第13話 本当の離婚の理由
日曜の午後、結菜は食卓の上から何もかも片づけた。
式場の冊子、ペン、昨日買った雑誌。端に寄せるのではなく、一つずつ自分の部屋へ運んだ。紗枝は二つの湯のみを置き、紙の入った封筒を膝に持った。
「用意できた?」
娘に聞かれ、紗枝はうなずいた。
「結菜は」
「聞く」
紗枝は背を伸ばした。紙を出そうとして、やめた。娘の顔を見ないまま読むのは違うと思った。
「お父さんと離婚したのは、私が不倫したからです」
結菜は動かなかった。
窓の外を、電車が通った。いつも聞いている音が、長く続いた。
「同じ職場で知り合った人と、結婚している間に付き合った。お父さんがそのことを知って、話し合って、離婚した」
「お父さんが、じゃなくて」
結菜はそこで言葉を切った。
「私が、です」
紗枝は答えた。
「お父さんが先に家庭を捨てたわけじゃない。お父さんの仕事が忙しかったから、不倫しても仕方なかったわけでもない。私が選んでしたこと」
娘は湯のみを両手で囲んだ。持ち上げずに、そのまま置いている。
「その人と、一緒になりたかったの?」
「その時は、そう考えてた」
結菜の指が、湯のみから離れた。
「私も、一緒に?」
紗枝は答えが出なかった。娘を連れていくつもりだったと、今なら言える。置いていくつもりはなかったとも言える。どちらも、当時きちんと考えたことではなかった。
「そこまで、考えてなかった」
「私がいるのに?」
「うん」
結菜は椅子を少し後ろへ引いた。椅子の脚が、床をこすった。
「その人、今も会ってるの」
「会ってない。離婚したあと、長くは続かなかった。今は連絡も取ってない」
「離婚する前に、お父さんは知ったの」
「不倫を知って、それから話し合った。私が隠してたこともあって、何度も」
紗枝は言葉を切った。結菜は机の木目を見ていた。
「六歳の時だよね」
「そう」
「それで、私がお母さんと住むって、二人で決めたんだ」
「うん。私と暮らすことも、お父さんと会うことも、二人で決めた」
娘は口を開き、何も言わずに閉じた。
台所で、冷蔵庫のモーターが回り始めた。
「私、お父さんが悪いんだと思ってた」
「分かってた」
「お母さんが、私を守るために別れたんだって。お父さんと暮らせないって、そういうことだと思ってた」
「ごめんなさい」
「ごめんは、ちょっと待って」
結菜が顔を上げた。
「私が何て言ったか、覚えてるの?」
「引っ越したあとに、お父さんが悪いんだね、って。正確に全部覚えてるわけじゃない。でも、その言葉を否定しなかったのは、覚えてる」
結菜は、しばらく紗枝を見た。
「そういうこと、言ったと思う」
「うん」
「六歳に、不倫だって話せないのは分かる。でも――」
娘は下を向いた。紗枝は膝の封筒を置こうとして、手元に留めた。
「私、ずっと六歳だったわけじゃないよね」
「そうだね」
「小学校の時も、中学も。高校の時だって。お父さんの話、したよね」
「した」
「その時も、知ってたんだ」
紗枝はうなずいた。
結菜が湯のみを押した。お茶が縁まで揺れ、少しこぼれた。
紗枝は立って布巾を取りに行った。戻ってくると、結菜が、そこ置いといて、と言った。
「私がこぼしたから」
娘が自分で拭いた。紗枝は立ったまま、娘の指が布の角を折るところを見ていた。
「座って。話、まだ終わってない」
紗枝は座った。
「何で、言わなかったの」
「結菜に嫌われたくなかった」
「お父さんは、嫌われててもよかった?」
紗枝は否定しかけた。娘の前に、濡れた布巾が置いてあった。
「……そのままにした。私をかばってくれるのが、うれしかった」
結菜は目を閉じた。紗枝は、娘が何かを思い出しているのかどうか、分からなかった。
「お父さんのところから帰ると、お母さん、機嫌が悪い日があった」
「うん」
「私が楽しそうなの、嫌だった?」
「嫌な日が、あった」
声がひどく小さくなった。結菜が聞き返さなかったので、聞こえたのだと分かった。
「楽しそうにお父さんの話をされると、置いていかれる気がした。自分がしたことも、思い出すから」
「だから、旅行も?」
「別の日を言われたのに、ちゃんと伝えなかった。結菜がもう行かないと言った時、もう一回誘ってみたらとは言わなかった」
「お父さんじゃなくて、お母さんがやめたかったの」
「そのまま終わって、ほっとした」
結菜は両手を膝へ下ろした。足だけ、何度か組み直した。
「画材も、忘れただけじゃないんだね」
「うん。お父さんからだと言ったら、お礼を言うでしょう。私にありがとうって笑ってくれたのが、うれしくて、そのままにした」
「そんなの」
娘は顔を背けた。
「お父さん、私に何もしてくれない人みたいだった」
紗枝は黙って聞いた。
「会う約束はやめるし、誕生日も忘れるし。それでも年始とかには連絡しなきゃって思ってた。あの人も私のお父さんなんだから、って」
「ごめんなさい」
「お金も、送ってくれてたんだよね」
紗枝は顔を上げた。
「結菜を育てるためのお金を、養育費として約束どおり受け取っていた。学校のことも、必要な時には相談した。私一人のお金で、全部まかなっていたわけじゃない」
「私、お母さんがお金で困ってる時も、お父さんは何もしてないと思ってた」
「お金が足りない時はあった。でも、お父さんが何もしていなかったわけじゃない。私がそう思わせたまま、苦労してる話だけをしていた」
結菜が、片手で目元を押さえた。紗枝はティッシュの箱へ手を伸ばしたが、娘が先に取った。
慰めようと触れることはできなかった。
「お父さんに、何て言えばいいの」
「結菜が謝らなければいけないことではないと思う」
「それ、お母さんが言うの」
紗枝は息をのんだ。
「……ごめん」
「私がどうしたいかは、私が考える。お父さんと話す」
「うん」
娘の目から涙が落ちた。
小さい頃、娘が泣くと、紗枝は原因を取り除こうとした。忘れた物を届け、破れた紙を直し、痛いところを冷やした。今日は、目の前にあるものを取り除けない。
「……今、ひどいこと言いそう」
娘が言った。
「お母さんがしてくれたこと、知ってるのに」
紗枝はうなずいた。娘は顔を上げなかった。
「知ってるから、何も言えなくなる。そんなの、嫌だよ」
紗枝は封筒を食卓へ置いた。握りすぎて、角が曲がっていた。
「聞いてる。結菜の話を、聞くから」
結菜はしばらく泣いた。紗枝は座ったまま、娘が顔を上げるのを待った。
「ほかに、今、言わないでることある?」
「離婚の理由と、そのあと私が結菜とお父さんの間で隠していたことは、今話したとおり。聞きたいことがあれば、答える。覚えていないことは、そう言います」
「その人のことは、詳しく聞きたくない」
「分かった」
「お父さんに、私が聞いたことを伝える?」
「話したことだけは、私から伝えようと思ってる。結菜が何を言ったかは、伝えない」
「うん」
結菜が立ち上がった。湯のみには、まだお茶が残っていた。
「今日は、もう話したくない」
「分かった」
「和樹に会ってくる。帰るかどうか、あとで連絡する」
紗枝は、夕飯をどうするかも、何時になるかも聞かなかった。
娘が鞄を取りに行く間、食卓の封筒を手元へ引いた。これを渡して読んでもらえば、自分の反省がもう少し伝わるかもしれない。そう考えたが、封筒は食卓に置いた。
結菜が玄関へ向かう時、紗枝は立ち上がった。
「今日は、帰らなくてもいいから。服が必要なら、取りに来て」
結菜は振り返らず、うん、とだけ答えた。
戸が閉まったあとも、紗枝はしばらく立っていた。
湯のみを片づけ、康文へ短い連絡を送った。離婚の理由と、説明を訂正しなかったことを、今日話しました。それ以上は書かなかった。
食卓には、封筒が一つ残った。
紗枝はそれを自分の部屋へ持ち帰った。電話も机に置き、居間へ戻った。




