第10話 私の知らない父娘
翌週の日曜の朝、紗枝はお茶の湯を沸かしながら、乾麺の袋を出した。昼は一人で食べるつもりだった。
「お昼、麺にするの?」
「うん。昨日の残りもあるし」
「じゃあ、行ってくる。夕飯はまだ分からないから、私の分は考えなくていいよ」
紗枝は、帰る時刻ではなく傘のことを聞きかけた。窓の外は晴れている。結局、気をつけて、とだけ言った。
戸が閉まると、部屋が静かになった。
この家で一人になることは、珍しくない。結菜が友達と旅行した夜もあった。仕事帰りに和樹と会って遅くなる日もある。そのたび食事を一人で済ませ、洗濯をし、テレビを見た。
今日は、結菜が康文に会う。
それだけで、紗枝は湯の沸く間に電話を二度見た。
和樹はどんな挨拶をするだろう。康文は、二人で結婚を決めたと聞いて、何を答えるだろう。
自分には明るく話してくれた娘が、向こうでは困った顔をしていたら。母に何か言われたのかと聞かれたら。
考え始めると、食事の店まで知りたくなった。
紗枝は電話を食卓に伏せ、やかんの火を止めた。
午前中に頼まれていた会館の掲示物を作り、昼前に買い物へ出た。休日まで仕事をする必要はなかったが、家で同じところを歩き回るよりよかった。
店先には、二人分に分けた鍋の具が並んでいた。手に取りかけて、今日は要らないと戻す。娘が帰ってきた時に、作って待っていたと言わずに済む物を選んだ。
豆腐と卵を買い、食べ切れるだけの野菜を足す。いつもより小さい袋が軽かった。
帰り道、園子から電話が来た。
「今、話せる?」
「買い物の帰り。大丈夫」
「来月、お墓に行こうと思って。何日なら空いてる?」
紗枝は足を止めた。自分が話を聞いてほしい時には、何日もかけて切り出した。姉は今日の用件を話すために電話をしてきた。
候補の日を二つ聞き、あとで返事をすると答えた。そこで終わらせてもよかったが、紗枝は言った。
「今日、結菜が和樹さんを康文さんに会わせてる」
「そう。日が合ったんだね」
「私には、何も連絡ないけど」
「食事してるんでしょう」
「そうね」
園子は、何か心配なの、とも、気にしすぎだよ、とも言わなかった。紗枝は歩道の端へ寄った。
「結菜から、何か聞いてる?」
「式の日? まだ聞いてないよ」
「ううん。今日のこと」
「今日は、私、結菜と話してないけど」
園子が言った。買い物袋の持ち手が、指に食い込んでいた。
「そう。ごめん。お墓は、二つ目の日なら休めると思う。職場で確かめる」
「じゃあ、切符はそれからにするね」
電話を切り、紗枝は袋を持ち替えた。
昼は予定どおりに麺をゆでた。作った掲示物の数字を確かめ、間違いを一つ直した。午後にはベランダの手すりを拭き、干していた布巾を取り込んだ。
夕方まで待てず、娘の部屋の扉を開けかけた。窓を開けてやるだけなら、普段もしている。だが今日は、机に何か置かれていないかを見たかった。
父と会う前に書いたメモがあれば。康文から届いた物があれば。自分の知らないことを、娘の持ち物から少しだけ知ることができる。
紗枝は取っ手から手を離した。
台所へ戻り、ご飯を冷凍した。容器のふたへ日付を書き、掲示物の原稿を鞄にしまった。
窓際に座って、結菜が貸してくれた本を開いた。春に読もうとして、そのままだった。最初から読み直すと、覚えている箇所がほとんどなかった。
続きを読み、読み終えた。最後のページに、娘が挟み忘れた店のレシートがあった。日付は春だった。しおりの代わりにそのまま戻し、表紙を閉じた。
夕方、結菜から帰ると連絡が来た。夕飯はいらない、とあった。
紗枝は、分かったと返した。
帰宅した娘は、玄関で少し手間取っていた。両手に紙袋があり、靴を脱ぐのに壁へ寄っている。
「持とうか」
「ありがとう。こっち、本だから重い」
受け取ると、中に薄い冊子と地図が見えた。娘は手を洗い、上着を脱いだ。
「たくさん買ったのね」
「これは和樹の。置いておいてって。私が先に読んで、引っ越しの時に一緒に運ぶ」
紗枝は紙袋を椅子に置いた。
「どうだった?」
紗枝は袋から手を離して聞いた。
「楽しかったよ。最初、和樹もお父さんも、ずっと敬語で」
結菜が少し笑った。
「和樹、席に着く前に挨拶しようとして、店の人に、まずお座りくださいって言われてた」
「和樹さんらしいね」
「うん。そのあと、電車の話になって。二人とも乗り換えを間違えた話ばっかりしてた」
紗枝は笑った。康文が電車を間違えた話は知らなかった。若い頃は、どこへ行くにも先に調べる人だった。
「お父さんが?」
「仕事じゃなくて、休みの日。違うホームで待ってたんだって」
「結婚の挨拶は、できたの?」
「ちゃんとしたよ。お父さん、私と和樹が話してるのを見てから、二人で決めたなら、おめでとうって」
紗枝はうなずいた。
「どこに住むかも聞かれたけど、まだ探してるって言ったら、そうかって。自分は通勤が短くなって楽になったから、二人もよく見て決めたらいいって」
「勤め先、変わったの?」
「職場じゃなくて、住むところ。今の部屋へ越した時の話だと思う」
紗枝は、住所録の小さい丸を思い出した。娘の父の住所を知っていても、そこへ移った理由は知らなかった。
「お母さんに話してたよね?」
「住所は、知らせてもらってた。でも、その理由までは聞いてなかった」
結菜は、そっか、と答えた。父のことを知らない母を、不思議そうに責めることはなかった。
娘は話しながら、紙袋から買ってきたパンを取り出した。今度は一つだけだった。
「明日の朝、私が食べる分。お母さんのは、まだあるよね」
「うん。ある」
結菜は居間の椅子に腰を下ろした。
「式の料理、少なくしすぎない方がいいって話になった。お父さん、結婚式でお腹すいたことあるって」
「あの人、よく食べるから」
言ってから、今もそうなのかは知らないと思った。
「うん。今日も、和樹と同じの頼んでた」
結菜は小さく笑い、電話を取り出した。紗枝はその画面を見ないよう、流しの方へ向いた。
しばらくして、娘が言った。
「お母さん、前に、お父さんに電話した?」
紗枝は布巾を置いた。
「画材を出した日?」
「うん。私が聞いたら、話したって言ってた」
「した」
「何を頼んだの?」
隠せると思った。結菜が混乱しているから少し気をつけて、と言っただけにすればよい。
紗枝は食卓へ戻った。
「昔の話は、式が済むまでしないでほしいって」
娘が口を結んだ。
「お父さんには、断ったから、詳しくはお母さんに聞いてって言われた」
「うん。断られた」
「私が聞きたいのに?」
「結菜のためだと思った。でも、私が困るから頼んだ」
結菜は、電話を裏返して置いた。
「もう、そういうのはやめて」
「分かった」
「話すって言ったこと、待ってるから」
紗枝はうなずいた。娘は立ち上がり、明日の用意があると言って部屋へ入った。
紙袋が一つ、食卓の横に残った。本の角が椅子の脚に当たっていたので、少しだけ離した。
紗枝は読み終えた本を、その横へ置いた。結菜が戻ってきて、あ、終わったの、と手に取った。
「長く借りてたね」
「これも和樹のだった。明日、持っていく」
娘は本を紙袋へ入れた。底を両手で支えて持ち上げ、そのまま自分の部屋へ運んだ。




