の半分が隠れる。


 完璧な変装ではないが、わざわざ公爵家の当主だと気づく人間は少ない。


 屋敷の裏口から出ると、ベルナード嬢が待っていた。

 そしてその隣に、クラウスがいた。


(……二人で行く訳ではない、か)


 一瞬、そう思った。


 ライアスはすぐにその考えを打ち切った。

 視察だ。護衛が必要だ。クラウスがいるのは当然だ。

 何もおかしいことはない。


「ありがとうございます、閣下。お時間をいただけて」


「視察だ。始めよう」


「はい。では最初に、少し先に住んでいる方のところへ」


 クラウスが後ろに控えた。


 三人で、公都の通りを歩き始めた。


(視察だ。それ以上でも以下でもない)


 ライアスは前を向いた。


 最初に訪ねたのは、市場から少し外れた路地沿いの家だった。


 小さい家だった。


 ベルナード嬢がノックすると、中から子供の泣き声がして、それから扉が開いた。


 出てきたのは、三十前後の女性だった。

 疲れていた。

 目の下に隈があり、髪が少し乱れていた。


 しかし服は清潔で、立ち方はしっかりしていた。


「先日お話しいただいた方ですね」


 ベルナード嬢が言った。


「少しお時間をいただけますか」


「はい、どうぞ」


 中に入った。


 部屋は狭かった。

 しかし整頓されていた。


 小さな子供が二人、部屋の隅で互いにしがみついていた。


 ライアスは後ろに下がって、ベルナード嬢が話すのを聞いた。


「今日は、同行してくれた方に少し実情を聞かせていただきたくて。直接聞いた方が、動きやすいので」


 女性がライアスを見た。

 ライアスは帽子を少し下げた。


「……構いません」


 女性は静かに言った。


「どうぞ」


「補助金について、少し聞かせてください。申請は、ご自分でされましたか」


 女性の顔が、少し曇った。


「……申請の書類が読めなくて。途方に暮れていたところに、手伝ってあげると声をかけてくれた方がいて」


「その方に手伝っていただいたのですね」


「はい。でも……後から、対価を請求されました」


 部屋が少し、静かになった。


「お金を、ですか」


「夫が亡くなったとき、軍から見舞金が出たんです。少しだけでしたが、それがまとまったお金として手元にあって。書類を手伝った分として、その半分を持っていかれました」


 ライアスは、何も言わなかった。


「今は補助金で何とかやっています。ただ、食費は、ぎりぎりです。家賃を払うと、月の終わりには粥しか作れない日が続きます」


「今の補助金の額で、生活が賄えない理由に心当たりはありますか」


 女性は少し考えた。


「物価が、上がりました。戦争中に物が少なくなって値が上がって、戦後に少し落ち着いた品もあります。でも、戦前の値には戻っていないものが多くて」


「他には」


「……税も、上がりました。戦後に、復興のためにと。物価が上がっているところに税も上がったので、生活はきつくなる一方で。税が上がれば、商人も仕入れ値に乗せるので、品物の値もさらに上がって。落ち着いたといっても、上がった分がそのまま残っている感じで、戦前に比べると全然違います。それも今もまだ、戻っていないので」


(税を上げたのは、自分だ)


 ライアスは、静かにその事実を受け取った。


 戦後復興のために必要だと判断した税の引き上げが、今もこの女性の食卓を圧迫している。


 補助金を出しているから問題ないと思っていた。

 しかし物価が上がり、税が上がり、補助金の額だけが据え置かれている。


(補助金の実質的な価値は、下がっていた)


 子供の一人が、女性の足元に走り寄ってきた。


「おかあさん、お腹すいた」


「もう少し待って。夕方に何か買って帰るから」


 子供は少し不満そうな顔をしたが、また部屋の隅に戻った。


 今、昼前だ。

 子供は昼に何を食べるのか。

 食べられるものがないから、夕方まで待っているのか。


 ライアスは、その問いに答えを出せなかった。


「……ありがとうございます」


 ベルナード嬢が言った。


「話してくださって」


「いいえ」


 女性は静かに言った。


「こうやって聞きにきてくれる方は、あまりいないので。少し、気持ちが楽になりました」


 外に出た。


 路地を歩きながら、ライアスは何も言わなかった。

 クラウスも、黙ってついてきた。


 しばらく歩いてから、ベルナード嬢が口を開いた。


 ライアスに向かって話しているようで、しかし誰かに聞かせるというより、自分の考えを整理するように、静かに、しかし止まらずに話し続けた。


「戦争が終わると、戦後処理でまとまったお金が一時的に庶民の手元に入ります。見舞金や一時金や退職金のような形で。それを狙って、親切を装って近づく人間が出てきます。書類を手伝ってあげます、申請を代行してあげます、という形で」


 ライアスは黙って歩いた。


「補助金の申請が複雑だから。識字率が低いから。夫を亡くして気力が落ちているから。そういう人の隙を狙って、まとまったお金を持っていく。そういう人間がいるということを、知らない人は知らないまま、騙されます」


 路地の先で、子供の声がした。


「補助金は受け取れる。でも、手元にあったはずのまとまったお金はなくなっている。将来の不安は増えるばかり。自分が働いて子供に食べさせてやりたいと思っても、幼い子供がいては、働くことそのものが難しい。預ける場所もない。連れていける仕事もない」


 ベルナード嬢は歩き続けた。


「それを誰も知らない。知らないから、手が届かない。おかしいと思っても、声の上げ方がわからない。声を上げる場所も、上げた声が届く先も、知らない。補助金を出している側も、物価が上がって税も上がっていることと、補助金の額が合っていないことに、気づいていない。悪意じゃなくて、見えていないだけで」


 最後の一言が、ライアスの耳の奥に刺さった。


 悪意じゃなくて、見えていないだけ。


 三日前に、自分がベルナード嬢に言われた言葉と、同じだった。


(この娘は、今、私のことを言っているのか)


(いや、違う。一般論として言っている)


(しかし)


(それは、自分のことでもある)


 ライアスは何も言わなかった。


 何か言おうとしたが、何を言っても軽くなる気がして、言えなかった。


 ベルナード嬢も、ライアスの返事を待たなかった。

 ただ前を向いて、歩き続けた。


 ライアスも、歩き続けた。


 子供の声が、路地の奥から聞こえた。

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