第14話 感謝とは別の話
その夜、結菜からは、和樹の部屋に泊まると連絡が来た。
紗枝は、分かった、と返した。娘の部屋の扉は開いていて、仕事の服が何枚かかかっていた。
紗枝は電話を置き、二人分炊いたご飯を小分けにした。冷凍庫には、先週のものも残っていた。奥へ押し込まず、古いものを手前へ出した。
月曜は、いつもより早く家を出た。勤め先に着いても、まだ廊下は暗かった。机の上を拭き、前の週に届いていた封筒を開ける。請求書を二度読み、金額を写した。
昼休みに電話を見た。結菜からの連絡はなかった。
康文からは、昨日の報告への返事が来ていた。
〈分かりました。結菜とは、こちらで連絡します〉
娘がどんな様子かを尋ねる文はなかった。紗枝も、娘が今どこにいるかを知らせなかった。
帰宅してから、冷凍庫のご飯を温めた。一人分を別にしても、おかずは多く作ってしまう。小さい容器が増えていった。
煮物を詰めた容器のふたを、二度開けた。和樹の部屋まで持っていけば、温かいうちに食べてもらえる。どの駅で降りるかは、以前聞いていた。
結菜との連絡を開いた。最後にあるのは、泊まるという知らせと、自分の「分かった」だけだった。
容器を冷蔵庫へ入れた。翌朝、半分を弁当に詰めた。
火曜の夕方、結菜から連絡が来た。
〈明日、服を取りに行く。お母さんが帰ってからでもいい?〉
紗枝は時間を伝えた。待っている、とは書かなかったが、帰宅してから時計を何度も見た。
結菜は八時前に来た。鍵を持っているのに、呼び鈴を鳴らした。
「開いてるよ」
言いながら、紗枝は玄関まで行った。
娘は仕事用の鞄と、大きな布袋を持っていた。靴を脱ぎ、まず自分の部屋へ入る。扉は閉めなかった。
「お茶、入れる?」
「今は大丈夫。先に服、まとめる」
紗枝は居間で待った。
引き出しを開ける音、ハンガーの触れ合う音。娘がこの部屋から物を持ち出すところを、こんな形で待つとは思わなかった。
結菜は袋を抱えて出てくると、食卓へ座った。
「少し、話してもいい?」
「もちろん」
紗枝は急いで向かいへ座った。その速さに娘が身を引いたように見え、椅子を少し離した。
「しばらく、和樹のところから仕事に行く。向こうの方が少し遠いけど、通えるから」
「和樹さんは、大丈夫なの」
「二人で話した」
娘は短く答えた。
「新しい部屋を決めるのは、予定どおり。今すぐ引っ越しを決めるのは、違うと思うから。荷物は、少しずつ取りに来たい」
「分かった。持っていく物は、出しておこうか」
「自分で選ぶから、そのままでいい」
紗枝はうなずいた。何かしていなければ、話している娘の前で、ただ待つしかない。
結菜は布袋の持ち手を膝へ置いた。
「この何日か、いろいろ思い出した。お父さんのことも、お母さんのことも」
紗枝は両手を重ねた。
「今日、職場で、結婚したらお母さん寂しがるねって言われた」
紗枝は返事を待った。
「いつもなら、そうですねって言うんだけど。今日は、言えなかった。変な顔したと思う」
結菜は袋の持ち手を指へ巻きつけ、ほどいた。
「ご飯、置いてくれてたこととか、学校のお金、一緒に考えてくれたこととか。そういうのまで嫌になったわけじゃないよ」
「うん」
「でも、今、ありがとうって言ったら、それで終わりにされそうで」
紗枝は、そんなことはしない、と答えかけた。
「この前、園子に、私が育てたんだって言った」
結菜の指が止まった。
「……うん。私にも言うと思った」
「言おうと、思ってた」
娘は椅子の背へ寄りかかり、天井を見た。
「何かしてもらったの思い出すたび、怒るのが下手になる。今も、服だけ持って帰ればよかったって思ってる」
紗枝は、膝に重ねていた手を離した。
「聞くから。ここにいる」
結菜は天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「今は、許すかどうか、決められない。式に来てほしいかも、まだ分からない」
紗枝の膝の手に力が入った。
「式のことは、すぐ決めなくていい」
「私が来ないでって言ったら、受け入れられる?」
「……受け入れる」
声が止まった分だけ、娘は待った。
「来ないでって言われたら、会場には行かない。そこは約束する」
結菜は返事をしなかった。
窓の外を電車が過ぎた。娘がこの家に来てから、もう三度目だった。
「お父さんと話した」
結菜が言った。
「そう」
「私がお父さんを嫌ってたことを話したら、知らなかったんだから、私が謝り続けることじゃないって。あの頃、自分も説明しない方がいいと思ってたって言われた」
紗枝はうなずいた。
「でも、私にはその時間が戻ってこない。お父さんにも、戻らない。これから会えばいいって、すぐには思えない」
「そうだね」
その短い返事のほかに、紗枝が言ってよいことは見つからなかった。
「お父さんに、怒っていいかも分からなくなった」
娘が続けた。
「何で話してくれなかったのって。でも、お父さんにとっても嫌なことだったんだろうし、私を困らせないつもりだったんだろうしって、先に考えちゃう」
紗枝は、父も悪かったと言えば、少し楽になると思った。
娘はすぐに続けた。
「お母さんに、お父さんのことを決めてもらいたいわけじゃない。ただ、今、そう思ってる」
「うん」
「お父さんと話して、自分で決めたい。お母さんから、私がこう言ってたとは伝えないで」
「伝えません」
紗枝は椅子の背から体を離した。
「お父さんに連絡しない。結菜から聞いた話も、私からは言わない」
結菜は返事をせず、布袋を少し手前へ引いた。
「私は、今、結婚のことも考えたい。ずっとお父さんとお母さんのことばかり考えていたくない」
「分かった」
「お母さんから、しばらく連絡を控えてほしい」
結菜は、持ち手から手を離した。
「仕事のあとに、今日はどうだったって来ると、返事を考えるだけで、またあの話になる。元気って言わなきゃいけない気がする」
「分かった」
「必要なことは、連絡していい。荷物とか、家のこととか。でも、私の気持ちが変わったかを、毎日確かめないで」
「うん」
「和樹や、おばちゃんを通して聞くのも、やめて」
紗枝は顔を上げた。
「しません」
紗枝は言い直した。
「おばちゃんにも、そう言っておく。様子を教えてって頼んだりはしない」
娘は、ありがとうとは言わなかった。
立ち上がり、棚に置いた色鉛筆の箱を取った。布袋へ入れようとして、箱が横に長くて入らず、別の袋を探す。
紗枝は食器棚の下から、平たい紙袋を出した。
「これなら、入ると思う」
「ありがとう」
紗枝は袋を渡した。結菜は箱の角が当たらないように、口を広げた。
結菜は玄関で靴を履き直した。紗枝が見送ると、娘は鍵を取り出し、少し迷ってから鞄へ戻した。
「まだ、持ってていい?」
「もちろん」
「来る時は、先に連絡する」
「分かった」
娘が出ていったあと、紗枝は、置いていったマフラーを見つけた。秋物の薄いものだった。
忘れてるよ、とすぐに送りたくなった。玄関へ戻り、傘立ての上ではなく、娘の部屋の椅子へかけた。
居間へ戻り、用意したまま使わなかった二つの湯のみを棚へ戻した。
紗枝は翌朝の米を量った。炊飯器の目盛りをいつもより下まで見てから、予約のボタンを押した。




