第12話 許される説明を捨てる
一枚目の紙には、康文の帰りが遅かった、と書いた。
紗枝はその下へ、自分も働いていた、と続けた。結菜がまだ小さくて、相談する相手も少なかった。そこまで書くと、文章は滑らかになった。
相手は職場で話を聞いてくれた人だった。気づいたら頼るようになっていた。
書き終えてから、紗枝はペンを置いた。
自分で選んだことが、一行も書かれていない。
火曜の夜だった。結菜は風呂に入っている。食卓で手紙のようなものを書いていたら、出てきた娘が読んでしまう。紗枝は紙を持って自分の部屋へ移った。
低い机に置き、もう一度読んだ。
康文の帰りが遅い日には、夕飯を一人で食べることもあった。それは本当だった。だが、康文が休みの日に結菜を風呂へ入れたことも、寝かしつけをしたことも、この文章にはない。
夫が忙しく、自分が寂しかった。それだけを並べれば、原因がそこにあるように読めた。
紗枝は最初の二行に線を引いた。
書いた紙を捨てるのは、まだできなかった。自分がそれを書いたことまで消すようで、別の紙を上に重ねた。
不倫したのは私です。
文字にすると、見慣れないほど短かった。
その一文のあとに、でも、と書きたくなる。すぐに関係をやめられなかった理由。自分もつらかったこと。相手から何と言われたか。
紗枝は、相手の名前を書かずに進めた。同じ職場で知り合った人。紗枝が結婚していると知っていた人。結婚していたのは自分で、その約束を破ったのも自分だ。
携帯電話が震えた。園子から、墓参りの日についての連絡だった。
紗枝は返事をし、そのまま電話をかけた。
「今、少し話せる?」
「うん。どうしたの」
「結菜に話すこと、書いてる」
園子の向こうで、テレビの音が小さくなった。
「読んでほしいの?」
「ううん。今、読んだら、何て言えば悪く思われないか聞きそうだから」
「そっか」
紗枝は、線を引いた紙を見た。
「私、あの頃寂しかったって、書いたの」
「そうだったんだろうね」
「でも、それを最初に書いたら、私が悪いだけじゃないって言ってるみたいで」
「その話から始めたら、結菜、何て言えばいいの」
紗枝はうなずき、見えないと気づいて、うん、と答えた。
「どこまで話すかも迷う。全部言わないと、また隠したってことになるのかと思って」
「全部って?」
「相手と、どこで会ったかとか」
園子は少し黙った。
「私も、それは聞きたくない。ごめん、きついけど。あんたが話したいことと、あの子が聞きたいことは、同じじゃないと思う」
紗枝はペンのキャップを閉めた。
話し切れば、もう隠さずに済む。それで軽くなるのは、自分だけかもしれなかった。
「いつ聞けるかは、これから聞く」
「日が決まったら、私にも教えて。終わったかどうかは、聞かないから」
「分かってる」
その返事が本当かどうか、まだ自信はなかった。
電話を切ると、廊下で結菜の足音がした。紗枝は紙を伏せなかったが、部屋の戸は閉じていた。娘は居間へ入り、冷蔵庫を開けた。
紗枝はしばらくその音を聞いてから、戸を開けた。
「結菜、今、話しかけていい?」
「うん」
娘は髪にタオルをかけていた。紗枝は、ドライヤーを済ませたあとでいい、と伝えた。
「長い話?」
「今日は、日を相談したいだけ」
結菜はうなずき、洗面所へ戻った。
風の音がやむまでの10分ほど、紗枝はお茶を用意した。娘が戻ると、座る前に言った。
「離婚した理由と、そのあと私が結菜に言わずにいたことを話したい。旅行や道具のことも、もう一度、ちゃんと」
「今から?」
「結菜が聞ける時に。今月中に話すって約束したけど、夜に急に始めるのは違うと思って」
結菜は向かいへ座った。髪の先がまだ少し湿っていた。
「聞いたら、つらいこと?」
「そうだと思う」
「お父さんが何かしたの?」
紗枝は首を振った。
「私がしたこと。お父さんが悪いと思わせてきたのも、そのままにはできない」
娘は湯のみを見た。しばらくして、顔を上げた。
「日曜の午後なら、予定ない」
「ここでいい?」
「ここがいい。外で聞きたくない」
「分かった。途中でやめたくなったら、やめていいから」
結菜は小さくうなずいた。
「私、何を知ってるか、先に言わなきゃいけない?」
「そんなことはない」
「お母さん、いつも、お父さんが何て言ったのか聞くから。どこまで知られてるか確かめてるみたいで、嫌だった」
紗枝は、机の下で重ねていた手をほどいた。
「そうしてた。ごめんなさい。日曜は、結菜が何を聞いたかとは関係なく、私から話す」
「うん」
娘はお茶を飲み、時計を見た。
「そのあと、和樹と電話するかもしれない。聞いたこと、話すかも」
「結菜が話したい人に、話していい」
紗枝の声は、少し震えた。自分が何をしたかを、和樹も知る。その両親にも伝わるかもしれない。
それでも、ここだけの話にしてと頼むことは、もうできなかった。
結菜が部屋へ戻ると、紗枝は自分の机に向かった。
低い机には、線を引いた紙と、書き直した紙が並んでいた。
紗枝は「結菜を失いたくなかった」と書き足した。読んでみると、娘に差し出せる言葉に見えた。その下へ、娘がお父さんを好きだと話すのが嫌だった、と続けた。
同じことを言っているつもりだったのに、後の一行を消したくなった。
廊下で、娘の部屋の戸が閉まった。紗枝は二行とも残した。
水曜には、別の日にしてもらおうかと思った。月末で娘も忙しい。翌日は自分が遅番だった。日を延ばす理由なら、次々に見つかった。
木曜、結菜が食卓へ小さいメモを置いた。
〈日曜、和樹には夕方なら会えるかもと伝えました。話が終わってから決めます〉
紗枝はメモを読んだ。娘の部屋の明かりは、もう消えていた。
自分の手帳を開き、日曜の午後の空欄へ「結菜と話す」と書いた。
土曜の夜、紙を二枚にまとめた。離婚の原因。娘が父を悪く言った時に否定しなかったこと。養育費。旅行の別の日と、画材の贈り主。
末尾に、「結菜に嫌われたくなかった」と書いた。
しばらくして、その下へ「今も怖い」と足した。
紙を封筒へ入れた。表へ娘の名を書こうとして、日曜の日付を書いた。渡す手紙ではなかった。




