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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第一章 公爵領の改革

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19/82

知らない世界と目の前の現実(ノエル視点)

【ノエル視点】


 ダンカンとヘルガが去って、十日が経った。


 屋敷の空気は確かに軽くなった。

 しかし数字は正直だ。


 ノエルはそろばんを弾きながら、人員配置の表を眺めた。


(足りない)


 単純に、足りなかった。


 ダンカンの抜けた倉庫管理は、新しい担当者が少しずつ覚えてきてはいるが、まだ一人では心もとない。


 ヘルガの抜けた洗濯・縫製部門は、若い使用人たちが互いに補い合っているものの、繁忙期に差し掛かれば手が足りなくなる。


 さらにフェルトン侯爵家との一件で、一部の業務フローを見直す必要も出てきた。


 人が、要る。


(どこから持ってくるか)


 ノエルは羽ペンを持ちながら、考えた。


 普通に求人を出せばいい、という話ではある。


 しかし前世の経験上、人を雇うときに「とにかく人を集める」と「この仕事に向いている人を集める」では、長期的な結果が全く違う。


 今の公爵家に必要なのは、単純な労働力ではなく、多少のことで動じない安定した人間だ。


 しかし。


(安定した人間は、すでに安定した職を持っている)


 前世でもそうだった。

 本当に欲しい人材は、だいたい別のところに既にいる。


 では誰が来るか。


(職を探している人間)


 ノエルは少し考えた。

 職を探している人間の中に、何か使えるものはないか。


 そこで一つ、頭の中に浮かんだことがあった。


「クラウス」


「はい!」


 扉の向こうから、返事が来た。


 クラウスは最近、ノエルの護衛兼雑用兼話し相手という奇妙なポジションに収まっていた。


 本人は護衛を名乗っているが、実態は「ノエルの動きに振り回されている人」に近い。


「少し聞いていいですか」


「なんでしょう」


「この公都、戦争で夫を亡くした方や、怪我で仕事が難しくなった方は、どのくらいいますか」


 クラウスが入ってきた。


「えっと……かなりいると思いますよ。ここ数年で国境のいざこざが増えましたから。特に一昨年の小競り合いの後は、けっこう見かけます」


「見かける、というのは」


「町で、みたいな話ですが……あの、何でそんなことを」


「人が足りないんです」


「ああ、なるほど」


 クラウスは少し考えた。


「未亡人の方なら、働きたい方はいるかもしれないですね。ただ、子供がいると難しかったり……」


「子供がいても、屋敷に仕事があるなら来られます。住み込みか、時間帯によっては通いでも」


「そうですね。ただ、怪我をした方だと、体を使う仕事は難しいですよね」


「体を使わない仕事ならできます」


「体を使わない仕事、というと?」


「書類の仕分け、在庫の記録、備品の数え方、衣服の補修」


 ノエルは指を折りながら言った。


「全部、座ってできる仕事です。片手があれば、そろばんも覚えられます」


 クラウスが少し、目を丸くした。


「……ノエルさん、それ本気で言ってますか」


「本気です」


「片手でそろばんは……まあ確かに珠を弾くだけなら……」


「慣れれば十分できます。私が教えます」


「教えます、って、ノエルさんが直接?」


「何か問題ありますか」


「問題というか……公爵家の事務方が、未亡人や怪我をした方に直接そろばんを教えるというのは、なかなかその、聞いたことのない話で」


「前例がなければ、作ればいいです」


 クラウスが少し黙った。


「……ノエルさんが言うと、なんか本当にそうな気がしてくるのが怖いんですよ」


「怖くないです」


 ノエルは続けた。


「ただ、この案を閣下に持っていく前に、実態をもう少し把握したいんです。公都に、そういう方々がどのくらいいるか、何を困っているか、どんな仕事なら来られるか」


「調べるということですか」


「はい。クラウス、少し町に出る時間が取れますか」


「……護衛として同行する、という理解でいいですか」


「そうです」


「閣下に言ったら反対されそうな気がするんですけど」


「反対される前に調べてきます」


「それ、順序がおかしいですよ」


「情報なしで提案すると、閣下には却下されます。情報があれば、話が前に進みます」


 クラウスは少し考えてから、深く息をついた。


「……わかりました。いつにしますか」


「明日の午前中は空いていますか」


「空けます」


「ありがとうございます」


「護衛として同行するので、あまり変な場所には行かないでください」


「変な場所には行きません」


「変な場所の定義がノエルさんと私で違う気がするのが不安なんですが……」


「大丈夫です」


「……はい」


 クラウスが退室した。


 ノエルは羽ペンを置いて、少し考えた。


(まずは実態把握だ)


 前世の経験上、机の上でどれだけ計画を立てても、現場を見ずに動くと必ずどこかで齟齬が生まれる。


 人が何を困っているかは、実際に行って聞かなければわからない。


 翌日、ノエルとクラウスは公都に出た。


 市場の近くの広場で、ノエルはいくつかの話を聞いた。


 夫を昨年の国境の小競り合いで亡くした女性は、子供が二人いて、内職をしながら何とかやっているが手が足りないと言った。


 腕に怪我を負った元兵士の男性は、農作業には戻れないが、手先の仕事ならできると言った。何か仕事があれば、と付け加えた。


 話を聞きながら、ノエルは静かにメモを取った。


(補助金があっても、生活が安定しているとは言い難い人が相当数いる)


 話しかければ話してくれる人は多かった。

 それだけ、誰かに聞いてほしいことが積もっているということだ。


(話を聞くことと、一時的な恵みを与えることは、違う)


 ノエルは前世の経験から、そのことをよく知っていた。


 その場しのぎの支援は、根本を変えない。

 必要なのは、毎日の食事が自分の力で賄える仕組みだ。


 一時間ほど話を聞いた後、クラウスが少し声を潜めて言った。


「ノエルさん、あの……そろそろ戻りますか」


「もう少しだけ」


「いや、それはわかるんですが」


 クラウスが少し躊躇いがちに続けた。


「ノエルさん、あっちの方には行かない方がいいと思うんです」


「あっち?」


 ノエルが見た方向に、路地があった。

 広場から少し外れた、薄暗い路地だ。

 子どもの声がした。


「……子どもがいますね」


「います。ただ、あのあたりは」


「スラムですか」


 クラウスが少し黙った。


「……はい。公都の外れにあります。大きくはないですが」


「どのくらいの規模ですか」


「詳しくは知らないですが……子どもが多いと聞いています。身寄りのない子が流れ着くことが多いみたいで」


「孤児、ということですか」


「おそらく」


 ノエルは路地の方を見た。


 子どもの声は、笑い声ではなかった。


「見てきます」


「えっ」


「すぐ戻ります」


「いや、ちょっと待ってください。あそこは、あまり」


「すぐ戻ります」


 ノエルは路地に入った。

 クラウスが小走りでついてきた。


 路地の奥は、思ったより広かった。


 壊れかけた建物が並んでいた。

 子どもが、何人かいた。


 年齢はまちまちだ。

 小さい子で五歳くらい、大きい子で十二、三歳くらいだろうか。


 全員、痩せていた。

 全員、目が鋭かった。


 ノエルを見た瞬間、子どもたちは一斉に距離を取った。


(警戒している)


 当然だ。

 知らない大人が入ってきた。

 過去に、いい経験をしてこなかったのだろう。


 ノエルはしゃがんだ。

 目線を、子どもたちと同じ高さにした。


「こんにちは」


 子どもたちは何も言わなかった。


 一番年上らしい子が、少し前に出た。


「……何しに来た」


「見に来ました」


「お前には関係ないだろ。どっか行け」


「もう少しだけいます」


「なんで」


「話したいことがあるので」


「俺たちに話すことなんてない」


「字は読めますか」


 子どもは、一瞬、ぴくりと動いた。

 図星の動き方だった。


「……関係ない」


「読めると、できることが増えます」


「うるさい」


「数は数えられますか」


「当たり前だ、馬鹿にするな」


「じゃあ数えるだけの仕事があったら、やりたいですか」


 子どもが黙った。


 少し後ろの小さい子が、お腹の音を鳴らした。

 子どもたちの間に、微妙な空気が流れた。


 ノエルはそれを、見なかったことにした。

 見なかったことにした上で、続けた。


「一度でいいので、話を聞いてもらえますか」


 一番年上の子が、ノエルをじっと見た。


 疑っている目だった。

 しかし興味がないわけでもない、という目だった。


 返事はなかった。

 しかしノエルは、それを拒否とは受け取らなかった。


「また来てもいいですか」


 やはり返事はなかった。


 ノエルは立ち上がって、路地を出た。


 クラウスが、出てきたノエルの顔を見て、少し引いた。


「……ノエルさん、すごい顔してますよ」


「どんな顔ですか」


「なんか、物事を全部解決しようとしている人の顔です」


「してません」


「してますよ絶対。あの子たちに何かするつもりですか」


「まだ何も決めていません」


「決めていないのに、また来てもいいか聞いたんですか」


「可能性を残したかっただけです」


「……その可能性が何に繋がるのか、私にはまだ全然見えていないんですが」


「私にも、まだ見えていません」


 ノエルは正直に言った。


「ただ、見てしまったので」


「見てしまったので、ですか」


「見なかったことにはできないので」


 クラウスが少し黙った。


「……ノエルさんって、たまにすごく頑固ですよね」


「よく言われます」


「それ、誰に言われたんですか」


「色々な人に」


「……そうですか」


 二人は並んで歩いた。


 しばらくして、クラウスが言った。


「あの子たち、ずっとあそこにいるんですかね」


「どこにも行ける場所がないから、あそこにいるんだと思います」


「……行ける場所が、あれば」


「あれば、違うかもしれません」


 クラウスはそれ以上、何も言わなかった。

 ノエルも言わなかった。


 ただ、二人とも、少し速足になっていた。


 屋敷に戻ってから、ノエルは机に向かって、今日見たことをメモにまとめた。


 未亡人の人数の概算。

 傷を負った元兵士の人数の概算。

 それぞれが何を困っているか。

 どんな仕事なら対応できそうか。


 最後に、一行だけ追加した。


「スラム地区に孤児多数。管理者なし。教育なし。要検討」


 要検討、と書いてから、ノエルは少し考えた。


 この話をライアスに持っていけば、どういう反応が返ってくるか。


(補助金がある。どこにでもスラムはある。という方向の話になりそうだ)


 それはそれで間違いではない。

 しかしそれで終わりにしていいかどうかは、別の話だ。


(どう話せば、前に進むか)


 感情で動かそうとしても、ライアスには通じない。

 数字と根拠で話せば、聞いてくれる。

 そのことは、この一ヶ月でよくわかった。


(孤児を教育することで、将来的に領地の人材になりえる。その計算を出せば、話は聞いてもらえるかもしれない)


 ただし、そこまで準備を整えるには時間がかかる。

 今日のメモは、その第一歩だ。


 ノエルは羽ペンを置いた。


 今夜の観察日誌には、短く書いた。


「本日、公都の実態調査を行った。未亡人・傷を負った方々の状況、スラムの孤児の存在を確認。見てしまったので、見なかったことにはできない。準備が必要だ。ライアス様への提案は、数字を揃えてから。感情で動かそうとしても閣下には通じない。これは重要な教訓として記録する」


 一行空けて、最後に書き足した。


「なお今日の閣下は不在だったが、それはそれとして帰りにすれ違った廊下での閣下の横顔は尊かった。今日の推し活案件はそれだけだが、密度は高かった。よって今日はプラスで終わる」

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