第11話 康文さんの十八年
康文から届いたメッセージには、受け取りたい物の名前だけが書いてあった。
古い写真を入れた、小さいアルバム。結菜が自宅の写真を選んでいると聞き、自分の手元のものも探したところ、以前紗枝に預けた一冊が見つからなかったという。
紗枝は押し入れを探した。娘の本の箱とは別の、封筒をまとめた袋の底にあった。預かったこと自体を、長いこと忘れていた。
郵送すると返すと、週末、近くまで行く用事があると返事が来た。駅前なら受け取れる。そう書かれていた。
結菜に渡してもらおうとは、書かれていなかった。
土曜の午後、紗枝は喫茶店の入口に立った。
康文は先に着いていた。窓際ではなく、壁に近い二人掛けの席だった。片手を少し上げ、紗枝が来ると鞄を足元へ寄せた。
「お待たせしました」
「いや、今来たところ」
顔を見るのは何年ぶりだろう。目元にしわが増え、髪に白いものが交じっている。けれどカップを置く時の指の形は、見覚えがあった。
紗枝は袋からアルバムを出した。
「預かったままになってて、ごめんなさい」
「こっちも、どこへ置いたか忘れてたから」
康文は一度だけ中を確かめ、すぐに閉じた。娘の小さい頃の写真を、二人で眺めるために来たわけではなかった。
「結菜に見せるの?」
「欲しい写真があったら、使えるようにしようと思って。持ってる物が違うだろうし」
「そうですね」
「仕事は、今も同じ会社ですか」
「うん。運行管理の方を、続けてる」
運転手やトラックの予定を調整する仕事だった。紗枝は、彼が遅くまで職場と電話していた頃を覚えている。
「休みは、取りやすくなった?」
「前よりは。代われる人もいるし、予定があれば先に相談してる」
紗枝はうなずいた。以前の康文を知っているつもりでも、今の働き方までは知らない。
注文した紅茶が届いた。紗枝が砂糖を入れるか迷っていると、康文は上着の袖を少しまくった。
「このあと、用事があるんでしたね」
「友達に会う。修理に出してたカメラを、代わりに受け取ってもらうことになってるから」
「カメラ?」
「数年前から。休みの日に、歩きながら撮ってる」
紗枝は康文の鞄を見た。昔使っていた仕事用の鞄とは違う。丈夫そうな布で、肩ひもがついていた。
「写真、好きでしたっけ」
「昔はそうでもなかった。友達に誘われて、借りて使ったら面白くて」
彼は小さく笑った。
「機械の方は、今もよく分からないけど」
「どんなものを撮るの」
「川とか、駅とか。遠くへ行くことは少ないけど」
康文は電話を取り、画面を二度触った。
「これ、この近く。春に友達と歩いた時」
紗枝へ向けられた写真には、小さい橋と、その下を流れる水が写っていた。桜の花は画面の端に少しあるだけだった。
「花じゃなくて、橋なのね」
「花を撮りに行ったんだけど、人が多くて。下へ降りたら、こっちが面白かった」
紗枝は画面を見た。人がいない水面に、橋の影が落ちている。どこがよい写真かは分からなかったが、彼が選んで残したものだとは分かった。
「友達には、せっかく来たのに花が小さいって言われた」
「それは、そうかもしれない」
紗枝が答えると、康文も笑った。電話を戻し、鞄のひもを膝の横へよける。
紗枝は初めて、その友達の名前も、何人で会うのかも知らないと思った。聞けば答えるかもしれない。だが、今この場で、彼の今の暮らしを、詳しく聞き出す必要はなかった。
沈黙ができると、康文は窓の外を一度見た。退屈しているのか、待ち合わせの時間を考えたのかは分からなかった。
「この前の電話、ごめんなさい」
紗枝は紅茶へ目を落とした。
「黙っていてほしいって、頼んだこと」
「結菜には話した?」
「聞かれたので。何を頼んだかは、言いました」
「そう」
康文はそれ以上、娘の反応を聞かなかった。
「昔のことも、私から話す約束をしました」
「うん」
「離婚の理由も」
そこで康文は紗枝を見た。返事を待つ間、カップの中で茶葉の細かい粒が沈んでいった。
「結菜が聞く時に、聞ける形で話してほしい」
「今月中には、と思ってる」
「日を、二人で決めて」
声を聞きながら、紗枝は、康文に許可を求めていたことに気づいた。これから話します、と康文に伝えれば、よいと言ってもらえる。その一言が欲しかった。
「当時、あなたも話さなかったでしょう」
康文の手がカップから離れた。
「そうだね」
紗枝は顔を上げた。康文は窓の方を見た。
「言わない方がいいと思ってた。六歳の子に、どんな顔で言えばいいのかも分からなかった」
「私も――」
「紗枝さんと同じかは、分からない」
康文は目を戻した。紗枝は、持ち上げたカップを机へ置いた。
「会わないって言われた時も、俺は、そうかって引いた。嫌われたところへ押しかけるのは怖かった。結菜のためだけじゃなくて、俺が怖かったんだと思う」
店の奥で、コーヒー豆をひく機械が動き始めた。康文は音がやむのを待った。
「そこは、結菜と話すよ」
「怒ってる?」
聞くつもりではなかった。それでも、口に出してしまうと、紗枝は返事を待った。
「画材のこと?」
「ええ」
「怒ってる」
康文はすぐに答えた。
「店で聞いたんだ。学校で使うのと何が違うのか、全然分からなくて。あの子に渡すから、って」
紗枝は膝へ手を下ろした。
「喜んでるって聞いて、それでよかった。俺は」
康文は一度、袋の中のアルバムに目をやった。
「結菜には、もうあまり絵を描かなくなったのかと思ってたって言った。あいつ、黙っちゃって。俺が今さら聞いたせいで困らせたのかと、その時は思った」
「ごめんなさい」
康文は答えなかった。
砂糖を入れないままの紅茶は冷めていた。紗枝は一口飲んだ。飲み切らないと席を立てないような気がした。
「養育費のことも、言います。受け取ってたって。私だけで、全部用意したように思ってるから」
「そうしてほしい」
「毎日見てきたのは私だって、どうしても考えてしまって」
「それは、そうだよ」
康文は伝票を取り上げ、手元で裏返した。
「でも、今、俺にそれを認めてもらっても、結菜に伝えなかったことは変わらない」
紗枝はうなずいた。言葉がなくなると、店の奥の食器の触れ合う音がよく聞こえた。
電話が震え、康文が画面を確かめた。短く打って、伏せる。
「お友達、待ってる?」
「修理が延びたって。受け取るのは来週になった。今日は飯だけ」
「そう」
紗枝は、もう少し話せると思ってしまった。康文がカップの残りを飲んだので、鞄を膝に引き寄せる。
「結婚式は、来てくれるんですね」
「行くよ。結菜に言われたから」
「私もいるかもしれないけど」
言ってから、会話が止まった。
康文はカップを置いた。
「その話、結菜にしてないよね」
「何の?」
「俺が来るなら、お母さんは困るって」
「してません」
「うん。なら、いい」
紗枝はうなずいた。何も決まっていないのに、康文が写真の端へ寄り、早く席を立つところを考えていた。
「結菜が嫌だと言ったら行かない。でも、紗枝さんに悪いからって、俺から断るのはもうやめる」
「……はい」
康文は伝票を机の中央へ戻した。
立ち上がる前、康文はアルバムを袋へ入れた。紗枝が、写真を使うなら傷まないようにした方がいいと言うと、彼は、結菜と相談すると答えた。
「昔の物だから、全部きれいに残ってるわけじゃないけど」
「うちも、そうです」
「覚えてない写真もある。どこで撮ったのか、友達に聞いても分からないのも」
康文は袋の口を折った。
「日曜、友達と出かけることもあるの?」
「あるよ。何も予定がなければ、家で洗濯して終わる日もある」
「そう」
「結菜と会う日は、空ける。でも、全部の日を空けて待ってたわけじゃない」
紗枝はうなずき、伝票を手元へ寄せた。
会計は別にした。入口を出ると、彼は受け取ったアルバムを鞄にしまい直した。
「持ってきてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、待たせてしまって」
康文は鞄を持ち替え、腕時計を見た。紗枝も鞄を肩へかけた。
駅へ向かう彼の歩く速さは、昔と少し違った。紗枝は反対側の横断歩道へ向かった。
信号を待ちながら、娘へ、会ってきたと連絡した。アルバムを返したことだけを添えた。
返事はすぐには来なかった。
紗枝は電話を鞄へ戻し、信号が変わるのを待った。




