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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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最低限と過保護と (ノエル視点)

【ノエル視点】


 提案書を仕上げるのに、三日かかった。


 感情で動かそうとしても通じない相手だ。

 全て数字と根拠で話す。

 それがこの一ヶ月で学んだことだった。


 完成した提案書は、二部構成になった。


 一部目。未亡人および身体に障害を持つ元兵士の雇用について。

 二部目。スラム地区の孤児の教育と、将来的な人材化について。


 どちらも、感情論は一切省いた。

 数字だけを並べた。


 現状の人手不足の規模。

 必要な業務の種類と、それに必要な人員数。

 雇用にかかるコストと、それによって削減できる現在のロスの比較。


 孤児については長期的な試算にした。

 教育を受けた人材が十年後に生み出す経済効果の概算と、スラムが拡大した場合の治安コストの比較だ。


(前世の経験が、こんな形で役に立つとは)


 ノエルは完成した書類を一度見直してから、グラントに声をかけた。


「閣下にお時間をいただけますか」


「……内容は」


「人員補充の提案と、スラム地区の孤児の教育について」


 グラントが少し間を置いた。


「……わかりました。取り次ぎます」


 執務室に入ると、ライアスは書類から顔を上げた。


(今日も顔が良い。仕事の話をするために来たのに最初の一秒でもう元が取れた気がする。落ち着け私)


「提案があります。お時間をいただけますか」


「聞こう」


 ノエルは提案書を差し出した。

 ライアスがめくった。


 一部目を読んだ。

 読みながら、眉が少し動いた。


(あの眉の動きは……疑問が生まれたときの眉だ。思考版縦皺の予備段階。記録案件だ。落ち着け)


 ライアスが顔を上げた。


「未亡人と、障害を持つ者の雇用、か」


「はい。現在の人手不足を補いながら、雇用を生み出す案です」


「なぜこの二者か」


「働く意欲があり、働ける仕事を作れる状況にあるからです。仕分けや記録作業、衣服の修繕など、体力を必要としない業務が公爵家には多くあります」


「……補助金があるだろう」


「はい。ただ補助金だけでは生活が苦しい方が多くいます」


 ライアスが少し、眉を寄せた。


「補助金の額は、王国の定めに従っている。足りないというのはどういうことだ」


「子供が複数いる場合、住む場所を確保しながら食費を賄うと、補助金だけでは足りないことがあります」


「それは個人の事情だ。王国の補助金は、生活の最低限を保障するものだ。その上で自分でどう動くかは、各人が考えることではないか」


(来た。合理的なんだけど、現場が見えていない発言だ。でも困惑顔の閣下が尊い。落ち着け私)


「閣下、一つ確認させてください。補助金の申請は、文字が読める前提で設計されています。識字率が低い層には、そもそも申請の仕方がわかりません」


「読めなければ、読める者に頼めばいい」


「頼める相手がいない方もいます」


「…………」


「戦争で夫を亡くした女性が、幼い子供を二人抱えて、一人で申請書類を揃えて役所に行く。それが現実に難しい状況にある方が、相当数います」


 ライアスはしばらく黙った。

 眉が動いた。


 しかし今度は、いつもの思考版とは少し違う種類の動き方だった。


(あれは……理解しようとしているが、想像が追いつかない眉だ。初観測かもしれない。記録しなければ。落ち着けって言っているのに)


「……そもそも、健常者を他の都市から集めれば済む話ではないか。わざわざ難しい条件の人間を選ぶ理由がない」


「集められる数には限りがあります。また育成の時間がかかる新規採用より、こちらの方が長期的に効率的です」


「効率的というのは、感情論だ。手間がかかる人材より、最初から動ける人材を集めた方が、数字として合理的だ」


「試算上は長期的にこちらの方が合理的です。提案書の三ページ目をご覧ください」


 ライアスが三ページ目を開いた。

 しばらく読んだ。


「……この試算の前提が成り立つのは、雇用した人材が実際に機能した場合だ。機能しなかった場合のリスクが書いていない」


「書いてあります。四ページ目です」


「……」


 ライアスが四ページ目を読んだ。

 また少し黙った。


「健常者を集めた方が、リスクが少ない」


「長期的にはそうではありません。公都に生活に困っている人材がいるなら、そこから始める方が、公爵家にとっても領地にとっても利益になります」


「理屈はわかる。ただ、実態として、そこまで困っている人間がいるとは思えない。補助金がある。働く意欲があれば仕事は見つかる。それでも困っているなら、それは個人の問題だ」


(あー。これは少し長くなりそうだ)


 ノエルは一度、息を吸った。


「閣下は、幼い頃から食事に困ったことはありますか」


「ない」


「文字を教えてもらえなかったことは」


「ない」


「仕事の選択肢がなかったことは」


「……ない」


「それは、閣下が公爵家にお生まれになったからです。今こうして当主として仕事ができているのは、グラントさんをはじめ、多くの方が閣下を支えてくださったからです。その環境がなければ、今の閣下はいなかったかもしれません」


 ライアスの眉が、ぴくりと動いた。


「それは関係のない話だ」


「関係あります」


「ベルナード嬢」


「あります、閣下」


 少し、空気が張った。


(言い過ぎたかもしれない。でも言ったことは間違っていない。引かない)


 ライアスがノエルを見た。

 いつもと少し違う目だった。


 不快、というよりも、どこか、何かを処理しようとしている目だった。


「……孤児については」


 ライアスはやや強引に話を進めた。


「子どもは育つ。スラムがあればそこで育ち、いずれ何らかの仕事に就く。今まで領地が成り立ってきたのは、それで機能してきたからだ」


「育てる大人がいなければ、育ちません」


「いなければ、仲間同士で育つ」


「食べるものがなければ、育ちません」


「食べるものがなければ、自分で調達する」


「五歳の子が、どうやって調達するんですか」


「…………」


「今、スラムには五歳くらいの子がいます。食事が安定していません。字も読めません。でも目は鋭くて、頭は悪くなさそうでした」


「目が鋭ければ、生き延びる」


「生き延びることと、人生を切り開くことは、違います」


 ノエルは言った。


「今のままでは、その子は一生スラムの外に出られません。出ることを、想像する機会すらありません」


「それは本人が変えることだ」


「変え方を誰も教えなければ、変えられません」


「お前は過保護すぎる」


 ノエルは一拍、止まった。


(過保護。今、過保護と言ったか)


「過保護とは、必要以上に手をかけることです」


 ノエルは静かに、しかしはっきりと言った。


「食事を食べさせること、字を教えること、仕事の覚え方を教えること。それは過保護ではなく、最低限です」


「最低限は、自分で確保するものだ」


「確保する方法を知っている人間の言葉です、それは」


 ライアスがノエルを見た。

 ノエルもライアスを見た。


 少し、間があった。


「……お前は、感情的になっている」


「なっていません。これは全て、試算書に書いてある話です」


「書いてある話と、今お前が言っていることは、少し違う」


「……試算書は数字の話です。今は、なぜその数字が意味を持つかの話をしています」


「回りくどい」


「閣下が数字だけでは動かなかったからです」


 また間があった。

 今度は少し長かった。


 ライアスが、ゆっくりと書類をテーブルに置いた。


「……進めていい。未亡人と障害者の雇用については」


「……はい」


「孤児の件については、まだ許可は出していない。試算の精度を上げてから、改めて話を持ってこい」


「わかりました」


 ノエルは一礼して退室した。


 廊下に出てから、少し息を吐いた。


(勝ちでも負けでもなかった。でも前には進んだ)


 そして少し遅れて、執務室でのライアスの顔が頭に浮かんだ。


(あの顔だ)


(何かが噛み合っていない顔。想像が追いつかない目。言い返すでもなく、しかし納得もしていない、あの顔が)


(尊い)


(待って待って待って。今、推しと言い合いをしていた。私は推しに「過保護すぎる」と言われた。推しに過保護と言われた。これはゲームの攻略本に載っていない展開だ。どのルートにも「主人公が過保護と言われるシーン」は存在しなかった。つまり今この瞬間は、完全にオリジナル展開だ。推しとのオリジナル言い合い展開を私は今生で体験した。しかも推しが言い返せなくなって黙った。推しが私の言葉で黙った。あの沈黙の顔が。あの「処理が追いつかない」目が。あの、若干不服そうなのに反論できない眉が。尊い。どうしよう。言い合いをしながら尊いと感じている自分の回路は正常か。正常だと思う。推しは全方位から尊い。これは設計上の話だ)


 ノエルは廊下の壁に手をついた。

 三秒だけ、天を仰いだ。


「……ノエルさん」


 声がした。

 クラウスだった。


 廊下の角から顔だけ出して、こちらを見ていた。


 その顔が。

 見てはいけないものを見てしまった、という顔だった。

 完全に、そういう顔だった。


 ノエルは一秒で表情を切り替えた。


「お待たせしました。行きましょう」


「……あ、はい」


 クラウスが、何かを言いたそうな顔のまま、何も言わずについてきた。

 その判断は正しかったとノエルは思った。


「言い合いになりましたか」


 少し歩いてから、クラウスが恐る恐る聞いた。


「少し、なりました」


「閣下と?」


「はい」


「……ノエルさん、それ大丈夫なんですか」


「大丈夫です。許可は出ました」


「言い合いして許可が出るの、なんか凄いですね」


「数字を見せれば聞いてくれる方です。ただ今回は、数字だけでは足りませんでした」


「閣下、生活に困るってわからないんですか」


「悪意はないと思います。見えていないだけで」


「うーん……」


 クラウスが少し考えてから、言った。


「俺、スラムの近くで育ったことあるんですよね」


 ノエルは少し、クラウスを見た。


「そうですか」


「子どもの頃、スラムの子と話したことがあって。そいつ、字が読めなくて、でも頭は良くて、よく一緒に遊んでたんですけど。気がついたら、いなくなってました」


「どこへ」


「わかんないです。そういうもんなんだって思ってました、当時は」


 クラウスは少し目を細めた。


「でも今になって考えると、いなくなったんじゃなくて、いられなくなったのかもなって」


「……そうかもしれませんね」


「ノエルさんが今回やろうとしてること、俺はいいことだと思います」


 クラウスは続けた。


「閣下にも、いつかわかってもらえるといいですね」


「わかってもらえるように、話し続けます」


 ノエルは言った。


「一度で伝わらなければ、二度。二度で伝わらなければ、三度」


「……ノエルさん、本当に頑固ですね」


「よく言われます」


「でも、たぶんそれでいいんだと思います」


 クラウスが、珍しく、少し真剣な顔で言った。


 ノエルは何も言わなかった。

 ただ、少し、胸の奥が温かかった。


 その夜の観察日誌には、通常の三倍の分量を書いた。


「本日、提案書を閣下に提出。未亡人・障害者雇用については許可が出た。孤児教育については試算の精度を上げてから再提出。ここまでは業務報告。」


「以下は個人的記録。本日、閣下と言い合いになった。推しと言い合いになった。これを記録する手が若干震えている。落ち着いて書く。閣下は生活に困るということへの想像が追いつかない様子だった。悪意はない。ただ見えていない。それはわかる。わかるが、『過保護すぎる』と言われた。推しに過保護と言われた。」


「しかし。」


「しかし閣下が過保護と言った直後の顔が、尊かった。言い返されて少し黙ったときの顔が、尊かった。処理が追いつかなくなったときの目が、尊かった。不服そうなのに反論が出てこなくて眉だけが動いていたあの瞬間が、どう表現すればいいかわからないぐらい尊かった。今日の言い合いの全シーンを永久保存したい。額縁に入れて壁に飾りたい。飾る。絶対飾る。言い合いができるほど、閣下と近い立場にいるということでもある。これはある意味で、ゲームの攻略進捗として換算できないか。換算する。今日はプラス五ポイントとする。根拠はない。でも絶対プラスだ。」


「冷静に考えると、推しと言い合いをして満足しているのは正常な人間の行動ではないかもしれない。しかし推し活とは、あらゆる場面で推しを尊いと感じることだ。定義上、問題ない。むしろ今日は、通常の観察では見られない閣下の表情を複数観測できた。実り多き一日だった。」


「ファイル名:閣下の困惑版眉・想像力不足型(初観測)。ファイル名:閣下の反論不能沈黙(初観測)。ファイル名:閣下の過保護発言直後の顔(初観測・永久保存・額縁行き確定)。別紙三枚確定。」


 別紙を書き終えたのは、夜も深まってからだった。


 翌朝。


 ノエルはグラントを訪ねた。


「グラントさん、少しよろしいですか」


「はい、何でしょう」


「閣下を、街に連れ出したいのですが」


 グラントが、書類を持ったまま、止まった。


 止まった、というより、固まった。


 五十年の奉公人が、初めて見せるような表情をした。


「……え?」

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