第9話 母のために会わない
木曜は二人とも帰宅が遅くなった。
紗枝が買ってきた総菜を皿に移していると、結菜が玄関で、今日はご飯を炊かなくていいと言った。
「おにぎり、買ってきた。お母さんの分も」
「こっちも買ってきちゃった」
「じゃあ、明日の分になるね」
袋をのぞき、娘が笑った。食卓には、二人で食べるには多い唐揚げと、四つのおにぎりが並んだ。
こんな日は前にもあった。携帯電話で一言送れば重ならずに済むのに、どちらも、相手が遅くなるなら用意しておこうと考える。
結菜は制服を脱いで戻ると、紗枝の向かいに座った。
「お母さん、寝不足?」
「そう見える?」
「目、赤いから」
紗枝は目元へ手をやった。昨夜も、話すべきことを考えて眠れなかった。
「少し。でも、大丈夫」
「仕事、忙しい?」
「いつもと変わらないよ」
結菜が、おにぎりの包みを開けた。
娘が結婚するまでの数か月、これまでどおりに暮らせると思っていた。帰宅を待ち、ご飯を食べ、たまに結婚の相談を受ける。火曜の夜に約束してからは、黙って食べる時間にも、まだ話していないことがあると分かっていた。
「来週、お父さんとご飯食べる」
結菜が言った。
「和樹と三人で。休み、合ったから」
「そう」
「前に相談してた日で決まった」
紗枝は、おにぎりから落ちた米粒を拾った。
「楽しんでおいで」
言えたことにほっとすると、娘がこちらを見ていた。
「お母さん、無理してる?」
「そんなことない」
紗枝はすぐに答え、すぐだったことを悔やんだ。
「気にしなくていいのよ。お父さんと会うのは、結菜の自由なんだから」
「そう言われても、気にする癖がある」
結菜は唐揚げの皿を少し寄せた。紗枝は、自分が聞き返すべきか迷った。
「昔から?」
「うん」
娘は、箸を持ったまま答えた。
「帰ってくると、お母さん、あんまりしゃべらない日があったから」
「疲れてたんだと思う」
「うん。だから、行くと疲れさせるんだと思ってた」
紗枝はおにぎりを置いた。
待ち合わせへ送ったあと、買い物を済ませて家へ戻る。洗濯をして、また迎えに出る。それは実際に大変だった。娘が帰れば、夕飯の支度もある。
「面会の日だけ特別に疲れてたわけじゃないよ。平日だって」
「分かってる」
結菜の声が強くなった。
「……今は分かるってこと。私も働いてるから。でも、あの時、仕事の疲れとお父さんの話の区別なんて、できないよ」
紗枝は空いた包みをたたんだ。
「そんなに、いつも黙ってた?」
「いつもって言ってない」
娘は皿の端の唐揚げを二つに割った。中の肉からまだ湯気が出た。
「鳥にお父さんのパン取られた話は、笑ったよね。覚えてる?」
「覚えてる。結菜が鳥のまねをして」
「うん。だから、よく分からなかった。どの話ならしていいのか」
紗枝は娘を見た。結菜は割った唐揚げを口へ運び、熱かったのか、しばらく話さなかった。
「笑った日があったから、大丈夫だと思ってた」
「うん」
結菜の返事は短かった。紗枝のために、もう何かを足すことはなかった。
娘が高学年になってから、面会を断る日が増えた。紗枝はそれを、父親と出かけるより友達といたい年頃なのだと思っていた。娘がそう言えば、あえて別の理由を探さずに済んだ。
「友達と遊ぶって言ってたでしょう」
「それも本当。毎回、お母さんのために断ってたわけじゃない。塾があったり、面倒だったりもした」
結菜は少し考えて、続けた。
「でも、お母さんと家にいれば、もうちょっと楽かなって思う日はあった。掃除とか手伝えるし。一人で留守番させるの、悪い気もした」
「一人で留守番」
紗枝は小さく繰り返した。
待つのは自分だった。けれど、娘は母親を家に残して遊びに行くのだと思っていた。
「お父さんに会う日なのに、お母さんを置いていくみたいで。行くのをやめた時、お母さんが、じゃあ一緒に買い物しようって言うと、よかったって思ってた」
紗枝は食卓の端を見た。
予定が空けば、うれしかった。娘と買い物ができる。送迎の時間を気にせずに過ごせる。ほっとした様子を隠さなかった。
「じゃあ、一緒に買い物した日は、嫌だったの?」
「そうじゃない。あれは楽しかった」
娘はそこで言葉を切った。
「だから、全部嫌な思い出になったわけじゃないよ」
紗枝の胸がゆるみかけた。
「でも、お父さんのところへ行かなくてよかったって話には、ならない」
紗枝はうなずいた。結菜が食べやすいように皿を寄せかけ、自分の手元へ戻した。
娘は唐揚げを一つ食べ、お茶を飲んだ。
「今日、職場で、年末の休みの希望を聞かれた」
急に変わったように聞こえる話を、紗枝は黙って待った。
「和樹と相談してから出したいって答えたんだけど、最初に、お母さんはどうするんだろうって考えたの」
「私は、仕事の予定が出てから決めるよ」
「うん。でも、聞く前に、自分たちの予定を決めていいんだよねって思って」
「もちろん」
紗枝は即座に答えた。娘は首を少し傾けた。
「そう言うと思った。でも、帰ったらお母さんが一人だなって考えちゃうんだよ。まだ、決めてもないのに」
紗枝はお茶を置いた。
「分かった。休みの希望は、二人の都合で出して」
結菜は、うん、と言った。
「お父さんのところへ行くと、お母さんは元気かって聞かれた。元気だよって答えてたけど、家では眠そうだったり、腰が痛いって言ってたりしたから」
「それで?」
「本当のことを言った方がいいのか迷った。でも、それを言って、お父さんが何か言ってきたら、お母さんは嫌かもしれないと思った」
娘が、二つの家の間で何を選んでいたのか。紗枝はその話を、一度も聞いてこなかった。
面会を断ると伝えた電話で、康文は何度か理由を尋ねた。娘がそう言っているから。紗枝はその一言で返し、当日の都合だけを話した。
結菜が何を見て、何を心配していたのかまでは、確かめなかった。
「会いたいのに、会わなかった日もあった?」
聞きながら、紗枝は答えを恐れた。
「あったと思う。でも、今になって全部分けるのは難しい」
娘は迷わず答えた。
「私だって、面倒で断った日もあったし。いま全部、お母さんのせいって言いたいわけじゃない」
「うん」
「会っていいか考える時、いつもお母さんがどう思うかを一緒に考えてた。今も、何時に帰ったら機嫌悪くないかなって、先に考える」
紗枝は、帰りの時刻を何度も尋ねたことを思い出した。夕飯の支度のためだと思っていた。その理由もあった。しかし、それだけではなかった。
「今度は、私のことは考えずに行ってきて」
結菜はすぐにはうなずかなかった。
「そうできるようにしたい」
「私も、余計なことを聞かないようにする」
「何も聞かないって決めなくてもいい。お父さんと会った話をしても、普通に聞いてくれたらいい」
紗枝は娘を見た。
「分かった」
食事のあと、結菜は残ったおにぎりを冷凍するためラップを出した。紗枝は皿を片づけ、唐揚げを保存容器へ移した。
「明日のお弁当に入れる?」
「入れる。朝、少しもらうね」
娘の返事は普段の調子だった。
紗枝は容器を冷蔵庫に入れた。来週の日曜に自分がする買い物のことを、頭の中で一つずつ数えた。
食卓へ戻ると、娘の椅子に薄い上着がかかっていた。
紗枝は背からずり落ちた袖を椅子にかけ直した。
結菜が戻り、自分で持っていった。




