↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
娘が結婚する日まで、私は嘘をついていた  作者: 雨宮 弦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/16

第11話 康文さんの十八年

 康文から届いたメッセージには、受け取りたい物の名前だけが書いてあった。


 古い写真を入れた、小さいアルバム。結菜が自宅の写真を選んでいると聞き、自分の手元のものも探したところ、以前紗枝に預けた一冊が見つからなかったという。


 紗枝は押し入れを探した。娘の本の箱とは別の、封筒をまとめた袋の底にあった。預かったこと自体を、長いこと忘れていた。


 郵送すると返すと、週末、近くまで行く用事があると返事が来た。駅前なら受け取れる。そう書かれていた。


 結菜に渡してもらおうとは、書かれていなかった。


 土曜の午後、紗枝は喫茶店の入口に立った。


 康文は先に着いていた。窓際ではなく、壁に近い二人掛けの席だった。片手を少し上げ、紗枝が来ると鞄を足元へ寄せた。


「お待たせしました」


「いや、今来たところ」


 顔を見るのは何年ぶりだろう。目元にしわが増え、髪に白いものが交じっている。けれどカップを置く時の指の形は、見覚えがあった。


 紗枝は袋からアルバムを出した。


「預かったままになってて、ごめんなさい」


「こっちも、どこへ置いたか忘れてたから」


 康文は一度だけ中を確かめ、すぐに閉じた。娘の小さい頃の写真を、二人で眺めるために来たわけではなかった。


「結菜に見せるの?」


「欲しい写真があったら、使えるようにしようと思って。持ってる物が違うだろうし」


「そうですね」


「仕事は、今も同じ会社ですか」


「うん。運行管理の方を、続けてる」


 運転手やトラックの予定を調整する仕事だった。紗枝は、彼が遅くまで職場と電話していた頃を覚えている。


「休みは、取りやすくなった?」


「前よりは。代われる人もいるし、予定があれば先に相談してる」


 紗枝はうなずいた。以前の康文を知っているつもりでも、今の働き方までは知らない。


 注文した紅茶が届いた。紗枝が砂糖を入れるか迷っていると、康文は上着の袖を少しまくった。


「このあと、用事があるんでしたね」


「友達に会う。修理に出してたカメラを、代わりに受け取ってもらうことになってるから」


「カメラ?」


「数年前から。休みの日に、歩きながら撮ってる」


 紗枝は康文の鞄を見た。昔使っていた仕事用の鞄とは違う。丈夫そうな布で、肩ひもがついていた。


「写真、好きでしたっけ」


「昔はそうでもなかった。友達に誘われて、借りて使ったら面白くて」


 彼は小さく笑った。


「機械の方は、今もよく分からないけど」


「どんなものを撮るの」


「川とか、駅とか。遠くへ行くことは少ないけど」


 康文は電話を取り、画面を二度触った。


「これ、この近く。春に友達と歩いた時」


 紗枝へ向けられた写真には、小さい橋と、その下を流れる水が写っていた。桜の花は画面の端に少しあるだけだった。


「花じゃなくて、橋なのね」


「花を撮りに行ったんだけど、人が多くて。下へ降りたら、こっちが面白かった」


 紗枝は画面を見た。人がいない水面に、橋の影が落ちている。どこがよい写真かは分からなかったが、彼が選んで残したものだとは分かった。


「友達には、せっかく来たのに花が小さいって言われた」


「それは、そうかもしれない」


 紗枝が答えると、康文も笑った。電話を戻し、鞄のひもを膝の横へよける。


 紗枝は初めて、その友達の名前も、何人で会うのかも知らないと思った。聞けば答えるかもしれない。だが、今この場で、彼の今の暮らしを、詳しく聞き出す必要はなかった。


 沈黙ができると、康文は窓の外を一度見た。退屈しているのか、待ち合わせの時間を考えたのかは分からなかった。


「この前の電話、ごめんなさい」


 紗枝は紅茶へ目を落とした。


「黙っていてほしいって、頼んだこと」


「結菜には話した?」


「聞かれたので。何を頼んだかは、言いました」


「そう」


 康文はそれ以上、娘の反応を聞かなかった。


「昔のことも、私から話す約束をしました」


「うん」


「離婚の理由も」


 そこで康文は紗枝を見た。返事を待つ間、カップの中で茶葉の細かい粒が沈んでいった。


「結菜が聞く時に、聞ける形で話してほしい」


「今月中には、と思ってる」


「日を、二人で決めて」


 声を聞きながら、紗枝は、康文に許可を求めていたことに気づいた。これから話します、と康文に伝えれば、よいと言ってもらえる。その一言が欲しかった。


「当時、あなたも話さなかったでしょう」


 康文の手がカップから離れた。


「そうだね」


 紗枝は顔を上げた。康文は窓の方を見た。


「言わない方がいいと思ってた。六歳の子に、どんな顔で言えばいいのかも分からなかった」


「私も――」


「紗枝さんと同じかは、分からない」


 康文は目を戻した。紗枝は、持ち上げたカップを机へ置いた。


「会わないって言われた時も、俺は、そうかって引いた。嫌われたところへ押しかけるのは怖かった。結菜のためだけじゃなくて、俺が怖かったんだと思う」


 店の奥で、コーヒー豆をひく機械が動き始めた。康文は音がやむのを待った。


「そこは、結菜と話すよ」


「怒ってる?」


 聞くつもりではなかった。それでも、口に出してしまうと、紗枝は返事を待った。


「画材のこと?」


「ええ」


「怒ってる」


 康文はすぐに答えた。


「店で聞いたんだ。学校で使うのと何が違うのか、全然分からなくて。あの子に渡すから、って」


 紗枝は膝へ手を下ろした。


「喜んでるって聞いて、それでよかった。俺は」


 康文は一度、袋の中のアルバムに目をやった。


「結菜には、もうあまり絵を描かなくなったのかと思ってたって言った。あいつ、黙っちゃって。俺が今さら聞いたせいで困らせたのかと、その時は思った」


「ごめんなさい」


 康文は答えなかった。


 砂糖を入れないままの紅茶は冷めていた。紗枝は一口飲んだ。飲み切らないと席を立てないような気がした。


「養育費のことも、言います。受け取ってたって。私だけで、全部用意したように思ってるから」


「そうしてほしい」


「毎日見てきたのは私だって、どうしても考えてしまって」


「それは、そうだよ」


 康文は伝票を取り上げ、手元で裏返した。


「でも、今、俺にそれを認めてもらっても、結菜に伝えなかったことは変わらない」


 紗枝はうなずいた。言葉がなくなると、店の奥の食器の触れ合う音がよく聞こえた。


 電話が震え、康文が画面を確かめた。短く打って、伏せる。


「お友達、待ってる?」


「修理が延びたって。受け取るのは来週になった。今日は飯だけ」


「そう」


 紗枝は、もう少し話せると思ってしまった。康文がカップの残りを飲んだので、鞄を膝に引き寄せる。


「結婚式は、来てくれるんですね」


「行くよ。結菜に言われたから」


「私もいるかもしれないけど」


 言ってから、会話が止まった。


 康文はカップを置いた。


「その話、結菜にしてないよね」


「何の?」


「俺が来るなら、お母さんは困るって」


「してません」


「うん。なら、いい」


 紗枝はうなずいた。何も決まっていないのに、康文が写真の端へ寄り、早く席を立つところを考えていた。


「結菜が嫌だと言ったら行かない。でも、紗枝さんに悪いからって、俺から断るのはもうやめる」


「……はい」


 康文は伝票を机の中央へ戻した。


 立ち上がる前、康文はアルバムを袋へ入れた。紗枝が、写真を使うなら傷まないようにした方がいいと言うと、彼は、結菜と相談すると答えた。


「昔の物だから、全部きれいに残ってるわけじゃないけど」


「うちも、そうです」


「覚えてない写真もある。どこで撮ったのか、友達に聞いても分からないのも」


 康文は袋の口を折った。


「日曜、友達と出かけることもあるの?」


「あるよ。何も予定がなければ、家で洗濯して終わる日もある」


「そう」


「結菜と会う日は、空ける。でも、全部の日を空けて待ってたわけじゃない」


 紗枝はうなずき、伝票を手元へ寄せた。


 会計は別にした。入口を出ると、彼は受け取ったアルバムを鞄にしまい直した。


「持ってきてくれて、ありがとう」


「こちらこそ、待たせてしまって」


 康文は鞄を持ち替え、腕時計を見た。紗枝も鞄を肩へかけた。


 駅へ向かう彼の歩く速さは、昔と少し違った。紗枝は反対側の横断歩道へ向かった。


 信号を待ちながら、娘へ、会ってきたと連絡した。アルバムを返したことだけを添えた。


 返事はすぐには来なかった。


 紗枝は電話を鞄へ戻し、信号が変わるのを待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。